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勿体ない…優越したがるから…

 僕が可愛がっている京都の弟の話である

 弟は劣等感が強い
 優越したくてしょうがない
 見栄っ張りである

 それは重々承知の上で、子供の頃から知っている僕はそれでも弟は可愛いので面倒を見続けてきた

 先日、久々に僕の家に来た

 一緒に飯を食う
 それだけのことである
 生活に必要なものを持たせる
 殆どお母さんである

 弟が普通にただ話していた時に、非常に面白い表現をした

 僕はそれに爆笑した
 「それいいな、その表現いい!」
 と僕が笑うと、「え、そう?」と嬉しそうな顔をした

 全く関係ないことで目立とうとしている弟だが、恐らくこの子は何かもっと繊細な才能がある

 と、昔から思っている

 声や話し方がいい
 聞き取りやすい

 「表現」というものが、誰にでもできるものではないとわかっていない

 話す時の表現、たったそれだけのことと思うかもしれないが、それは非常に難しい

 誰もが小説家になれるわけではない
 誰もが噺家になれるわけではない

 弟は子供の頃からピアノを習っていて、音楽も得意だ
 絵も上手だ
 本当に器用に色々こなす

 ただ、家の中でバカにされ続けていたので、劣等感は深刻だ

 そこさえ諦めれば、この子は優れた才能を使い、人を笑わせたり感動させたりするのだろうに、と思う

 そんな風に、自分自身の才能を無駄にしている人は山ほどいる

 なぜか

 他人に嫉妬するからである
 劣等感のせいである

 劣等感が深刻になると、「カッコいい!」と思うものを素直にカッコいいと言えない

 「いいなー!すげーなー!」

 と賛辞したら負けなのである

 そして負けないために、何かになろうとする
 張り合ってしまう

 自分の才能を捨てて、張り合いに行く

 「自分もあんな風になれたら…」

 と心の底で思ったのである

 そうしたら、バカにされないのに、と

 誰に?

 自分にである

 弟は人当たりが柔らかい
 どちらかと言うと、愛される芸人向きである

 ただ、それは弟にとっては「カッコいい」ではないのだ

 本人が持って生まれた、にじみ出るものは隠せない

 その誰もが持っているわけではない才能は、自分で選ぶわけではないので本人が「これ!」と憧れるものではない場合が殆どだろう

 だが、それでも自分の才能を使う限り、やはり本人自身は満足なのだ
 楽しいのだ

 やればやるほど楽しい

 そんな才能があるのに、劣等感が深刻な人は「なれもしない上になっても楽しくないもの」を選ぶ

 弟は言葉に反応する
 それが問題なのだ

 すぐに見せられるすごい何かを求めている

 すぐに見せられるならば、すごくない

 自分自身はまだたまごなのだから、殻を破って出てくる方が先なのだ

 世間では問題あると言われるような子だろう
 だが、長い間見ていると、可愛くなってくるものである

 子供を愛する親は、子供を大切に育てて行くからこそ、どんどん子供が可愛くなるのだと言う

 それは本当だ

 少しずつ段々と、可愛くなっていくのである

 幼児期は見た目で愛らしい
 誰もが可愛いと思う

 だが、大人になったら誰もが可愛いとは思えない風貌に変化する
 それでも可愛がって育てて来ればいつまでも可愛い

 夫婦も同じなのだなと思う

 若い頃は見た目も美しい
 「私はそんなに美しくないです」
 と言う人だって、若い頃は本人の人生の中では美しいだろう

 そのうちみなしわくちゃになる
 だが、愛し続けて共に生きてきたからこそ、年老いて他人からは「じじいとばばあ」になった時でも相手を愛し続けられるのだろう

 感情は体験によって生まれてくる

 少しずつ積み重ねた年月が、相手に対する気持ちとなって残り続けるのだ

 それは勿論自分自身に対しても言えることであり、自分を大切にし続けることで自分に対する愛情もどんどん膨らんでいくのだ

 「愛する」ということは努力によって身に着ける能力なのだ、と心理学者フロムは言う

 その通りなのだ

 自分自身を愛するということは、他と比較せず、ただこの自分が特別であると大切にしていくことなのだ

 たったひとつしかない存在を授かったのだから

 弟のように、親にバカにされ笑われて育ってくると「世間一般のカッコいい」を目指す傾向が強くなる

 今も昔も変りなく、弟は完全に間違った方に向かって突き進んでいる

 だが、それもまた必要なことなのだ

 それでもあの子は非常に優れた才能があるから、その力を使うようになればなんとかしていくだろう

 もう少し精神的向上を目指してほしいと願うところではあるが、それもまた致し方ないことなのだ