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冗談言えない、ふざけない、優等生の親は子育てに向かない

 先日、高級住宅街付近で幼い子供を連れた母親を見た。

 エリートの妻かと思われる「きちんとしたお母さん」たちは、本人は「ちゃんとした大人」をやっている。

 子供に対しては「優しい態度で正しいことを教える」のだが、これでは子供の心は育たない。

 正しいことを「言葉で教える」のだ。

 なぜ、たかが二歳か、三歳かという子供に「言葉で教える」のか。

 母親は、ふざけることができない。想像力がない、冗談が言えない、心の世界を持っていない、楽しい世界を作れない。

 子供の世界は、自己中心的ではあるがすべてが遊びの世界、空想の世界だ。

 事実どうであるかは、どうでもいい年齢だ。

 幼児のうちは、事実などどうでもいいのだ。

 まだそんなことを知るべき時期ではない。教育は年齢に応じて、発達に応じて変化させていくものだ。

 ところが、遊びの世界で生きている幼児に対して、母親が「遊びの世界を作れない」のだから困ったものだ。

 「正しいこと」を教える。「優しい態度」できちんとしたことを覚えさせようとする。

 例えば、こんな光景がある。

 二歳程度かという子供が、スーパーの中でカートを引いて走ろうとする。

 すると、母親は言葉で制する。

 そして「正しいこと」を説明する。

 そんなことをしたら自分も困るし、お客さんも困るとか、「優しい態度」で説明する。

 僕はその姿を見て「この母親は頭が悪い」と思った。知能が低い。

 今の現実を見ていない。子供を見よ。二歳程度の子供だ。

 言葉の説明などわかるわけがない。

 ただ、母親が困った様子で叱っていることだけはわかる。母親のイライラした気持ちだけは伝わっている。子供は途端に不満そうな様子になった。

 こうして、母親は自分の欲求不満を子供にぶつけて教育している。

 「怒らないように、抑えているつもり」なのだろう。

 いちいち深刻に考える。母親が暗いのだ。

 子供に「正しいこと」なんて説明してわかるわけがない。

 その程度の年の頃は、やっていいこととやらなくていいことを「理屈」で教えても無駄だ。

 僕たち自身の時を思い出せばいい。

 みな、二歳、三歳の時に「説明された内容」を理解して、納得して行動した覚えがあるだろうか。

 叱られたらただ嫌な気分になるだけだ。まだ自分が言葉もうまく話せないのに、「説明」なんてわかるわけがない。

 三十になっても四十になっても、未発達で人の説明も聞いておらず、「叱られた」と感じるだけで聞いている中身が二歳の人だってごまんといる。

 現実の二歳の頃にあんな教育をしていたら、三十になってもまだ「叱られた」という感覚だけで聞く大人が育つだろう。

 子供は遊んでいるのだ。

 大人からどう見えようが、子供は悪意などない。ただ遊んでいるのだ。

 それが「良くないこと」だとしても、そのまんま「良くないことだから」と説明するのは大間違いだ。

 それは「母親が理解していればいいこと」であって、「そのまんま子供に伝えることではない」のだ。それでは子育ての放棄だ。

 説明だけして、後は「勝手に自分で判断しろ」ということになる。

 教育は、「育てるためのもの」なのだから、何が正しいとか、事実どうだとか、そんなものは教える側が理解していればいいだけだ。

 では、どうするか、それを考えるのが親の役目だ。

 そこで「どんな教育を生み出すか」がそれぞれの個性だ。

 正しいものなどない。本質的に必要なことはあるが、「この形が正しい」というものはない。

 そもそも親が生み出して親が自然にできることでなくてはならないのだから、他人が教えて真似させていいわけではない。

 仏頂面になっている子供を冗談で笑わせる。それが父親や母親のやるべきことだ。

 心の面倒を見るのだから。

 理想的な行動をとるために調教する必要はない。そんなことは社会に出たら会社でやってくれる。

 そこに至る前に、強い精神が育っていなくてはならないのだ。

 心の教育は家の中でしかできない。外に出る前から家の中で育てていくものだ。

 両親の実力は、そのまま子供の精神となって形作られていく。

 「優等生」にしていて欲求不満な親は、子供に「優しく説明」して欲求不満にしていく。

 そんなことをしなくても、スーパーの中で遊んでいる子供の世界に一緒に入っていき、遊びの中でやってはいけないことをやらなくなれば、それでいいのだ。

 心の世界を見ながら現実の世界に生きているのが子供だ。

 だから心の世界の中で、現実に困ることにならないようにしてあげればいい。

 ところが、母親自身が心の世界を生きていて、現実との区別がない。

 母親自身が心の世界で「ちゃんとした子」をやっている。たった今、我が子に教えたように心の世界に縛りを作っている。

 心の世界は自由だ。心の世界は全ての人に存在するものだ。

 それがわからないと、現実の世界で人の行動を縛るようになる。

 「~すべき」と言えば、それでいいと思っているのが優等生の母親だが、それは間違いだ。そんなことできるわけがない。

 「冗談で笑わせて、遊びの世界を作って」

 こう言われて、その母親はパッとふざけて子供の相手をすることなどできない。

 テンプレートのように、調教で覚えたことしかできない。「正しいこと」ができると、他人は褒めてくれる。それが優れているかのように勘違いできる。

 だが、テンプレートは誰でも真似できるものであり、逆に優れたものほどわかりやすく誰もが知っていて真似できることはない。

 「冗談で笑わせて」と

 「正しいことをきちんとやって」のどちらが簡単だろうか?

 優等生など、最も簡単なことを考えもなくやっているだけの無能な人間ばかりだ。

 「有能な人」と「優等生」は違うのに、「優等生」は「有能に違いない」と思われている。

 冗談も言える、ふざけて遊ぶこともできる。そしてきちんとすることもできる。

 そのように使い分けられて初めて意味があるのであって、「きちんとしかできない」になったらそれは無能でしかないのだ。

 「冗談なんて言えなくても、ふざけて遊べなくても、困ることなんてない」

 と思っている母親は、子供の気持ちを考えないからそう思えるのだ。

 社会できちんとしてくれていればそれでいい、優等生であればそれでいい。

 面白くもない子供を育てる母親は、本人が面白くもない人間だ。

 子供はふざけたくても、母親は自分ができもしないことだから冗談を言う人たちをバカにする。

 あたかも、「優等生」であることは優れたことかのように洗脳していく。

 そして心の育っていない、常識はずれの行動をとる大人になる。

 「二歳の子」なんて、常識で考えても言葉を理解できているわけがない。

 その程度のこともわからない馬鹿になる。

 この年の子供に、言葉で丁寧に説明して意味があるかなしか、その判断すらできないのに「雰囲気だけちゃんとした母親」がいる。

 しかし、その母親には「それ以外できない」のだ。

 覚えたことをやっているだけだから、自分で考えたわけではないから。

 皆さんが「勝ち組だ」と思って勝手に張り合って嫉妬しているエリート層には、父親にせよ、母親にせよ、耳障りのいいことばかり言うがふざけて人を笑わせることもできない人間が沢山いる。

 緊張をほぐすためにその場を冗談で和ませるなど、別に勉強ができなくてもできるような、誰でもやっていいようなことすらできない。

 「社会に認めてもらうためのロボット」

 人間の人生を捨てた代わりに、多くの褒美をもらう。

 高級住宅街がある街に行くと、よく見るのだ。本当によく見るお母さんたちだ。

 ちゃんとしたロボ。

 人間ではない。人間は柔軟性があり、その場に適応できる。

 雰囲気に合わせて、教わったことなどなくても今パッと生み出す。

 人間は、ひとりひとりが唯一無二。だからこそ本人しか生み出さないものだけは、容易にパッと生み出せる。

 それが人間だ。寧ろ、それこそ「なんにもできない人間」だ。

 何もできなくてもできる、人間の基本の能力でしかない。できても自慢にならない。

 ところが、できて自慢になることをできる人たちが、人間が当たり前にできることができないのだ。

 滑稽なことだ。

 そして、「優等生の価値」しか理解できない母親たちは、ふざけて冗談を言うような人たちを道化のように思ってきたものだから、自分は「恥ずかしくてそんなことはできない」とさえ思う。

 人間のくせにロボットになっていることの方が恥なのに、「きちんとしているのは優秀な証」だと思っているのだ。

 その「きちんと」は、局地的にしか通用しないとさえ知らずに生きていくのだ。

 「子どもか!何をしているんだ!」

 家の中でバカにされるような遊びをしている人の方が、まだ大人に近づいているのだ。

 ただし、そのように心の世界を持つ人も、それを隠すことに必死になるからどうにもならない。

 「ちゃんとした大人は、こういうもの」

 そう覚えこんだ人の洗脳の深刻さたるや、本当にどうにもならないほどだ。

 今は子供にさえ寛容になれない大人がいる。

 だが、だからと言ってそんな人に合わせる必要はない。

 「子どもはうるさいものだ」と当たり前に受け入れられない社会では、人間は生きていくことさえできなくなるのだ。

 「盆踊りの音がうるさい」と苦情が来たから、無音で盆踊りをを開催する。

 そんな馬鹿なことをした区があったが、文句を言う人が一人もいなくなるように、何もかも変えていったらこの世に存在できるものなどひとつもない。

 そうなものはそう。そこに存在するものがあるならば、それは意味あって存在している。

 そこに何か問題があるならば、問題を生まないように問題を消していけばいいだけだ。

 二歳の子供に言葉で説明する「優しい母親」は、表面から問題を消し、子供の心の中に問題を発生させた。

 自分が安心して楽になる代わりに、子供は欲求不満になり、思った通りに行動することもできない「優柔不断な男」に育っていくのだ。

 そして「言われたとおりにきちんとしていること」で自分が優秀になったかのように勘違いして、将来「モラハラだ」なんて言われることになるのだ。

 本当に、とても幼いうちから、洗脳は始まっているのだ。

 みな親を恨むのも大概にして、そういうのは本当の馬鹿にだけ任せて少しは考えるといい。

 親は親、親が馬鹿でも自分がその上を行けばそれでいいのだから。

 子育てをする母親が本当に悩まなくてはならないところがあるならば、「自分は冗談を言って人を笑わせることも、ふざけて友達と、夫とじゃれ合うこともできないこと」だろう。

 そこができなくて、形だけきちんと見せたところでそのうちストレスが溜まって何もかもぶち壊しになるだけだ。

 優等生には「ふざける」は怖いことだ。自己執着が強いから、皆がシーンとしてしまったらどうしよう、なんて心配してしまう。自分は冷ややかな態度を平気でとるから、自分がやられたらどうしようかと心配になる。

 最も自慢にもならない、優等生になることで身を守ろうとしたツケ。

 今までバカにしてきた人たちに向けた悪意で、地獄に落ちるしかないのだ。

 這い上がりたいならば、罪を背負って立ち上がるしかない。

 冗談もない、笑いもない世界ならば人は生きていて楽しくもない。

 自分が生み出せない「笑い」を誰に与えてもらってきたのか考えて、目に見えないものに感謝した方がいい。

 今は持つことがなくても、与えてくれた人に感謝ができたならば、これからその力を得る日も来るだろう。

 全てそのように、道理に沿って進むようにできている。

 何より、現代社会の大人はすっかり馬鹿になってしまっているが、「子供が言うことなんて聞くわけがない」と分かっていない。

 調教して大人しくさせるならばエサを与えればいい、人として教育するのではなく、チンパンジーの子を育てていけばいい。

 子供は自分の意思で動くのだから、言うとおりになどするわけがないのだ。

 「大人になったら、全部言うことを聞いて優秀になる」

 そんなものを目指したら、面白みもない、調教はされていても自分の発想もない、よくできただけの木偶人形になっていき、人としての行動もとれないのに人を恨んで自分の身を嘆くような、何もできない生き物になってしまうだろう。

 言うことをいつか聞けばいいのではなく「人は他人の言うとおりになど動かないのが当たり前」なのだ。

 自分で自分に命じ、自分でその責任を持ち覚悟を決めて生きていく。

 たったそれだけのことでいいのだ。

 洗脳されてきた人は、思うより遥かに簡単なことができればいいのだ、と知ってほしい。

 そうすれば、やっと自分の脳を使って自由に考え生み出し、自らの力で生きていくことができるのだから。