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最低の恋人

 最低の恋人、と呼べる付き合い方について考えた。

 過去の経験である。

 「過去を責めてくる人」

 つまり、「出会うより前の今更どうにもならない部分」を批難してくる人。そんなことを今更言っても仕方ない。

 閉鎖的で執着性格のような人に多い。
 最初からしがみつきが強く、普通に接していて付き合った人にはひとりもいない。

 僕はストーカー女子と呼べる人とは、二人しか付き合ったことがない。

 こっちが望まないと、さすがに大抵の人は諦める。
 そこまで抵抗などしなくても、諦める。

 余程、人を受け入れてきていない。

 そもそも恋人の条件は、相手を決して責めないことである。
 片方が悪者になったら対立してしまう。それはもう破綻である。

 片方が正しい人として勝ったら、もうお終いなのである。

 しかし支配することが好きな人は違う。

 本人が自分の過去が気に入らない。
 そんなものこっちのせいではない。出会う前に何をしてどう生きてきたかまで、僕の責任にされても困る。

 自分の過去の方がお前より上、という比較をする。

 しかし、どんなに悪いことをしているか、と批難したくなるような男を、まともな人は選ばない。
 「皆が悪く言うぞ!」と思う人を、まともな人は好きにならない。

 しかし、彼女たちは違う。
 絶対に自分を好きになりそうにない人間を支配して勝利したがる。

 できるだけモテそうなやつを捕まえて、友達に自慢したい、という人がいる。
 男友達にいた。
 超絶身の程知らずな恋愛をする。

 好きになること自体は自由だが、どう考えても無理という相手をどう考えても無理と言う接し方で落とそうとする。

 「お前なら付き合ってやってもいいけど」

 という態度である。
 振られたら「俺がちょっと無理だった」と意地でも振った側になろうとする。

 「好きになった方が負け」というやつである。

 愛され女子は「好きになった方が勝ち」である。
 愛する方が難しい。愛するのは相手の問題ではなく「自分の能力だ」とわかっている。

 自分を愛する程度にしか人を愛せない。
 だから自分を愛する女子は、付き合った人をひとりひとり愛する。

 争って嫌って別れた相手がひとりもいない。
 「嫌う前に別れる」からである。

 我慢しないから、嫌いにならない。
 我慢しないから、好きでいられる。
 そのような幸せスパイラルに乗った女子は、不幸を呼び込む生き方をしない。

 しかし不幸女子は違う。
 最初から批難してきて付き合おうとする。

 自分と恋人を比較して優劣を競うこと自体、愚の骨頂である。
 頂点と頂点で恋人になるのに、違う役割だとすらわかっていない。

 恋人に勝ったら、その恋人と別れてもっと素敵な人を探しに行かねばならない。
 自分が批難したくなる人と、付き合わない。
 「変わってくれたら」と思わない。
 批難したくなるところがあるならば、批難する前に別れている。
 最初から知っていたら、付き合わない。

 過去に付き合った人が何人もいるというだけで、愛されない女子は批難する。
 中学生のように、付き合った人数を気にしている。

 そんなもの、大人になってから聞く方がおかしい。
 気にすることでもない。

 「この世でたったひとり、私のために生まれてきた人」を探している。
 そんなもの、自分しかいない。

 「あなたのために生まれてきた」ようなふりをする。
 嬉しくないどころか、似たようなタイプでないならば責任重大過ぎて勘弁して欲しい。

 重すぎる系女子。

 別に過去に何があろうと、今一緒にいて楽しいならば構わない。
 だが、生憎過去の説明は立派なのに、今一緒にいて楽しくない。

 楽しくするために努力するのが当然である。
 だが、一緒にいて楽しくない。

 運命の人のようなものを探している。
 運命の人は後からそう思うものであって、先に知っているわけがない。

 自分が無い人なのだ。自我を求めている。

 だから自分と同じ人に安心する。
 一致している他人が欲しい。

 ならば同じような過去と同じような人格の男で決まりだ。

 そして、自分より遥かに付き合いの長い「周りの女友達や女子の知り合い」にいちいち嫉妬する。

 ものすごく嫉妬深い。
 執着性格の人は、相手を孤立させるまで隔離しないと、気が済まない。

 自分の身代わりなのだから、当たり前とも言える。
 完全に自分の思い通りになる人でないと気に入らない。

 見張るように相手を見ている。
 監視してくる。

 僕が何をしていても、ネットでも見張ってくる。
 実際に付き合っている彼女の立場になっても、ネットで見張ってくる。
 誰とどんな会話をしているのかを見張っている。

 ここまでいくと、恐ろしい。

 目の前にいないところの活動まで見張りたいとなると、異常だ。

 はしたない、という言葉がぴったりだ。
 はしたないことに関しては、全部理由をつけて、やはりはしたないことをする。

 本当にはしたなくない人は、理由をつけることもなく、何があろうとそんなことはしない。

 結果どうなのか、が現実だ。理由なんていくらでもつけられる。

 僕は不思議だった。
 彼女たちは、僕と会っていない、僕が知らないところで何をしているのだろうかと。
 時間の無駄だと思った。
 どうせ会うのだから、会わない時間は有意義に使った方がいい。

 次に会った時に、前よりほんの少し変わっていく。素敵になっていく。

 というのが、普通の付き合いだと思う。
 ただ実際に相手が変化していく。それが成長だ。

 成長は説明ではない。本人は無自覚だが、こっちが勝手に思うのだ。

 外から見た本人は、他人からしかわからない。

 過去を責めるということは、今のお前は要らない、ということだ。

 過去があって今がある。過去が無ければ今のその人は存在しない。

 過去を責めるということは「今のお前が気に入らない」と同じだ。

 恋愛においても、過去がなければ今の自分はいない。
 だから過去が気に入らないならば、今の僕が気に入らないということだ。

 今その人が好きならば過去にケチをつけない。

 彼女たちは自分を他人に求めていた。
 だから彼女たちにケチをつけられない人となると

 権威主義であること
 ブランド志向であること
 過去に付き合った人がいない、またはうまく行った人がいない
 一般的なことしかしないこと
 考えより決まりを重んじること
 相手より皆に認められる恋人であること
 社会的に自慢できることをすること
 他人とうまく行っていないこと
 その人しか信じられる人がいないこと、他で気を許していないこと

 などがあげられる

 批難の内容から導き出すと、そのような結果となる。

 そんな男がいいのに、僕がそうではないので必死で自分に似るように教育しようとする。
 だったら最初から似たような男を探せばいい。手間が省ける。

 そんなに矯正したら、もう別人だ。
 こと言われて何をしたところで、本人の発想は過去から作られた人格に依存するものだから、言われたことしかできない。
 何を矯正するも一度批難してからなのだから、あらゆるところを自分に近しく変えるまで時間がかかる。

 それこそ、親子の関係のように一生続けなくてはならない。

 親離れできない人の執着はすごい。
 知らない人の話も固有名詞でする。
 相手に想像できない世界だとわからない。

 何よりも、今その人自身が「なっている彼女」が、本人の選んで作り出した「最高の彼女の仮面」なのだ。

 僕が僕の思う「良い男」であるために忍耐強く自己制御するように、彼女たちにとってもまた、その顔は僕に見せている「彼女としての顔」だ。

 立場が彼女なのだから、それ以外にない。

 今の自分の立場に応じて、仮面を変えるものである。
 その立場なら話さない、やらない、ということがある。

 何をしても今の立場でやったことだ。
 そして、彼女たちは実は仮面を持っていない。

 まだ「わたし」のままの裸ん坊。

 感情で立場を決める。
 最初は立場があった。

 だが向こうの中に執着が生まれてしまったので、そこから突如立場ごと捨てた。

 恋愛感情は自然と育つものである。
 出会った時の立場があり、その立場の中でのやり取りを通じて心だけが育つものである。

 彼女たちの場合は「好きになったからいきなり恋人と言う立場!」という発想だった。
 今の関係性の顔を捨てたら、まだ恋愛感情は育っていないのだから、なんでもない関係にしかならない。

 例えば、同僚に恋心を抱く。
 心は抱いていても、立場は同僚なのでやり取りは同僚のものだ。
 同僚の立場の中で交流を続け、その中で互いに見えないものが育っていく。

 まずは「良い同僚としての顔」でなくてはならない。
 しかし、彼女たちは恋心を持ったから、いきなりそれを全開で押し出してきた。
 それも、付き合いが浅くてまだ感動する体験すらない。

 僕の女友達にも、微妙な関係になっている人はいる。
 だが友達の立場を捨てることがない。だから関係そのものが続く。

 友達としての今まで通りの交流があり、関係が続く。

 執着する彼女たちは、絵本のような関係を期待している。
 実際に存在すると思っている。

 つまり「お姫様」のようなものが実際にあると思っている。
 しかし、彼女たちは普通の一般人だ。
 一般人なのに、お姫様の恋愛を一般人としたい。

 それも現実のお姫様ではなく、絵本のお姫様である。

 彼女たちは断ると「じゃあどうしたらいいの!」と怒る。

 実在の人間との恋愛に「うまく行く方法」というものが存在すると思っている。
 あるわけがない。起きたことが全てである。

 少なくとも自分が彼女になった場合の顔を「実際の体験」で生み出しただけである。

 本当にいい女は、本物なのだ。
 良く見せようとしているわけではなく、人を監視しないし、恋人を疑わない。
 困らせたりしないし、責めるなんて一度もない。

 「この人を好きになるのは私しかいない」
 という姿勢で受け入れようとしてくる。
 どう受け入れたらいいのか悩むこともあるだろうが、それはお互いに様だと思っている。

 「この人を好きになるのは自分しかいない」のは、互いに同じである。
 それが恋人である。

 「この人を好きになれなかったら、終り」である。

 「好きになれる人に変わって」はない。

 僕だってそんなこと望まない。
 他にいくらでもいるのだから。

 付き合ったら批難したくなる異性は当然いるだろう。
 それが「好きになれない人」である。

 異性として惹かれない人である。

 僕は過去に愛し合った恋人の中で、今でも最高の男として存在している自信がある。
 最後まで彼女を一切批難することなく、そのままで好きだったからだ。

 「その人を一番愛せた人が勝ち」である。
 好きな人を手に入れる戦いは、まず恋人として好かれるかどうかから始まるが、その後は「一番相手を愛せたかどうか」で「自分以外の同性と戦う」ものだ。

 結局、相手にとって最高の異性であればいい。
 ならば他の同性に勝っていればいいのだ。

 自分をそのままで愛してくれる人が一番なのだから、自分が本当に好きでこの人がいいと思える人を、誰よりも受け入れていればいい。

 勿論、それまでの自分自身がそれなりに自分を高めて生きてきたことが必要であるのは、恋愛以外においても言うまでもない。

 「いいなあ」と思える人に「いいなあ」と思ってもらいたいならば、より自分を高めて生きているしかない。

 似たような高め方をした人同士が、くっつくようにできている。

 だから自分が納得いく自分でいることがまず最優先なのだ。
 納得がいく人とちゃんと愛し合えるようにできている。