推薦作品, 非会員向け

魔法の国に生きている頃の話 ~光秀のスマホ~

 素晴らしい作品がありました!

 久々に推奨作品です!

 これを見れば、加藤諦三先生が早稲田大学の最終講義で述べていた

 「非社会的心理的引きこもり」

 というものがどんな人格なのか、わかると思います。

 現実がテレビの向こうのことのように思えている。現実を生きていない人です。

 僕は見ていてものすごい違和感でした。面白く描いていてるので、ドラマとして見ていて楽しくもありますが、冷静に考えるとゾッとする話でもあります。

 一本の話が二分程度で終わるショート連続ドラマです。戦国時代を生きた明智光秀が、現代社会のビジネスマンのようにスマホを駆使して生きているお話。

 「こんなもんだよね!現実って!あるある!」

 そんな風に思う人も沢山いるでしょう。

 光秀のスマホ👈click
※YouTubeの公式リストが新しいウィンドウで開きます

 

 そしてもう一つ、最近の若者によくいるタイプを非常にわかりやすく描いている「~のスマホシリーズ」のドラマ。

 義経のスマホ👈click

 大変わかりやすく、よくいるタイプです。僕が可愛がってきた京都の弟なんじゃないかと思ったくらいです。

 この時代にひろゆきさんと思われる人がいますね…。ドラマとしても面白い作品だと思いますが、よくここまで作り込んだなと思えるほどよくできています。

 こんな時代の話なのに、現代社会の人々の共感を呼べる内容です。

 このドラマを観て、「これか!」と理解してほしいのです。

 これが「人と関わることに失敗した人」の視点です。

 結論から言いますが、この状態で生きながらどんなに素敵な人に出会ってもどんなに都合のいいことが起こっても、人と心を通わせることも幸福感を実感することも、何もかも不可能です。

 死ぬまで他人を軽視しながら、一人心の中で現実を画面の向こうのように眺めつつ、人間社会で死ぬまでなんとか他人にバレないように見過ごさせるための「架空のキャラ」を現実に存在しているかのように作り続けるだけです。

 このドラマを観てから考えてください。

 この主人公、考えているだけの心の声でぶつくさ言っているこの主人公は、誰とも関わっていないんですよ。

 本人は目の前で話している人とかかっているつもりだし、妻や子供とも関わっているつもりなんですよ。

 ちっとも関わっていないです。ゲームキャラのようにしか家族を見ていないです。完全に引きこもっていて、実在しているのは自分ではなく「都合良さそうなことを言って作った偽キャラ」になっています。

 妻も子供も「偽キャラ」の妻と子供なので、心の中にいる自分は親も伴侶も家族など一人もいません。

 これが本物の「心理的引きこもり」です。

 誰とも心通わせない。心の中にいる存在は誰とも会話していない。

 ただし、境地になったら慌てます。いきなりキレたり泣いたりします。

 これが「幼児のまま成長せずに心の中で恰好を付けたまま生きている人」です。

 この状態から望む「幸せ」はひとつです。

 「こんな風になってくれたらなあー」を現実に形作ること。

 協力的、好意的な人がいたら「こいついい奴じゃん」とは思います。

 人としてではなく、ゲームの中のキャラクターとして。

 結局、現実に自分が存在していないのでその程度にしかならないのです。

 生まれることに失敗した人。これは人生が始まる前の話で、しかもこれは「本人」ではないです。

 このドラマの主人公は「自分自身」という存在ではないです。誤解しないでくださいね。

 これは、僕の表現で言えば、「下心」です。

 または「餓鬼」ですね。

 生きている存在ではないですね…。

 このドラマを観て本当にとても驚きました。

 そして、このまんま生きている人がいたら、どうしたらいいのかなと思いました。今まで僕が説明してきたことは間違ってはいないです。やはり正しいと確信しました。

 加藤諦三先生が「完全に自分がどっかいっちゃってる」という表現をしていましたが、僕の表現だと「もうこの人死んじゃった」になります。

 僕は体験がないのでわかりませんが、完全に死んでしまったその人はもう生まれられないのでしょうか。

 いくらなんでも、生まれた時からスマホを見ている主人公のような精神ではないんですよ。三歳の頃などは。

 育ってはいけない方が体を乗っ取ってしまったようですね。

 もう自分が死んでしまったから、主人公が「誰でもない」のです。

 人間は必ず親から生まれてきます。

 つまり「子供」から始まります。

 子供の精神のその人がいないんですよ。親に対して子である精神が存在していません。

 このシリーズに「信長のスマホ」もあるのですが、最期の本能寺のシーンで、「信長は母親に気にかけて欲しかったのだ」とわかる場面があります。

 母親から「大丈夫?」とFUMI(LINEの代わり)でメッセージが来た際、信長は

 「ずっと大丈夫じゃないよ」

 と半泣きになっています。しかし、返事では「大丈夫」と返します。

 死に際になってもまだ母親に無理して見栄を張る。「助けて」「もう無理」と言えない、現代社会の子をうまく表現したものだなと思いました。

 信長公の母、土田御前は大人しく優等生な弟ばかり可愛がっていたことで有名です。

 このドラマの中では「すごいことをして、母親に振り向いてもらいたがる長男の信長」を描いていましたが、強ち外れているとも言えない内容だと思います。
 FUMIのリストの中にある吉乃にハートマークが沢山ついていたり、信長公のスマホの場合のみ楽天市場のアイコンが楽市楽座になっていたり、史実をよく調べて細かいところまで本当にうまくキャラ化しているなと感心します。

 しかし、これが現実に起きているかと思うと、やはりゾッとするのです。

 念のため言っておきます。

 これは断言です。

 「光秀のスマホ状態」で生きている人が、今後幸福感や感動を味わうことは不可能です。

 これは心理的引きこもり状態の人の視点ですから、この視点で生きている人がどう頑張っても「よしよし、うまくいったぞ」と軽いノリで考えることしかできません。

 生まれてきた自分が嫌で、人生を放棄してしまったのでしょうがないですね。

 明るく言いますよ?

 しょうがないですね°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 僕としては、義経程度ならまだ望みもあると思います。
 中年以降は無理でしょう。社会的に今の立場を確立してしまったので、もう自分には戻れないんじゃないでしょうか。目覚める可能性があるとしたら、もうどうにもならない、なりふり構っていられないくらいの窮地に陥った時ですかね。

 ちなみに、京都の弟は義経そっくりですよ。こんな感じですね。

 そして、「大人」というものは、本人は心の中にいる自分がバレていないと思っていますが、それを含めてわかった上で対応しているものです。

 素直な子はストレートに表現できますが、素直じゃない子も表現はします。

 そして、「操作する子」はそのどちらでもありません。素直になれない子とは違うんですよ。

 他人に素直になるのが恥ずかしいだけなら、なんとでもなることです。

 自分に素直になれず、自分に嘘をついているからどうにもならないのです。

 僕もなったことがないのでわかりませんが、恐らく、もう自分が完全に死んでしまった人がいるのだと思います。

 これが「親より先に死んだ子」なのですね。

 親の仇が討てないですね。

 と、このドラマを観ていて、観ていてわかる分色々考えることができました。

 死んじゃったのかー。じゃあしょうがないや。

 そんな風に、他人のことは諦めることも大切ですね。自分にはどうにもできないと諦め、なんとかしようとする傲慢さを捨てねばなりません。

 精神の世界の本人がもういないなら、どうにもならないです。

 心の中に一人で生きている「現実の傍観者」は人ではありませんから、この世に出てきていいわけがないんですよ。

 下心の塊、他人を見下す傲慢な鬼。

 この世に出てこようとすると必ず禍をもたらします。

 死ぬまで出て来なくていいです。そうしないと、「俺が一番偉い!すごい!」と一人で満足する世界を現実につくろうとして、生きた人を犠牲にし始めますからね。

 それぞれの人生を大切に思える「人間」が育って現実に皆と生きて行けばいいのです。