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言えないから辛いのだ

 何でも言える相手など、親くらいしかいない。

 だが、そのうち親にも言いたくない内容の悩みが出てくる。だから辛いのだ。

 生まれた家の中の問題は、外には出せない。
 言えない。だから辛いのだ。

 自分の家の問題は自分たちで解決しなくてはならない。
 人様は関係ない。

 そして自分の家の問題を外に出してしまうということは、一家全体の中身を社会にさらしてしまうということになり、一家そのものの社会的な評価を下げてしまうことになる。

 「うちではこんなひどいことがあるんだよ!」と言いふらしてしまえば、他人はそれを聞いて面白おかしくまた言いふらす。

 自分たちにとってマイナスにしかならない。
 他人は他人。人のことは所詮他人事だ。どんなに気の毒であっても、自分の子供のように心配はしてくれない。守ってもくれないし、「あの家はそういう家なんだな」で終わる。

 親切な人は何かあれば手を貸してはくれるだろうが、それでも自分の家族を捨ててまで人の家の誰かを助けない。

 何よりも、自分の親の格や家の名誉を下げることを、普通はしない。親の悪口を言いふらせば、「そういう親の子だから親の悪口を言いふらすんだよね」と納得されるだけだ。

 人になかなか言うことはできないから、辛いのだ。
 余程信頼して、口外しない人でなくてはなかなかそんなことは言えない。後から人に言ってしまうかもしれない人ならば、そんなことは言えない。

 誰でも自分の親を他人に悪く言われたくはない。
 だから悪口を言っても他人は同意はできない。

 人の親の悪口は、一緒になって言えない。
 大変だね、可哀想にね、とは言えても、心の中で思っていることはさすがに言えない。

 それがわかっているから、言えないのだ。

 人に言えないから、過ぎて解決したことしか人には話せないから、人は悩むのだ。

 子供は親になんでも相談する。しても構わない。

 だが、例えば同性の友達との問題を恋人には言えない。

 あっちの問題はあっちの問題。
 そんなことを話されても、恋人は困るから。
 友人関係は友人関係。恋愛関係は恋愛関係。別々のものだから。

 何よりも、人に悪く思われたくないから言えない。
 友人のことを悪く言う人間だと思われたら、恋人に幻滅される。だから言えない。

 友人のことを悪く言う人間になりたくないから、言えない。

 仕事のことを恋人に言えない。
 家庭の中に持ち込めない。

 恋人にも家族にも、外での役目があるから。
 自分だけが外で活動しているわけではないから。

 本当に困ったとき、夫婦なら相談もできる。
 だが、職場での嫌なことを家の中でグズグズと愚痴れない。家族だって色んなことがあるのに、気分が悪くなるから。

 せっかく家族でいるのに、ここでは安心な場所なのに、家庭が嫌な場所になるから。

 悩みの殆どは、人には言えない。

 自分が抱えた問題だから。
 現実的に解決すべき相談ならば人にもよりできるが、心の問題については人には言えない。

 気分の問題。気持ちの問題。

 そんなことを話されても、他人にはどうにもできないから。

 聞いてくれるだけでいいから、とお願いすることはできるが、相手が嫌かもしれないし、聞く義理もないから。

 話を聞いてくれるだけなら簡単だとは言えない。

 聞きたくもない話を聞かなくてはならないのは、苦痛だから。

 だからこそ、親しい友人と、恋人と、家族と、他での辛いことに耐えて今この場所とこの時を大切に過ごす。

 辛いことは辛いことでしかないし、苦しいことは苦しいことでしかない。

 だが、会えばいつも笑っているような友人たちがいる。

 楽しい話ができる友人がいる。

 いつもいつも暗くいつもいつも問題を抱えている人といれば、人は嫌な気分になる。

 誰もが辛いことを抱えているが、それは自分で解決すべきことだから言えないし、顔に出せない。

 みんなも他での時間があるから、言わなくとも何かいつも抱えているのだから。

 そんなことは、言わずもがなでわかっているから。

 夢の楽園に生きている人はひとりもいない。

 全員同じ社会に生きている。

 だから何もない人はいない。

 自分の辛さだけ人前で出すわけにはいかない。

 相談をすれば聞いてくれる友人がいて、愛してくれる恋人がいる。

 他での問題をこっちにまで持ってこない人たちがいる。

 この、自分との関係を大切にするために、他では何もないような顔でいてくれる人たちがいる。

 「お前といるのだから、そんな話はしたくない」

 と思ってくれる人たちがいる。

 悩みなど、余程打ち解けて心を許されない限り、話してはもらえない。

 気を許して安心してもらう相手になることは、とても難しい。

 聞いてくれれば誰でもいいわけではない。

 人は相手を選ぶ。

 信頼されて、心を許してもらえなくては何も話してはくれない。

 今抱えている問題がない人などどこにもいない。

 どこにもいないのだ。

 どこにもいないが、信頼されていないならば何も言ってはもらえない。

 気を許している人の前でしか、人は弱さを出さない。

 そして常に信頼できる人が近くにいるわけではない。

 そんな時は、心の中にいる友人や恋人、家族や仲間を思い、自分で自分を励ましていくのだ。

 問題を抱えていない人など一人もいないのに、神経症者は自分一人が問題を抱えていると思い込んでいる。

 と言ったのは、アドラーだったと思う。

 勿論、全員何かの問題を抱えて常に悩んではいる。

 仲間が十人いるならば、ひとりひとりと個々に信頼関係を結んでみればわかる。

 それぞれ他の仲間に言えない悩みを抱えているから。

 十人いても、本当に信頼されなくては話してもらえないとわかるから。

 何もない人はいない。

 一人もいない。いるわけがない。

 「言わないから悩みがないんだ!」と思うのは、信頼されていない人だけだ。

 信頼もしていない人だけ。

 人は話をする相手を見る。

 この人に話したら、馬鹿にされそう、軽く扱われそう、頼りになる意見を言わなそう、無責任なことを言いそう、人に言いふらしそう、陰で悪口言われそう、後から何か言われそう………そんな風に、信頼できないと思える人には人は本当の悩みを話さない。

 この人に話したら、親身になってくれそう、大事に扱ってくれそう、頼りになることを言ってくれそう、口が堅そう、陰で悪く言わなさそう、馬鹿にしなさそう、気持ちをわかってくれそう、後に引きずらなさそう………そんな風に、安心できそうならば人は悩みも話す。

 それらを、なんとなく、普段のその人の言動から感じ取る。

 「この人に話しても、なんの解決にもならなそう。」

 そう思われている人は、誰にも何も言われない。

 何よりも、自分の問題を自分で解決できず、いつも愚癡や悩みばかり抱えてくる人は最も頼りにされない。

 するわけがない。

 信頼されない人は何も言ってもらえない。

 言ってもらえないが、信頼されない人ほど人が話したくないのに話を聞き出そうとする。

 人は話したくないことを無理やり聞き出されると傷つく。

 そんなことすらわからない人は、自分がただ安心するために人を傷つける。

 頼りにならない。

 信頼もできないし、安心もできない。

 だから必要とされない。

 大変だ大変だと言っている人は、信頼されない。

 自分だけが大変で、言わない人は何もないのだと本当に思い込んでいるから。

 何もない人はいない。

 相手の生活や、普段を想像すれば容易に理解できることだ。

 きちんと努力して想像すれば。

 だが、一人の世界が好きな人は、他人の気持ちを想像して理解したら、負けだと思っている。

 どちらかしか生き残れない世界が好きだから。

 ふつうは、一人しかいない場でなくては、個人的欲求は捨てる。

 二人いたら、自分一人の目的など持ち込まない。

 自分一人だけの欲求は、一人で満たすものだ。

 誰かがいないと満たせない欲求は、すべて諦めるものだ。

 それはただの願望。

 願望を要求化したら、叶っても全部ごっこ遊びで現実に起きたことにはならない。

 自然に一致しなくては、現実とは呼ばない。

 人を操作するために何かする人は、願望のために行動してそれが実現すると勘違いしているのだ。

 「私は~したのにあの人は~したくれない!ひどいよね!」

 まだ、この世界に他人がいると知らない。

 ひどくはない。

 毒親はよくこれをやる。

 自分と連動する人など一人もいない。

 子供ころは勘違いして「この世界に自分だけ特別な存在としているのだ」と思い込んでいる。

 だからどんな親の子もひどいひどいと不満は持つ。
 まだ他人が自然に勝手に動いたこと以外を、「現実に起きたとは呼ばない」と知らないから。

 「ひどい!」「おかしい!」なんて存在しないと知らないから。
 「これが現実だ」と受け入れる時に、誰もが体験しなくてはならないショックだと知らないから。

 それが当たり前で、そのショックを全員が乗り越えていくのだと知らないから。

 だからこそ、自分がどうにかなればなんとか他人が動くのだと思い込んでいる。

 自分が人に合わせて動いた「つもり」だから。
 実際にはそれが「操作」と呼ばれる行為だと知らないから。

 「怒られるから仕方なくやった」は子供のうちならしょうがないことだと言えるが、大人になって、または他人に対してやったら「相手のご機嫌を取るための操作」だと知らない。

 自分が被害者だと思っているその行為こそ、「人を操作する行為」だと知らない。

 そのうち、「親も自分と同じ人間なんだ!」とわかる。

 気づく。

 その時、自分が何をしてきたかに気づくのだ。

 人の気持ちなどあると思ったことが無い。

 親も人の子。

 自分と同じ。

 子供も人の子。

 自分と同じ。

 全員が、常に問題を抱え、悩み、苦しみ、それでもこの世界を生きているのだ。

 辛い気持ちを乗り越え、それでも今、この人が一緒にいてくれるのだからと心を奮い立たせ、辛く長い道のりを歩いていくのだ。

 人生は重き荷を背負いて、遠き道を行くが如し。

 最後までこの重き荷を背負って生きていくのが、それぞれの運命なのだから。