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裏切られる人は選ばれている

 僕の母は、僕だけをターゲットにして昔から裏切ってくる。

 昔から僕にだけ嘘を言ってくる。
 僕だけを犠牲にしようとしてくる。

 「一番優しい子がいじめの対象に選ばれる。」

 と加藤諦三先生は著書に書いていた。

 その通りなのだ。

 許せない!悔しい!なぜそんなことを…!

 と悲しくなるかもしれないが、何度となく裏切ってくる母を見ていて僕はその理由がわかった。

 かつてのストーカー女子も、僕だけに酷い裏切り行為を行った。

 他の人にはしない卑劣な真似をして、他の人には言ったこともない酷いことを言う。

 どこまでも追ってきて、執拗に嫌がらせをする。

 無関係なところでも、あることないこと他人に吹き込み、なんとしてでも知らない人たちも僕を「酷い人間だ」と思うように仕向けてくる。

 なぜそこまでするのか、まともな神経ならば考えられない。

 自分をどん底まで嫌い、自分を完全に捨てきった人は「信用してくる人が怖い」のだ。

 「好かれたい」とは言っても、同時に「信用されたくない」のだ。

 心から信用されることは、自分を裏切り他人を裏切る人にとって最も恐怖することなのだ。

 「信用に足る人物かどうか」は自分が一番よくわかっている。

 嘘をついている人間は、自分を疑う人間といると心地良い。

 心から信用されると、居心地が悪いのだ。

 好かれたいのに心から信用されたくない。矛盾している。

 だから一生涯、誰にも好かれることはない。

 好きになってくれる人は心から信用してくる。だから嫌い。怖い。

 疑ってくる人は自分を嫌っている。だが安心。

 疑われるに相応しい人間だと自分で自覚しているから、疑われているのは嫌でも信用されるよりまだ安心なのだ。

 どうしても、心から人を疑えない人がいる。

 僕は自分の教室にそうした人を連れてくる。

 心根が悪に染まらない人。優しさが強さに変わらないと、甘えと共に自滅していってしまう。

 毒親の母は、自分を一番信じて何度でもくっついてくる子をいじめる。

 どこまでも自分を信用しようとしてくる子を、一番いじめる。

 最も居心地を悪くする子。自分を信用してくる子。

 だから何度でも傷つけて、これでもかこれでもかと苛め抜く。

 そのうち「もうお前なんか信用するか!」と子供が嫌って来れば「ほら、やっぱりあんたも私が嫌いなんだ!」と自己憐憫に浸り、当然の結果を利用して「私はやっぱり愛されない」と嘆く。

 嫌われることをして「やっぱりね!」は無いと思うだろうが、そうしたことを繰り返すのだ。

 自分を嫌う人は、誰かをいじめては誰かに信用されにいく、の繰り返しなのだ。

 自分を信じる子供は、自分が過去に見捨てた「無意識の自分」に見えるのだ。

 追ってくる自分。外からやってくる自分。

 それが怖い。

 「どうせ私なんか嫌われるんだもんね!」

 と自分を見捨てた。

 だから人をバカにして、疑って、他人を批難していると楽。

 罵って人を傷つけていると楽。

 見捨てた自分はこの世から消したくなるのだ。

 信じあう人、前向きな人、好きになってくれる人、信用してくれる人、自分自身で生きる人、それら全部を消したいのだ。

 「どうせ人間なんてこんなもんだよねー!」

 それが神経症者の目指す幸せな世界。

 天罰覿面。既に心の中では地獄に落ちている。

 人を信用する人はまともだ。

 裏切られても傷つけられても、まともに真剣に考えて、やり直そうとする。

 何がいけないのか考え、きちんと信頼を積み重ねようとする。

 それが仇となるのだ。

 正直、他人は選ばなくてはならない。

 心根が悪に染まった人は、もう手遅れだ。

 自分をこの世から消すために生きているのであって、自分探しをしているなら何百倍もマシだ。

 神経症者は過去を消したい。

 親と繋がりを持たず、心理的に孤立したい。

 消えていきたいのだ。

 僕の母もそうである。

 「もう昔のことなんかいいじゃないか。」と家系のこと、子供たちのこと、何も考えずに完全に孤立した人間の群れとして、誰とも繋がりなくロボットのように生きていきたい。

 自分がどうやって生まれてきたのか、なんのために生まれたのかも知らずに。

 何も考えずにただ餌を食って死ぬだけの家畜になりたい。

 思考せず、言われたことにただ従い、よくわからないまま何も感じることなく死んでいきたい。

 生から逃げた人間は、死も迎えられない。

 生きることも死ぬこともできない。

 永遠の地獄を彷徨う。

 昨日、「生と死は同じものなのだ」と気づいた。

 悟った、と自覚した。

 人は気づきにより悟りを得ていく。

 僕は菩薩の修行中なので、これから気づくべき段階を時々確認している。

 菩薩五十二位というものがある。

 その段階について書かれたものを、生徒のひとりが持ってきてくれた。

 お寺の人である。難しい言葉で書いてある仏教の経典の教えを確認して、今の言葉でわかるように説明する。

 今はまだここまでしかわからない、と確認する。

 これから悟るべき段階も確認している。

 故に「これか」と思った。

 生と死は似て非なるものではない。

 同じものなのだ。

 ここを今書くと長くなりそうなので、今は書かない。

 だが、それによりひとつ新しい案が生まれた。

 見捨てた自分を我が子に見て、何度でも裏切る親。

 わざわざ傷つけてくる親。

 その親が最も地獄の業火に苦しむものは何か。

 「裏切っていることを信用しない」だ。

 自分を裏切らなくては存在させてもらえなかった。

 だから自分を見捨てた。

 逆に、自分を裏切ると存在させてもらえない。これが必要なのだ。

 と思いついた。

 裏切る自分は、存在を消されていく。

 他人の脳内に存在できない。

 いることを信じてもらえない。

 かつてのストーカー女子はこう言っていた。

 信用されると居心地が悪くなってくる。

 嘘を言っているから。

 騙して心の中で馬鹿にしているのに、心から自分を信用し、心配し、力になろうとしてくる。

 段々怖くなってくるのだ。

 今まで親にもそんなことをされたことがない。

 なぜ信用してくるのか、「嘘を言っている自分が一番怖くなってくる」のだ。

 人を信用できる人は、最初から「人間」という存在を信用している。

 自分自身が人間であり、信用に足る人物だと自覚しているからだ。

 つまり、自分を好きな人だ。

 どうあっても自分を好きな人同士しか、相容れない。

 信用する者と裏切る者では、関係は続かない。

 信用する者を裏切れば関係は破綻する。

 信用する者を裏切った人は、同じく裏切ってくる人と一緒に自分を信用する人を「悪にしてしまう」ことで自分たちが「善い人たちだ」と思う事にするのだ。

 人を信用できる人は、他人を排除しなくても生きていける。

 だが、自分を裏切った人はなんとかして何者かを排除し続けなくては生きていけない。

 僕は子供の頃から、母と対立し、戦ってきた。

 母は僕が子供の頃、どこでどう育っていたのかすら未だに知らない。

 その頃僕は、仏教の教えの元で絶対的道徳心を養っていた。

 善とは何か。ずっと考えながら生きている。

 「これでいいと思う」と平気で人は言う。大それた問題についても軽々しく口にする。

 「では、それは善と呼べるのか?それは一体なんなのか?」

 と問われたら、自らの結論なのだから当然その理由を述べなくてはならない。

 述べられなくてはおかしい。自分が言ったのだから。

 禅問答のように、人は最後には問われる。

 「お前の人生は善であったのか。」

 何が正しい悪いと言っている人は沢山いるが、では、それが善なのかと問われたらなんと答えるのだろうか?

 「その答えにみな従っても、責任を取れるのか。」

 「その答えは、真実なのか。」

 「その答えは、人々をどこに導くのか。」

 人は成長し、親となり、導き手となる。

 子供をはじめ、後からついてくる人々を導いていく存在だ。

 選ばなくても勝手に選ばれる。

 大人になった時、年下はみな自分についてくる。

 親になった時、子供は自分を信じてついてくる。

 その時、自分自身がどこに人々を導いていくのか。

 「カウンセラーとはなんだと思うか?」

 と昔、問われたことがある。

 僕は当時こう答えた。

 「人生に迷う人々を導いていく導師でなくてはならないと思う。」

 目先のことでしか接点はなくても、相手の魂がどこに進み、この先の人生をどこに進めていくのか、理解した上で魂を押し上げてやる導師でなくてはならない。

 だからこそ、自らは更にその上にい続けられるように、日々精進していなくてはならない。

 人の魂の行く末を左右する、重大な役割だからだ。

 気を楽にしたのが一瞬で、その安心が退行の安心であっては地獄に導いてしまう。

 生きるという恐怖に直面しなくては、死に向かえない。

 根っこのところでは悪に染まり切れない人も、どこかで傷つけられて醜い顔になっている時がある。

 醜態を晒し生きる人を、憐れに思う。

 そして憎しみを捨てた方が良いと思う。

 恐らく、悪に染まり切れない人はいつまでも罪悪感に苦しむ。

 どこかで人のことをつい可哀想に思ってしまうから、また騙される。

 本当の善について理解すれば、罪悪感を持つことなく騙す人を遠ざけられる。

 その道理を、どう説明すればいいのだろうか、と日々考えている。

 僕の母は、人を裏切って傷つく姿を見るのが好きだ。

 自分を見捨てた人は、自分を見捨てた頃の自分の姿を何度でも見たいのだ。

 他人を使って。

 傷ついて悲しむ様を、苦しむ様を、それを見て「私悪くない」と言い張ることで自分から逃げるのだ。

 目の前にあの頃の自分を作り出す。

 そして自分はその自分から逃げる。

 自分を見捨てた人は、何度でも何度でも、人生を終わらせるその時までこれを繰り返す。

 恐ろしい話だが、本当だ。

 無意識の自分は追ってくる。

 乖離したその時を何度でも再現するのだ。

 それも自分と自分の心の中の戦いなのに、外側でわざわざ争いを巻き起こすのだ。

 自分の人生の友人関係を、恋愛関係を、結婚関係を犠牲にしてまで。

 そして最後にはもう一度繰り返す。

 我が子を相手にそれを繰り返し、もう一度人生は再現される。

 我が子の人生で、死して尚繰り返される自分と同じ人生。

 これが輪廻転生。親は自分の前世なのだ。

 心理学ではこの途中まで、既に解明されている。

 もし、目の前の誰かを「自分が」傷つけていることに気付き、「目の前の人はあの時の自分だ」と気づき、相手を受け入れることができたならば、自分が親にしてもらいたかったことを自分自身がしたならば、そこで人生は救われる。

 人は完全に自分を捨てる時、解離させてきた、自分を捨てさせた親とそっくりになる。

 時に「お母さんが正しいと思う!」と親の言ったことを自分の言葉として使いながら、親を味方にして他人を排除にかかる。

 これでもう、自分は完全にいなくなる。

 もう完全に逆向きになり、虚勢を張って生きていくことになる。

 さよなら自分。

 親に嫌われた自分なんか、要らない。

 例えそれが本当に存在していた自分であっても。

 親に好かれない自分ならば、消えていい。

 親を恨んでいる人は、どこまでも親に人生を絡めとられていく。

 憎しみで生きるということは、その反対を目指すということだからだ。

 方向は親が決めている。

 原動力が憎しみである。それが地獄に落ちる人の運命だ。

 親の後ろから追手がくる。

 その後ろから、そのまた後ろから。

 その姿を、僕は子供の頃に見た。

 母の後ろには誰かいた。

 これは!と気づいた。

 そういうことなのか!と。

 自力でなくては、助かることはできない。自分にしかできないことがあるから。

 自分を動かすことは自分にしかできないから。

 僕は当時まだ子供だったので、ゾッとした。

 つまりこうやって人は代々、呪われていくのかと。

 父は完全に母親に取り込まれており、一般的に言うどうしようもないマザコンだった。

 自分を見捨てた人は、傷つけても平気な子供が欲しい。

 そうなって欲しいのだ。

 平気なふりをしてきたから。

 自分と同じになって欲しい。

 だが、自分と同じになって冷酷になった子は、嫌いなのだ。

 自分と同じだからこそ、安心するが嫌いなのだ。

 心の中で冷酷な子をバカにしているのだ。

 自分と似ているから。

 いじめのターゲットにされた子は、選ばれた。

 死ぬまで迫害される役に選ばれた。

 だが、絶望することはない。

 同時に神に選ばれた。

 いじめられる子に選ばれたのは、何度でも人を信用しようとするからだ。

 何度でも人を信用しようとする心は、神に選ばれた証だ。

 だから自分を嫌ってはならない。

 神に与えられた運命を捨て、自分を見捨てた人間に「排除する役」として選ばれたということは、真に愛され愛する人として選ばれた証なのだ。

 絶対的な道徳心だけは、決して捨ててはいけない。

 必ず心根に善が宿っている人に出会うことになるから。

 神に愛されたのだという自信を持って、堂々と迫害されればいい。

 傷ついて悲しむと、相手は「責められた」と自分を批難するかもしれない。

 傷つくことも許されない、悲しむことも許されない。

 裏切れらても信用しろと要求される。

 信用しなくていい。

 真実を見ればいい。

 「この人は自分をいじめていたいだけなのだ」と。

 僕は裏切る人を存在させない。

 信じない。

 「全て自分のために自分のことをきちんと考えた上でやってくれている。」と信じる。

 そう信じると、必ず離れられる。

 「相手はこれが自分の喜ぶことだと心から信じていたのだが、それは相手の誤解なのでさよならしてあげる必要性がある。」

 という結論に達するからだ。

 嫌がらせじゃない、批難じゃない。

 心から自分の身と未来を案じてくれたからだ。

 気に入らないから叩いているわけではない。

 そんな酷いことをするわけがない。

 そんな冷酷で意地の悪い嫌な人間であるわけがない。

 心から、自分のことを思ってしてくれた結果。

 だがそれは自分には必要ないものだった。

 もう申し訳ないので、一緒にいてはいけないのだ。

 こんなにも自分のためを思って尽くしてくれるのだから、申し訳ない。

 とても一緒にいるわけにはいかない。

 そんな母親みたいな真似を、他人にしてもらうわけにはいかない。

 自分が至らないから、なんとかしてあげたいと思う優しさで必死になってくれるのだ。

 決して自分が気に入ることをさせたいなどという、下心ではない。

 自分が気に入るようにさせたいなんて、相手は微塵も思っていない。

 そんな品性下劣な人間ではない。

 そう信じるのだ。

 そして他人ならば離れていける。

 自分の認識の中に存在させない人は、現実にも存在できない。

 裏技のようなものだと考えていい。

 人は無意識の問題を外側に作りだすものだ。

 つまり意図的に「こうなっているのだ」を認識の中に作り出せば、その中に入らない存在は現実に離れていく。

 「こうなっている」を軸に道理を通していくと、実在しないものは消えていく。

 実在するならば、残っていく。

 だからこそ、「自分はそんな人間じゃない」と相手にわかってもらうために、自分を不当に批難する人と一緒にい続けてはならないのだ。

 その人と現実に一緒にいるためには、その通りになっていくしかないのだから。

 それが親子から続いているならば、誰と離れてもその関係は何度でも作られていく。

 気づくまで永遠に終わらない呪い。

 それが前世の業と言うものだ。

 人を呪わば穴二つ。

 自分を正当化するために、不当なこじつけで誰かを悪者にすれば

 実際には自分を裏切っていない人を裏切り者にすることで関係を断つ。

 そしてその後もその人は、「正当化した架空の自分」が存在すると自分自身に思い込ませ続けるために、相手を知らない無関係な人たちに、もう自分とも無関係な相手のことを「自分の脳内にいた架空のその人」だと思わせ続けなくてはならない。

 皆が自分の嘘を信じてくれて、存在しない誰かのことを「いるように思わせ続けてくれる」ことでなんとか精神と今の自分を保つのだ。

 実在しない都合のいい人間を「存在することにしてしまった」

 最初は「親」

 次は「自分」

 そして「他人」

 最後には、誰も残らない。

 実在の人物など一人もいない世界で、生きていくのだ。

 現実に存在するわけもない、子供じみた空想のメシアがいつか現れると、心のどこかで当て込みながら。