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我慢と恨みの仕組み

 恨みはどこから来るのか。

 色々な理由があるが、我慢していると本人が思った時に恨みが発生するのではないだろうか。

 個人ではなく、政治的な動きを見ながら考察している。と先に前置きしておきたい。

 正直、個人のことについて僕はそこまで気にしていない。
 大きな動きの中の一部としか捉えていない。

 個は集団になれば力を発揮するが、個のままなら大したことはできないからだ。

 我慢と恨みの連鎖が起きているのだなと現在他国間で起きる問題を見ていて思う。

 子供は親に我慢させられたと感じているが、その我慢はどこからやってきたのか。

 親は我慢していないのか。
 勿論している。子は親を恨みやすいが、恨んだらそこで終わる。

 恨んだ人は人生で最初に乗り越えるべき問題から出られないまま、終わっていく。

 親への恨みはどうでもいい。
 僕はそう考えている。
 神経症は親子関係から始まるが、別の言い方をすればそこから出ることができなかった、親を好きになることも関心を持つことも、親を大切にすることもできなかった人だとも言える。

 「最愛の人に対する最大の憎しみ」だっただろうか、そんな葛藤を乗り越えなくてはならないと言われている。

 それは確かにそうだろう。

 僕は早くにそこは乗り切ったので、人類に対しての考察として更に先を考える。

 親に~してほしかった。ここを終わらせて「なぜ親はあんなことをしたのだろうか?」と考えていく。
 最後には政治に辿り着く。

 政治は政治だが、過去のことなので一般的には歴史と呼ばれる分野まで思考を広げなくてはならない。

 兎に角、常にどこかで流れをせき止め、自分だけが得をしたい、欲を満たしたいと「自分の働き以上に欲を貪っている個体」がいる。

 自分の働きに応じたご褒美しか得ないのが当然だ。
 だが、あれこれと正当化する理由をつけては一人で何十人、何百人前と欲を満たしている個体がいる。

 一般的に贅沢と呼ばれる行為に見えても、それを必要とする人がいる。それ相応の立場にいる。それ相応の役目や働きをしている場合だ。

 必要以上に贅を尽くしている個体がいれば、他で不満が爆発するのは当然だ。

 想像力があれば、人のことを考えられれば、誰かに働かせて得をしようと思えない。
 そして何よりも、他人から奪おうと思わない。

 奪うならば、得をしている人、働き以上に贅を尽くしている人から奪おうとするだろう。

 結局は贅沢したいだけ。何もできないと低い自尊心を持つ人ほど、他人が生み出したものを欲しがり、他人のものを真似して持っては「自分にもできた!」と思い込む。

 もっともっとと物を集めたがるのだ。

 他人が持つものを持っていないから価値がないと思い込んでいる人は、他人が持つものを持った時には持たない人を見下す。

 そこに絶対的な価値があると思うから、人間を持つものと持たないもので差別するのだ。いじめる側が逆転しただけの支配関係だ。

 子供は親が好きなものかと思えば、そうでもないらしい。

 親を親として見ていない人もいる。

 親がくれたものに対して、無駄に使うことは罪悪感を伴う。

 親が犠牲となって得たものだと知っているからだ。

 他人は違う。だから他人からはいくらでも吸い上げる人がいる。

 他人からももらったら他に回していくものだ。

 次はあなたの番だよ、と教えも物も、回していくものだ。

 広げていくと言えばいいだろうか。

 お前と俺、と区別していたいのは、張り合いたい人だ。
 みんなで幸せになろうとしない。

 そうした個体は、自分だけ、と吸い上げていく人に不満は持てない。
 より社会的に上の立場になった自分がやっているのだ、と思えば、吸い上げられることにも耐えて当然だ。

 非常に、低レベルな戦いを世界的にやっていると思う。

 しかしながら日本は侍の国。
 我が身を捨てて志に生き、仲間と共に切磋琢磨し自己鍛錬に励む国民の国だ。

 このままでよいわけがない。

 生きていけるのに人を見て羨み、より贅を尽くしたいなど凡そ侍の持つ感覚ではない。

 他人と比較して他人の持ち物を羨む人が実際には沢山いるというが、本当にそうだろうか。僕は信じない。

 何か深い考えあり、人に見えないところで精進しているのが日本人だ。

 それが侍と言うものだ。

 一見して遊んでいるように見えても、それには深い意味がある。
 敵を欺くにはまず味方から。
 いい年をして本当にただ遊んでいる人がいるわけがない。

 実際には、誰にも知られないように何かをしているものだ。

 誰にも知られないようにするものだから、誰も知らないのが当然だ。そのような人は、おそらく五年、十年経った時に成果を見せてくれるだろう。

 だから一見してわからないことをしている人も、気にすることはない。

 精神分析はともかく、個人的にはそう考えている。
 なぜならば、精神分析を含む心理学はドイツが先陣を切ってくれたと言える分野だが、僕は日本人だからだ。

 日本は島国で、鎖国をしていた。彼らとは違う。

 サイコパスなんて言われるが、実際にはそんな人がいるのかどうかと僕は思う。

 ただ個人的に恨みがあった人が、誰かをひどい悪魔にしたかっただけではないだろうか。

 僕個人の考え方と、精神分析学的な結論はだいぶ違う。

 一応どちらも書かなくてはならないし、引き合いには出すが、実際に日本人の中にそんな人はいないだろうと僕は思っている。

 どうせ確認などできないのだから、好きに考えていたほうがいい。

 心の中は恨みや憎しみでいっぱい。
 人を見張っては他人の持ち物を羨んだり奪いたがったり、気に入らないやつを傷つけて喜んだり。

 そんな人間がいるわけがない。それでは悪魔だ。
 人間の中にそんな部分があっても、それが全部ならば人間ではない。だから人間の中にはいない。

 だからこそ、全体の動きを見ていて考える。

 この国全体が我慢しているならば、この国が何かに屈して我慢しているということだ。

 また、この国の中に自分だけと吸い上げている個体がいるということだ。

 なぜだ、と考える。
 何か理由がある。すべてに。

 何が起きているのか、常に考えている。

 「お前が悪いんだからなんとかしろ!」

 という意見が論外なのは当然だとして、そうした個体が多く発生していることについて、原因を考えている。

 僕はとにかく、黒船来航したとき実際には何があったのかを考えている。
 おかしい、と思えることがあるからだ。

 物差しとして自分の一族という確認可能なものを持っている。
 事実あったとわかっているものがあるのだから、そこを基準に考える。

 この物差しを持つ人を確認する方法を、一部だが知った。
 照らし合わせて集めていく必要がある。

 言われていることは言われていることでしかない。

 実際に社会に出ると、社会の裏側を知る。

 僕など大したものではない。社会の多くを知らない。
 誰もが学ぼうとすれば学べるものすら知らない。

 経済学者、社会学者、政治学者、様々な分野の学者に加え、実際に体験している人、政治家になったわけではない。

 表向きと実際のところが違うのだから、表面に出している部分から考察していかねばならない。

 少なくとも、実際の歴史と残される歴史が違うことは、子供のころから知っている。

 沖縄の人たちなどは、それを痛いほどよく知っているので最も社会の正しいなど信じないだろう。

 日本人は急に正しいと思うことが変わった。

 なぜ?

 それぞれが自分の親に、またその親に聞けばいい。

 誰かのところで、いきなり変わったのだ。

 元々、日本は世界的に見れば様々なものにおいて弱小。
 自分たちが持つものを手放せば最悪なことになる。

 僕も過去に、自分たちの誇る伝統技術を古臭いと馬鹿にして西洋のものばかり欲しがってはいた。

 今になって、それが間違いだったとよくわかった。

 目に見えたものではない、とよくわかった。

 日本だからこそ発達できた部分があるのだ。
 それを手放してはならない。

 真実が簡単にメディアで公表などされない。
 何かが伝えられたら、実際には何があったのかと考える必要がある。

 そしてなぜ、今これが流れてきたのかを。

 心の仕組みがわかっていれば、見当はつく。
 だが、わかっただけではどうにもならない。

 どうするか方法を考え、実行する必要があるのだ。

 おそらくは、まだ自分では考えたことがない人もいるのだろう。
 他人に言われたことの寄せ集めで生きているというか、背景があり結論があるとわからないというか。

 「どうしてこうしたの?」
 「だって誰誰がこう言ったから。」

 自分の考えは何もなく、「他人が自分の一部だ」と思っている。

 自分以外の人たちで自分の今後を決めるのだから、気に入る人だけ残す方に躍起になるだろう。

 このような状態のまま、大統領にだって上り詰めるのだから人間は恐ろしいものでもあるし、面白いものでもある。

 「大統領がこんなに大変だと思わなかった。」

 と就任後のトランプ氏。

 だが、素直な日本人は他人が言ったことには不満があっても従うし、自分たちのためを思って権威は何かを決めていると信じている。

 親も信じないのに、なぜ他人がそこまでしてくれると思うのか。不思議でならないがそれもまた良い子の条件なのだろう。

 素直に自分の気持ちを認めないものだとは聞くが、そんなに長い間我慢はできるものだろうか。

 自分でも自分がカッコ悪いとかみっともないとか、情けないと思う発想は勝手に出てくるものだ。

 そんなものが止められるわけがないのに。

 自分が自分の気持ちを評価すれば、都合のいいことしか見なくなるだろう。

 感じているものを言語化せず、いつまでも「私は私がわからない」を続けていくしかない。

 望ましい自分しかいない!と思い込むためには、我慢して実際とは異なる自分のふりをして生きるしかないだろう。

 なるほど、自分に我慢させ、自分への憎しみを他人への恨みに変えるのだろう。

 その恨みを利用して、大きなものを動かし、より大きな力で恨みを晴らしたい人の力になるのか。

 どっちもどっちと言うか、やはり同じ方向性の人たちしか一緒にはなれないのだ。

 個の恨みは集まり、もつと上にいる個の恨みのために使われる。

 エネルギーの流れを考えると、やはり人間はたった二人なのだろう。

 物質的にはたった二人の一部なのだろう。面白い。

 家族の時点で、右手と左手が喧嘩して体をばらばらにしていくようなことが起きているのだから。

 天の父はどう見ているのだろうか、などと考えてしまう。