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加藤諦三先生と僕は正反対です

 加藤諦三先生は、僕が精神分析学を教わった先生です。

 一緒にラジオに出演させていただいていたこともあり、殆どの方は僕と彼が同じ見解を持って生きていると思うようですが、違います。

 彼の最新刊が出ました。読んで確信しました。

 有料会員向けには以前既に話していますが、予想通りの展開になってきました。

 親子三代を抜けることなく、「自分はこんなに頑張った」の点の存在で終わるでしょう。

 なかなかこの三代を抜けるのは簡単ではないようですね。

 有料会員向けには動画で配信もしますが、僕は彼とは正反対です。

 例えば、こんな違いです。

 「人は誠実に生きるべきだ」

 この言葉を聞いて、百人が百人同意します。

 正しいかどうかで言えば、それが正しいと思うからです。

 しかし、正しいと思うかどうかと、自分自身がそれが正しいと思うかどうかは違うのです。

 本当に本音で「人は誠実に生きるべきだ」と思っている人は、その言葉を口にする時に既に体験した過去を思い出し幸せな気分をよみがえらせます。

 過去にあった嬉しい体験などを思い出しながら、その幸せな感覚で言葉にします。

 「やっぱり、人は誠実に生きるべきだよね。」

 込められた感情が幸福なものなので、とても幸せそうな様子になります。

 一方、正反対なのに同じ言葉を口にする場合があります。

 過去に許せない人がいて、その恨みが晴れていない人です。

 自分はちゃんと誠実に尽くしたのに、相手が誠実にしてくれなかった!

 そのような恨みを抱えた人が言います。

 「やっぱり、人は誠実に生きるべきだよね!」

 この言葉には他人に同意を求める憎しみが込められています。

 同じ言葉を言いますが、内容は全く違います。

 本音でそう思えているのは、前者のみです。後者の本音は違います。

 「損した!悔しい!許せない!」

 要は、憎しみです。

 「人は誠実であるべきだ」

 これを他人に強要するのがべきの暴君です。

 「自分はちゃんとやっているのに、あいつらがちゃんとしない!」

 自分も我慢してやったのだから、皆も我慢しろ!

 傲慢であり、我儘です。内容は関係ありません。

 それが社会的に望ましいことであれば、他人を貶めても構わないと思っているのが「社会的理想教」の人々です。

 社会的に良くないことはやらないのが当然だ!と言う。

 望ましくないことなんだから、やめる方がいいに決まっている!

 この考え方は、自分一人で社会に生きているつもりの人が思うことです。

 バラバラに存在して、それぞれが「最高の人間」になるために生きているつもりなのです。

 共同体を生きている人は違います。

 まず「社会的に良いことは確実にやるべきこと」と思っていません。

 人間は良くないことをしたがります。人間だからです。

 望ましくないことはやめた方がいいのではなく「望ましくないとわかっているからやりたくなるもの」です。

 やりたいことをやるように、やめたくなったらやめます。

 「良くないことだからやめる」

 これは、良い人だと思われたいという自己執着です。

 そのあたりが理解できないと、正否が逆転した世界に行って自由になれないのです。

 僕は、体験があって後から言葉を知り、気づいた人間です。

 加藤諦三先生は、知識が先にあり、後から知識に基づいて体験を得たつもりになった人です。

 一緒にいたのでそれはわかっています。

 知識を先に得過ぎてしまうと、所謂「勝ち組負け組」のような差別を自分の中に作ってしまい、自分がなんとしてでも「勝ち組」になろうとしてしまうのです。

 先に優劣の区別を知ってしまうことで、自由を失います。

 知らない方がいいこともあるのです。

 彼は、85歳になるお爺ちゃんです。

 本人は若い頃と同じようにこうして本も書けている、と述べていますが、実際には思うよりできていません。

 できていないというのは本人の能力の話ではありません。

 一緒にいて、耳が遠くなりよく聞こえないまま、相手が述べたことを誤解して返答をしていると気づいたことがありました。

 その時、もう御年なのだなと寂しく思ったものです。

 もっとお若い頃にお会いしたかったものだと思いましたが、学んだことを次の代のために活かさねばと思いました。

 老人は、よく間違ったことを言います。

 仕方のないことです。

 ある大手飲食チェーン店の接客マニュアルには、

 「老人が間違っていても、決して間違いを指摘したり間違いとして扱わない」

 というものがあります。

 理由は、

 「本人はできているつもりで話しているから」

 幼い頃と同じです。できているつもり。

 実際にはできていないのに、子供ができたつもりですっかり威張っている姿を可愛いとおもうものです。幼児ですから。

 聞けば聞くだけなんでも教えてくれるのだから、聞いていて面白いと思えます。

 同じように、老人になるということは衰えるということです。

 彼はいつまでも若さを保ち同じことをしたいようですが、言葉では否定していて既にかなり矛盾してきています。

 みなわかっているものです。

 彼の周りにいても、彼にみな気を使っているのはよくわかりました。

 本人は「できているつもり」でいる時も、みな色々思うところはあります。

 それでも、誰も否定などしないだけです。

 わかっていて、みな黙っているのだということに彼は恐らく気づいていないと思います。

 有料会員の皆さん、予想は当たっていました。

 遂に、加藤政之助の名が出てきました。

 埼玉で学校の先生をやっていた、後に実業家そして政治家になった、彼の祖父です。

 やはりここに落ち着きますね。

 今まで一切出さなかっ名を、今になって連呼し始めました。

 道理なんですよ。こうなるのです。

 最後の最後まで、過去に向かって進んでいくその先が心配ですが、致し方なしです。

 最後の最後まで、「立派な人間」になろうとしているのだから、気の毒に思います。

 間違いを認める「ちゃんとできる人」

 過去を反省して受け入れている「成熟した大人」

 字面で先に知り過ぎてしまったのです。

 間違った方に進むので、この方法はやってはいけないんです。

 体験が先になくては駄目なんです。

 しかし、相変わらず引用している学者たちの話は正しいものです。

 本当に心理的に安心を得るために、最も大切なことは「人と親しくなること」。

 アメリカの心理学者シーベリーは、「仲間と一緒に和気あいあいと、朗らかに食事をすることで大抵の悩みは解決する」と言います。

 食事、一番大事なものです。本当にその通りです。

 僕も心理的に健康な家族に混ざり食事をし続け、前向きになることができました。

 話は聞いてもらえないです。愚痴や悪口は絶対に言わないのが健全な人々なので、不幸話は聞いてもらえないです。

 話がいつの間にか笑いに変わってしまうので、「酷い目に遭っている僕」を中心にした世界になりません。

 しかし、それでいいのです。

 自分のことは自分で解決するしかないのです。

 大切なことは、今ここに仲間がいて、食事を楽しくしているということです。

 「ただ仲良く楽しく、和気あいあいと食事する仲間」がなかなか見つかるものではないと知っているので、僕は意図的にそれを生み出すように努力してきました。

 教室で、どれだけ皆と一緒に色んなものを食べてきたか。

 あれでいいのです。

 わからない人にはわからないでしょうけれど、本当にただそれだけでいいのです。

 恨み憎しみをなんとかするために、憎い人を中心に作った人生にはたどり着くことができないゴールと、辛い道のりしかありません。

 「復讐を諦めること」

 立派にならずに死んでもいい、ダメな奴でもいい、そんなことは大事なことでもなんでもないと気づけるかどうか。

 字面でこうして読んでしまうと、「自分はできてます!」「もう気づいた!」とみな言いたがります。

 しかし、本当にわかっているのかどうかはその人の表情を見れば明らかです。

 幸せな人って、わかりますよ。

 笑顔が違います。

 デフォルトが笑顔です。

 仕事をこなすように「きちんとやれた人」から幸せになるわけではありません。

 「これでもう幸せになれてますか?」と聞いて確認してもらうものではありません。

 しかし、そのくらい深刻に病んでいる人たちが多いのです。

 学術的に証明されたもの、権威が正しいと言うこと、そんなことに縋りつかないと生きていけないカルト教団信者たちです。

 母親より、社会的に証明された科学的見解が大事。

 そんな人が本当にものすごく多くなりました。

 祖母のしてくれることは、ただの優しさなので科学的根拠がないから意味がない、と思うのです。

 今、そんなこと私は思いません、と思っている人が、実は思っているのです。

 裏を返せば、科学的根拠があるかないか、社会的に何が正しいと言われているかどうか、海外では今どうなのかなど、それらを確認して「正しい」とわかったことしかできない人は、権威主義の信者たちなのです。

 宗教二世の人たちを、奇異の目で見ている人がいると思いますが、彼らの方が余程現実に近くまともなのではないかと僕は思っています。

 おかしいものをおかしいと自覚できる人は、そんなにおかしな人ではないです。

 当たり前のようにおかしなことを当然だと思っている人の方が、おかしいでしょう。

 そしてそれが「普通」になっている社会もおかしいですね。

 さて、僕はこれから「遊ぶ」「皆で食べる」などの体験をする教育をしていきます。

 僕自身がタバコをやめたので、やっと精油関係のこともやれます。

 完全に喫煙をやめるまでは、香りの関係のことはやらないと決めていましたので、やっとできるようになりました。

 今後は「理屈じゃない世界」を中心にやっていきます。

 理屈だけで押し通す世界の人たちは、人の優しさや思いやりを無下にするだけではなく、社会的に肩書を持たない祖父母や母親の存在価値を下げてしまいます。

 戦わずして勝つこと。

 僕は僕自身の一族の教えの通り、

 「最も強い武士は、死ぬまで刀を抜かない」

 という姿勢を守って今後も生きていきたいと思います。