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男女平等に異論

 自分の考えを持つことは大切である。

 社会で正しいと言われていることを「自分もそう思う」と言うのは自分の考えを述べる人ではない。

 それは「他人の意見を品評した」だけだ。

 というわけで、自分の意見は「他人の品評」以外にもうひとつあるのが当たり前なので、覚えておいて欲しい。

 先ほどくだらぬニュース記事を読んだので、男女平等について僕の意見を述べる。

 僕は男女不平等に賛成である。
 なぜならば、現在の「男女平等」は「男女不平等」を指しているからだ。

 事実と呼び名が一致していないのだから、僕の場合は「男女不平等に賛成」となる。

 男女平等に、と言いながら、男女に同じ生き方をさせている。

 それが「男女平等」だと言う。

 現在の男女平等は、実際には「女性に圧倒的不利益」となっている。
 それを女性たちが自覚しているかどうかは知らない。

 まず、昔は当たり前だった専業主婦が「怠け者」のように思われている。
 母が家にいて怠け者であるはずがない。

 男女が共働きし、子供は塾や保育園に入れ、皆で帰りが遅くなる。

 母親は仕事から帰ってから、帰宅後に食事の支度や家事。
 それを父親ができるだけ手伝うのが、男女平等とされている。

 僕はイクメンとか言うニュー理論にも反対である。
 僕はなりたくない。
 母親の手が離せない時に手伝うのは当然のことで、それはイクメンとは呼ばない。
 その程度で褒められたものではない。

 わざわざ休みを取り、家で育児に勤しむ。
 そんなことを父親がする必要はない。
 なぜならば、父親には母親の代わりはできないからだ。

 子育てにおいて、父親などいてもいなくても同じ程度の存在である。
 くっついているのは母親でなくてはならない。
 母親の絶大な価値は、子育てにある。

 それを男性が奪うような形になるだろう。
 頑張って母親の真似事をしていれば、父親でもいい、となれば、女性の価値が貶められる。

 そして社会に出て活躍して、家の仕事はその分稼いだ金でカバー。
 それはつまり、「母親と言う存在の価値は無くなる」ということである。
 金が代わりをしてくれるのだから。

 現在の男女平等が、資本主義の洗脳によって白人社会からやってきたものだとわかっていない。

 男女平等、が、本当に同じ形にして同じことを男女にやらせることならば、同じ願望を持っていなくては意味がない。

 だが、女性が男性と同じ欲求を持って生きていない。

 ならばまず、今の形を本当に平等に変えるために、女性に欲求を変えてもらわなくてはならない。

 社会に出て戦うのは父親の仕事だ。
 歴史や政治について考え、社会をより良くしたいと思う。
 頼まれなくてもそうしたくなる。

 女性もそうしたくなってくれ。

 それならば、今の形が正しいことになるから。

 女性も男性と同じように、職場での貢献、社会への貢献をしたくなってくれ。
 結婚より子育てより、より技術を磨き、知識を得て、子供には時に厳しく教育を。
 そして泣き言を言わず、じっと堪えて、ごちゃごちゃと細かいことを言わない。
 気持ち気持ちと言わない。

 そんなことより、もっと大きなことのために活動したくなればいい。
 自分が死んでも、子供は面倒を見てくれる人がいるから安心だと思って、戦いたくなれ。

 そうすれば、男女ともに満足する。

 子供は金で面倒を見てくれる人を雇えばいい。
 後見人でもつければいい。

 両方父親になるのだから。

 そして両方母親になるのだから。

 自然な欲求を我慢して、まるっきり同じことをするのが「平等」とした。

 こんなものに騙される馬鹿者はいるのか。
 というか、言われたとしても、したくならないだろうに。

 「子供は欲しくない、結婚もしたくない」

 という女性もいるが、そのような人にはそれなりに「したくなくなった理由」がある。

 だが、現代社会では「なんの理由もなくそうなれ」と言っている。

 女性を平等にするならば、男性も結婚の時にこう望まなくてはならない。

 「頼むから専業主婦にならないで欲しい。金があってもなくても、子供が生まれたらできるだけ早く働いて欲しい。」

 それが、現在の男女平等である。

 なので僕は男女不平等に賛成だ。

 男女平等と言いながら、ここまで女性の価値が低くなったことはない。
 日本は元々女性の幸福度が世界的に見ても高い国であった。
 その幸福度をあげていたのは「専業主婦」であった。

 平等に近づけるようになると、女性の幸福度は下がった。

 共働きまでしているのに、収入は減った。

 高学歴になったのに、専門的能力を発揮する人は減った。

 専門的知識を得たのに、誰でもできることをする人が多くなった。

 自殺を減らしたのに、子供の自殺は増えた。

 喫煙者が減ったのに、肺がんは増えた。

 昔より大人しく従順にルールを守る人が増えて制限も増えて平和になったのに、ストレスからの異常な犯罪は増えた。

 未成年の非行も減ったのに、凶悪、異常な犯罪は増えた。

 ここまで理想的にしているのに、ひきこもりが増えた。

 さて、後はどこを我慢して、どこを制限して、何をやらせれば理想の社会になるだろうか?

 バカバカしい話だ。
 こんなものに従っていられるか。

 最初から「都合よく作られているだけ」とわかっているものに従って、褒めてもらうために人生を棒に振りたくはない。

 振りたい人が多いことが、僕にとっては疑問でしかない。

 そこまでして褒められたいものだろうか?

 皆に「理想の形を作れたね!」と認められたいものだろうか。

 人生を楽しむにしても、時間が必要だ。

 二十代を棒に振ったら、それっきり。

 戻ることはできないと言うのに。

 金があればなんとかなる、というのが、拝金主義国家にするための洗脳である。

 なんともなっていないどころか、労働時間を増やして賃金を減らしている始末だ。
 より多く働いて、より貧しくなる。

 今日の福井のニュースに、素晴らしいものがあった。

 ある企業は、元旦の営業をしないことに決定した。
 元旦の売り上げの見込みがなくなると異論もあったようだ。

 だが、理事は「社員が家族と過ごしたり正月に休んだりする時間がなくなる。心の余裕が生まれれば、その分はカバーできる。」と決断したらしい。
 その分、二日からのセールで工夫を凝らすと言う。

 「働き方改革と言われているのに、都市部に福井が遅れをとってはならん。」

 という話なのだが、肝心の東京に本社を構える企業は「元旦営業決行」だという。

 福井の方が遥かに賢い、偉い。と思った。

 東京の方が金、金だ。
 元旦の福袋目当ての客など、見込める売り上げを逃さない、ということだ。

 このように、目先の金で動き続けた結果が、今の日本である。

 僕の子が泣いていた。
 新入社員として都心に勤めている。

 クリスマスも大晦日も元旦も全て、出勤である。

 「ごめんね、ごめんね」

 と泣いていた。
 クリスマスは皆で何かしようと思い、友人たちも呼んでいた。
 元旦も準備してきた。

 それらすべて、自分は一緒にいられないと泣いていた。
 楽しみにしていたのに、家族と一緒に過ごすこともできない。

 僕は「お前が謝ることじゃない」と慰めて、大晦日は着物を着て迎えに行ってやると言った。

 大きなお寺などがあるから、帰りに寄れる。出店もあるかもしれない。
 だからそれに一緒に行こうと慰めた。

 「許せん」

 と思った。
 この社会をなんとかせねばと思った。

 賢いと言っていいのかどうなのか、戦後GHQが来て後、個人主義と称し家族を解体した。
 おさがりの商品をばらまき、日本人を金と物に釘づけにした。

 学歴があれば高い給与がもらえると見せつけ、団塊世代には「特に理由はなくとも大学に行く方が良い」と思わせた。
 そして稼いだ金を子供の進学に費やし、または借金までさせ、専門的知識もろくに身に着けない「肩書」を高く売った。

 団塊世代が憧れた「〇〇さん大卒なんだって!」の高給取りなど、既にどこの企業にもいないとみな知っている。その程度では、特別扱いにならない。

 そこで更に優秀にすればと刷り込み、今度は幼児教育。
 お受験願望まで母親に持たせることに成功した。

 そのために母親も外に出て働き、子供を育てる人がいない。

 自分で育てるより、もっと優秀にするために他人に教えを乞う。

 もはや誰の子かもわからない人間がゾロゾロ育った。

 親子の絆はなく、大人になっても母親を求める大人たちの群れ。

 そして大学は出たものの、何をしたいのかもわからない、なんのために今の職についたのかもわからない、次は何をすればいいのか人に聞かなくてはわからない、うまく行かなくてもどうしたらいいのか他人に目的まで与えられなくては生きていけない、そんな大人が増えた。

 つまり

 一声かければ意味がわからなくても集団で動く人々になった。

 人生は「やることが決められている」と信じている。

 決められた道をどううまく進んでいくかのレースだと思っている。

 そんなわけがない。

 人生など最初からどう生きるも自由で、許可など待たずとも良い。

 「保障があるかのように錯覚させた」

 ことが、彼らの勝因だろう。

 なんの保障もないというか、保障とは「それでいいんだよ」という「承認」のことだ。

 承認欲求が満たされない人々にこれは効果的だ。
 認めてもらうためならば、自分の目的も欲求も捨ててくれる。

 そしてその流れは、資本主義の悪魔によってつくられている。

 「自分はちゃんとやってきた。常識的に良いことをしてきたのに!」

 とストレスをためて不幸になっている人は、勘違いしている。

 その生き方は奴隷のものだから、頑張ってもそうなるのが当たり前なのだ。

 と気付いていないのだ。

 逆に、もう学校にいる時のように成績がつかないのだから、「ちゃんと」は存在しない。

 自分で決めて好きに生きてくれないと、他人に聞かれても他人も困る。

 ここは現実なのだから。

 自分の生き方を決めてくれるところも、教えてくれるところも、どこにもない。

 決まりはない。と言った方がいいだろう。

 「自分がどう生きるか」に決まりなど最初からない。

 ただ、この社会は最初から支配する者が存在している世界で、日本は敗戦したし歴史も塗り替わっているし、敵が作った向こう側に都合のいいルールで最初から動いている、と覚えておかねばならない。

 アジア人の友人は言った。

 「日本は白人天国だからね。白人にはいい国だよ。」

 そのように頑張って作っているのだから、当然だ。

 自分たちを敗戦に追い込んだ国の人々を正しいと崇め、自分たちを守ろうとした味方を敵だと信じている。

 そして僕もまた、そう信じて生きていた。
 自分がわからなくなって、ノイローゼになって生きていた頃は。

 最初から社会が間違っていると気づいた時、茫然とした。

 「甘かった」

 目の前が平和に見えるから、本当に平和だと思い込んでいた。
 浅はかだった。

 最初から僕たちは檻の中にいたのだ。
 檻の中で命じられ、褒められるために頑張ってきたのだ。

 子供たちを放置するまでになりながら。

 他人の子は知らぬ。
 他所の親が育てるその家だけの子だ。

 だが自分の子は違う。

 僕の子を泣かせている社会は許せん。

 子供たちから夢や希望を奪っていく社会は許せん。

 そしてその社会をより良くするために、外に出て行くのが父の役目だ。

 それを女性もやりたくなったというのは、本当なのか。

 この権力に逆らい、本当に正しい社会にするために、戦いたくなったのか。

 僕たちは日本人に支配されているのではない。

 それは歴史を考えれば、わかることなのだ。

 既に中国にはとっくに追い越され、工場と化したのにまだ中国をバカにしている人々。

 檻の中にいるから気づかないのだ。

 そして気づいている人たちも人たちで、私利私欲のために自分たちだけ儲けようとしている。

 正義はどこに行った。日本の魂はどこに行った。

 フランス人が「愛国心」と言えばカッコよく感じるくせに、自分たちが「愛国心」と言えば危険思想のように思う。

 自国をバカにして他国を崇めることが「良いことだ」と思っているのだから、完全におかしい。
 矛盾している。

 我が子をバカにして他所の子を賛辞する親。
 自分の伴侶をバカにして無関係な異性と比較する夫や妻。

 比較して比較して、他所の方がいいものだと嫉妬する。

 自分のものは全部貶す。

 自分自身も、家も家族も国も全部貶している。

 ではどうしたら幸せになるのか。

 アメリカ人になればいい。

 鳥に嫉妬して羽を生やし、空を飛ぼうとした魚はどうなった?

 空を飛ぶこともできず、泳ぎ方は忘れるのだ。

 そして自分が魚だったことすら、すっかり忘れて鳥の中で劣等感に苦しむのだ。

 その鳥の群れの中に、本物の鳥など一羽もいないとすら気づかずに。