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君には理想の恋愛が思い描けるか

まだ見ぬ友人へ

 理想の恋愛を求める人は多いが、君には理想の恋愛が思い描けるだろうか?

 「だったらいいな」と思う理想の形は、人それぞれである。

 現実には理想などあり得ない。

 だが、時に理想の形に触れるようなものに出会い、人はそれが理想がやってきたのではないか、とときめいたりするものだ。

 現実は現実。起き得ることしか起きない。

 だが、その現実が現実であっても、本当に起きていたことが悪質なものとは限らないのだ。

 理想でないから、悪いものだとは限らない。

 僕には理想の願望が殆どない。

 願望を外に出していた子供時代に、それが恥ずかしいことだと気づいた。

 現実には大したことなど起きるわけもない。そうなると自分の人生に何もいいことがないように思えた。

 だが、現実を生きるのだから、現実に可能なことをし続けなくてはならない。

 確実にこうなるであろうと思う、一人で完結して結果を一人で確認していけることをやり続けなくてはならない、と思った。

 独りよがりな人は、自分の理想を押し付ける。

 理想を押し付けると、相手が自分の間違いや非を認めて、理想が現実になるとでも思えるのだろう。

 ある人は、僕を責め立てて僕が折れたら、本当に僕はそのように思った人に変わった、と思っていたという。

 人は変らない。他人が変えることなどできない。

 しかし、僕も理想の恋愛について述べてみようと思う。

 まず、僕は執念深い人や人を恨んでいる人が嫌いだ。

 人間が人間と争うことが、好きではない。

 どんな理由があっても、人を恨んで罵るために僕が必要な人は欲しくない。

 人の欠点や失敗も、現実を直視して受け入れる人がいい。

 自分自身の辛い気持ちも、受け入れる人がいい。

 だが、これは「人間の理想」の話になってしまうので、理想の恋愛の形ではない。

 

 僕は、贅沢をしない人が好きだ。

 貧乏くさいとか、ケチとか、そういう意味ではない。

 慎ましいという意味だ。

 自制している人でないと、僕の理想は始まらない。

 やたら豪遊したり、不要なものまで手に入れたい人が嫌いだ。

 好意を持たれると、プレゼント攻撃をしてくる人が昔いた。

 僕の都合や状況に関係なく、自分自身がどこに行ったとか何を買ったからとか、とにかく僕のことは関係なくプレゼントしてきた。

 断った。すると「私が好きでやってることだから気にしないで。」と言われた。

 拒否を拒否された。その人とはもうそこで終わった。
 僕の意思を無視された時点で、もう相手の世界に僕はいないとわかった。

 意思を受け入れるとは、僕自身がそういう考えなのだと存在させてもらうことだ。

 この場合ならば「僕は欲しくないのだ」という存在を受け入れた上で

 「私が好きでやっていることだからあなたが欲しくなくても私はプレゼントし続ける。」

 が僕を受け入れた形だ。実際、そのようになっている。
 それを続ければどうなるだろうか。僕は迷惑した。
 だが本人が好きでやるというのだから、もう諦めた。

 嫌でもスルーしていくしかなかった。

 その人は、「人が欲しくないからやめてというものを贈り続ける人」だったのだ。事実、そうなのだから。

 そのような人ではない、まともな人が相手ならばいいなと思う。

 理想の恋愛ならば

 お金は無いのだ。生きるには困らないが、余分に何かするほどはない。

 僕はそういう状況が、好きだ。

 生きるために苦労している方がいい。
 なんの努力もなく生きていけたら、人は駄目になってしまう。

 常に安心安全は、僕の望むところではない。
 未来が予測可能で、これからのことに全く不安がない。
 そんな状況は人を駄目にするし、もしそうなれているのならばもう自分の人生を捨てている。

 僕は、慎ましい人が好きだ。
 大人しいではない。慎ましいだ。

 心が清い人が好きだ。

 心が清い人は、自分の心はそんなに清くないと自覚している人だ。

 僕はやたら出かけるのが好きではない。

 みなメディアや流行に合わせて、いろんなところに行く。
 それも確かに面白いかもしれない。だがそうしたものは一人で行きたい場合が殆どだ。

 時間の無駄。
 僕はそう考えることが多い。
 そこに行ってみたいならば、大抵の場合は一人でも行ける。
 二人以上いないとよろしくない場合は、あまりない。

 だから、僕は自分の生きたいところに一人で行く。
 そして僕は自分の遊興のために金や時間を使うことが、嫌いだ。

 そんなことは、そもそもしたくない。
 したくないから、しない。我慢ではない。

 したいと思わないのだ。

 疲れる。面倒。そんな理由もあるが、他にやりたいことがあるから、やりたくない。

 現実に付き合えない恋人といると、あなたは時間のない国に行きたいと思えるだろう。それは現実ではなく、空想の恋愛をしている相手だから勘違いしてはならない。

 現実の恋愛ができる相手は、現実的なデートができる人だ。

 空想を求める人は、現実に起きたことにケチをつける。
 本人がやっていることは、何も悪くないと言い切る。

 だが、僕の理想の恋愛を考えれば、全く素敵な恋愛ではないのだ。
 相手の素敵な理想の恋愛を理解し、そこに存在するだけ。

 僕の理想の恋愛は微塵も始まらないが、それを知られたくない相手もいる。現実には恋愛したくない人の場合だ。

 理想の形は、黙っているものだ。
 現実に起きなくなるから、黙っているのだ。

 偽物を生み出すから、一人で抱えているのが理想だ。

 僕は、過去に本当に愛する人がいた。
 その恋愛の話をしない理由はある。
 恥ずかしいからだけではない。
 過去にその話をしたことで、別の女に真似されたことがあった。

 彼女ではない人間が、彼女の真似事をすることを僕は許さない。
 昔そんなことがあって、人には絶対に話さないようになった。

 大事な人を、今目の前にいるそれ以下の人に穢された気がしたのだ。
 聖域にあるような思い出を、踏みにじる女がいた。

 それも、何人もいた。

 彼女との思い出は、中身があった。
 今、実感しているからこそ、出てきた言葉にも感動があった。

 だが真似事をする女たちは、話を聞いて「それになればいいんだ」と思いこむ。真似をしたのだ。

 彼女には絶対に敵わない。真似事なのだから。

 彼女は心が清い人だった。
 人の気持ちがわかる人だった。
 だから愛していた。

 「生まれ変わったら今度こそ夫婦になりましょう。」

 と彼女は言った。これはもう出した話なので書いている。
 当然、書いていないことも色々ある。

 こうした話をすると、僕の相手への気持ちが彼女への気持ちと同じですらなく、状況もこれまでの展開も違うのに、「生まれ変わったら」を言う女が何人も出てきた。

 当然、僕は過去に最高にいい思い出として記憶しているのだから、言った途端に蘇るのは彼女の記憶であり、即彼女との比較が起きる。

 いい思い出だった。と言ったことを真似したらいい思い出になるわけではない。

 いい思い出に張り合ったのだから、記憶から彼女は呼び起こされる。
 普通は、相手が他の女を思い出すことを避けるものだ。
 だが、張り合いたい人は敢えて他の女を思い出して自分と比較するよう促す。

 こういう確実に失敗しかない恋愛をする人も、中にはいるのだ。

 金もないし、時間もそんなにない。

 そんな状況もいい。

 なんでも揃っている時は、心理的にかかわっていない相手ともうまく行く。

 形だけは作れるから。

 だが、何もない時こそ愛は試される。

 これは昔あった話だ。

 僕は日中に、遅咲きの桜がある場所を見つけた。

 彼女と花見には行けなかったので、僕はそれを覚えておいた。

 そして夜、うちに来ていた彼女に「コンビニに散歩に行こう」と誘った。

 手をつないで歩いて行った。桜のある場所まで歩いた。

 夜桜だった。

 当時の彼女は、ロマンチストではない。
 並み以上に神経症だった。

 だが、その時は僕の彼女なので、僕は彼女扱いをしていた。
 だからそのデートがあった。

 桜の木を僕が揺らすと、桜がちらちらと舞った。
 僕はもっと舞ってくれないかと思い、強く木を揺すった。

 すると強すぎたのか、すごい勢いで桜吹雪が舞い落ちてきた。

 それを見て、二人で笑った。

 それだけだった。
 そういうデートが僕の理想なのだ。

 形あるもので喜ぶのは、形が嬉しいからだ。

 本物が欲しい。

 だからこそ、なんでもない場所へ、なんでもないことを、そういうデートが好きだ。

 僕は究極を目指している。
 本物の愛を目指している。

 人に自慢できる形などどうでもいい。

 そんなことに時間を費やして、癒されるならばもう人生は終っている。

 否、人生を諦めている。

 いつかきっと、と心から信じるならば、そのいつかに備えてたった今も、奇跡が起きるに相応しい自分であろうと心がけて生きているものだ。

 普段の心掛けがない人間に、奇跡のような幸運などやってこない。

 結婚すれば幸せになれると夢みている人は、結婚にいい加減だ。
 だから結婚に失敗する。

 結婚すれば幸せになるわけではない。
 結婚という形をとれば、何かから逃げられるから楽になれると思っているだけだ。

 人生は苦労の連続だが、何を必要として生きているかは人により違う。

 理想の恋愛を現実に求めている人は、下手な画策はしない。

 その恋愛が起きるに相応しい人間として、日々を過ごしている。

 いつ起きるかはわからない。

 だから日々を過ごしながら、理想的なことが起きるに相応しい人間として、堕落せずに生きていくしかないのだ。

 この自分ならば、神はきっと奇跡を与えてくれる。

 自分自身が誰にも見られない時の自分を、そして自分の心の中にあるものを確認して、神に愛される資格があると確信できるならばきっと起きる。

 どんな形かはわからないが、きっと起きる。

 相手にとってはなんでもないことに、自分が驚くことがある。

 自分にとってはなんでもないことに、相手が驚くことがある。

 そしてその驚きは、自分に伝えられることは少ない。

 最初が肝心なのだ。

 最初から嫌だと思った人は、最後まで嫌な人だ。

 最初に恋愛を拒否したかった人は、最後までいい恋愛対象にならない。

 自分一人で恋愛したい人と、二人で恋愛したい人がいる。

 そこがまず大事なことだ。

 自分が拒否しても、相手は拒否する自分を責めることもある。

 それは自分と恋愛したい人ではない。

 一人で行うオナニーに付き合わせる相手として選ばれたのだ。

 これから行われる自慰行為の恋愛を、見ていなくてはならない。

 悦に浸る姿が、恥にならないように、思うことは言わずに相手に合わせていくのだ。

 最後まで本心は言わずに、ただ嘘をつきとおす。そういう恋愛をしたがる人もいるのだ。

 自分一人の妄想をやりたいのだ。現実に起きていないことは最初からわかっているのに。

 相手を黙らせて行う恋愛など嬉しくないと思うかもしれない。

 だが、実際には結構いるのだ。

 自慰行為は一人で悦に浸り、一人で満足して終わる。

 だからその人だけにとっての良い恋愛であり、相手など最初から存在しないのだ。

 そんな虚しいオナニー恋愛の人は放置して、心理的にはきちんと関われる恋愛を僕はしたい。

 心が清い人はいる。確実にいる。

 なぜいると言い切れるのか。

 僕の言う心が清い、は僕程度でいいからだ。

 つまり僕が存在している時点で、他にいると確信できる。

 自分の存在が、もう一人同じ人がいると確信できる要素だ。

 

 「こんな人がいるのか」

 とこの年になっても驚く人に出会う。

 その心情を、長々説明する相手は、実際のところなんとも思っていない。

 偽物の違いを教える。

 自分の気持ちがどうなのか、どんなに好きなのか、等々、長々と美しいことを語れる恋愛は、偽物だ。

 本物は、語れない。

 今、この瞬間にあるから。

 目の前にいるのに「こんなにあなたのことを思っていて」とうっとりしながら語れるならば、それは今ここに本物がないからだ。

 今ここに本物があるなら、そんなことを語っているわけがない。

 たった今も、起きている最中なのだから。

 目の前の恋人を放置して、自分たちが如何に素晴らしい恋愛をしているのか語り部になって一人で語る人がいる。

 それに合わせると、どうしても同じようなことを言わなくてはならなくなる。
 そうしなくてはかみ合わないからだ。

 だが、実際にはそんなことは起きない。

 現実の恋愛は、確認も説明もない。
 今何が起きているのか、口で説明するなどごっこ遊びにしかない現象だ。

 現実の恋愛は、何が起きているのか、わからない。

 起きてはいるが、これがなんなのかわからない。
 そんな状態が続く。

 緊張や不安がある。
 そしてときめきや焦燥感や、期待などがある。

 男は、本当に本気になっている相手に、まず簡単に手を出さない。

 セックスが先に来るような恋愛をする人は、それを本気にする気がない。

 何を理由にしてではない。
 そんなことはあってはならない。

 話をまとめるかどうかではない。
 男は先に肉体が来ると、もう終わったような気分になる。

 ゴールが先に来たら駄目なのだ。
 もう相手をそこまで知りたくなくなるから。
 興味が失せるから。

 男が努力して相手を知りたいと思わない。

 そして努力しなければ相手に対して思い入れもできない。

 だからこそ、素敵な人だと思う人がいたら、慎重に積み重ねなくてはならない。
 関係は大切にすればきちんと育つ。

 口論をしながら形だけ作ったような関係は、最初から本物ではない。

 本物に説明はない。

 どこの世界に、舞台の上でシナリオの打ち合わせをする役者がいるだろうか。

 そこが本番なのだから、そんなものはない。

 

 そして、恋愛は互いに約束して始めるものではない。

 ただ、自然になっていくものなのだ。

 切羽詰まっている人、結婚を焦るような人は、相手の条件ばかり気にする。
 婚活しているような人だ。

 相手と過ごす時間より、相手の条件が大事。
 形が大事。

 もう諦めたからだ。
 本人が諦めた時、全ては終る。

 どんな素敵な人もチャンスも可能性も、もう存在しない。

 自然に任せる生き方をすれば、どんなに辛い時でも本当にいい関係は少しずつ確実にできる。

 自分の人生を物理的に何か救ってくれなくても、物理的に駄目になった時に残ってくれるような人が、本物だ。

 何もない時も、あなたを愛してくれる人が、本物だ。

 何がなくても、あなたがいればそこにいてくれる人が、本物だ。

 あなたが何をしたか、何を言ったか、そして何を持っているか、そうしたことを批判したり評価したり、また自分自身もアピールしたりする人は、偽物なのだ。

 僕は「 あいしてる」というセリフを、言わないように昔恋人に頼まれた。
 「自分にだけ言って」と言われた。
 その通りにした。

 それ以来、その言葉は使っても本当に使ったことはない。
 感情がこもった時に、どんな気持ちになるのか僕は知っている。

 本当に相手を愛した時に言うと、どうなるのか。
 何もかも、体験していない人はわからない。

 気持ちを込める言葉を口から出した時、どうなるのか。

 それは込めるだけの本物の気持ちを持った人にしかわからないのだ。

 気持ちを込めた言葉を口にするとき、感動するだろう。

 どんなものかは、体験して知るといい。

 本物はいい。一度体験したら偽物になんの価値も感じない。

 形だけで感覚が伴わないものなんて、時間を費やすだけ無駄。

 ごっこ遊びにしかならない。

 

 僕が愛した人は、僕の嘘を見抜いた。

 僕と付き合っていたからだ。

 僕と付き合っていない恋人ならば、ただ疑う。

 嘘を見抜いている女役になろうとして、見抜かれているのに正直に言わないと責める。

 本当に見抜くだけの力がない。現実に僕が相手なのだから、「見抜かれた」と思うわけがない。疑り深い女だ、と僕は思うだけだ。

 愛する彼女は、僕を理解していた。
 普段の行動や言動から、僕の性格がわかっていた。

 だから嘘がわかるのだ。

 この人の性格でそんなことを思うわけがない、とわかるのだ。
 だから即言うのだ。

 「それ嘘でしょ」

 一人で恋愛できる人は、一人でもいい恋愛にしておいてくれる。

 自分が理想の恋愛をしたことにするためには、何を使ってでも良い恋愛にしなくてはならないからだ。

 現実に恋愛をしてもいいのだが、こうした人は実は恋愛そのものが「できない」のだ。

 人を恨む人は、人生の目的が復讐だ。

 だから現実の恋愛をして幸せになるという形は、望んでいないのだ。

 復讐のために利用するだけ。

 叶えたいのは復讐なのだ。

 実際に起きることだけを見るのだ。

 何をやめても、復讐だけはやめないだろう。

 僕の母がそういう人だった。

 父を恨み、見返すために死ぬまで一人で働き続けた。

 母の人生は、労働と貯蓄だった。

 将来のために金を貯める。それだけが人生だった。
 金を貯めるのが人生なのだから、勿論自分の楽しみのために金を使わなかった。第一の目的は貯蓄なのだから。

 老後のためだった。

 そして、その老後は来なかった。

 仕事さえ立派にやれていれば、誰も文句は言わない。

 母は批難されることを恐れた。
 結婚に失敗した女として批難されることを恐れた。

 母は人生の成功が結婚しかない人だった。
 一度の失敗に堪えられなかった。

 結婚して跡を継ぐためだけに存在していた母は、結婚に失敗したら「役立たず」でしかなかった。

 結婚して子供を産むための道具だと感じていた。
 だから、もう嫌になった。
 そして「私も一人で立派にできるもんね!」と見返したのだ。

 できないことをできるようになる。
 それが母の目的だった。

 できないかできるかではなく、やりたいかやりたくないかで選べない人だった。

 自分にできないことがあるのが許せない人。

 社会的に認められることがやりたかったのだ。

 社会的にその他大勢の一人としては認められ、たった一人の人間にさえ自分自身を認めてもらうことはできなかった。

 必要とされることはなかった。

 母は自分を捨てたからだ。

 

 僕は自分を捨てない。

 そこに意志ある存在として成り立ち、意志ある誰かと生きていく。

 良いか悪いか、正しいかどうか、そんなものはどうでもいいのだとわからない人もいる。

 それは誰でもわかっているが、一体自分は何がしたいのか、説明ではなく行動で示さなくてはならない。

 素敵な恋愛は、まず自分自身がそれに相応しい人間になってから起きる。

 素敵な人を見つけてから、その人に合わせて気に入られるなど無理なことなのだ。

 相手が「私に合わせて気に入られるようにこれから変わってくれればいい」という人でなくてはならないし、そんな人を相手に素敵な恋愛などあるわけがないのだから。

 自分に合わせて動く人は嫌だと言う人も、よく嘘で言っている。

 そういうことにしつつも、結局は自分の思い通りになってくれる人がいいのだ。

 そんな驚きも発見も新しいこともない、ただうまく行かないと叱られるような親子関係の恋愛は記憶にも残らない。

 何が起きるかわからない。

 小さな何かが。

 そこに一緒にいて、何が起きるかわからない。

 何もしなくても、ただ座っているだけでも、そこに居られる人がいい。

 シナリオが細かい人ほど、小さな行動や発言に口うるさい。

 それがその人にとっては細かくないと言う。

 つまり、その事実がそれほど大きくなるような人格だということだ。

 「皆がそう思う!」と言うならば、みんながそう思うと思えるほど、本人にとってはその小さなことが重大だということだ。

 現実は人の説明通りではない。
 「絶対そうだ!みんなはこうだ!」と言い切れる人がいたら、何もしてあげる必要はない。

 自分の言葉一つで現実を作る力がある人なのだから、自分一人くらい好き勝手していても、相手は他でいくらでも理想通りの世界を作るだろう。
 そういう魔法使いとは真剣に接しなくていい。

 人間には大したことはできない。

 自分一人のことしかできない。

 説明ひとつで他人の心や行動を動かし、現実を変えるなどできようはずもない。

 だからこそ、小さな現実にドキドキしたり、夢や希望を抱くのだ。

 

 まずは現実に存在することだ。

 現実に存在してから、全ては始まる。

 自分自身が人を操作しようと考えているうちは、自分を分かってもらおうとか認めてもらおうとかしているうちは、誰に出会っても現実のコミュニケーションは取れない。

 他人は「自分が頑張ったらその分何かしてくれる人」ではない。

 ご褒美をくれるのが他人ではないのだ。

 他で我慢した代償を支払ってくれるのが他人ではないのだ。

 今までの苦労の分だけ、誰かが夢を叶えてくれると思っている魔法使いがいる。

 自分が魔法使いの気分で生きているから、他人を魔法使いだと思うのだ。

 僕はそんな幼稚な夢は見ない。

 現実は現実だ。

 当たり前のことしか起きない。

 これまで起きたこともない、起きるわけもない夢がいきなり出てくるわけがないだろう。

 夢を見るのは自由だが、現実にしようとしたら、自分一人で夢を見るためにあれこれ画策して、バレバレの中でもなんとかして黙らせて、他人に我慢させて何かをさせたら一人で勝利気分にひたるしかない。

 まずいことになりそうな時は、相手を批難して罵るしかない。

 自分が批難されることを恐れる人は、相手を先に批難する。

 自分の過去にまずいことがある人は、相手が過去にしたことを何度でも掘り返す。

 なんとしてでも相手に悪者になってもらわなくてはならなくなったのだ。

 泥棒と同じだ。
 本人だけがその汚い人間として生きていく。
 周りはわからない。

 本人だけが知っている。
 

 心が綺麗な人は、どんなに嫌なことがあっても、相手を傷つける言いがかりをつけられない。

 僕はそのような人に出会った。

 もっと早くに出会いたかった、と思う人がいる。

 もっと早くに出会いたかったと思えるだけの人に、今でも出会うことができる。

 こんな人がいるなんて、と良くも悪くも思うことがある。

 悪い思い出にしかならない人は、忘れていい。

 良い思い出になる人は、これからも大事にすれば続くから。

 悪い思い出になる人は、思い通りにならないと縁が切れる。

 良い思い出になる人は、思い通りにしようとしていないから縁が切れない。

 

 僕は本当に、小さなデートの方がいい。

 もうだいぶ前、三歳の女の子とお母さんと、家族のように手をつないで朝のファミレスに行った。

 ただそれだけのことが幸せだし、そんな風に小さなことの方が僕には大切だ。

 その小さなことで大きな幸せを感じられる、仲間がいることが大切なのだ。

 人間関係は人がいなくては始まらない。

 形を求める人は形を大事にして人を大事にしない。

 だから本物の人間関係は始まらないのだ。

 「この形にならないなら、人間そのものを捨てる。」

 型にはめるために生きているのだ。自分自身が型にはまっているから、もう身動きが取れない。

 その地獄を生きていくために、一緒に型にはまってくれる人が欲しいのだ。

 我慢させて。恨まれながら。黙らせながら。

 

 地獄にいる人たちはつまらない恋愛をする。

 形だけだから派手だ。

 最もつまらない恋愛だ。

 僕の理想的な恋愛は、その辺で花を摘んできて、家に帰ってから活けるような日々を過ごす恋愛だ。

 そこにしかないものに価値を感じない人は、低レベルなのだ。

 人と形で、当たり前に形を優先できる人は、人と恋愛するわけではない。

 形を作った社会そのものに献上するために、恋愛するのだ。

 社会が「説明した」理想の形を存在させるために。

 

 君も理想の恋愛を思い描き、現実にしたいならばそれに相応しい人に先になっておくのだ。

 理想の恋愛は、理想の形を作らないことで作られていくのだ。

 自然に作られていくのだ。

 理想の心を持つことに専念することで、作られていくのだ。

 

 人を愛することは素晴らしい体験だ。

 うまくいくとか行かないではない。

 愛することに成功している時点で、もううまく行っているのだ。

 

 君も人を愛するといい。

 心に愛があれば、君自身が幸せになれるだろう。

 

君が幸せを感じられることを願って

最上 雄基