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僕は間違っているのかもしれない

 ここしばらく、僕自身の行いが間違っているのかもしれない、と思っている。

 僕は高い道徳性を備えている自信があるが、それが心理的成長に必要であることも知っている。

 しかし、自分自身についてどう思っているかと言うと、僕は僕だけに限らず、愛されずに育った人について「生まれながらの悪」と考えている。

 生まれた家や家族、環境は子供が選ぶことはできない。

 不可抗力であるが、それはもう運命としか言いようがない。

 「生まれつき」と言ってもいいだろう。

 生まれつき、邪悪な存在と、そうでない存在がいる。

 毒親の子は「生まれつき邪悪な存在」だ。

 何もされなくても、元々(不可抗力の運命を元々として考える)根拠なく人を疑い、悪い解釈をする。

 同じ場にいて、愛されて育った子たちの発想や解釈はもっと善良で優しいものだ。

 わかるだろうか。この時点で、どう育ったにせよ子供たちは自分で選んでそうなっているわけではない。

 それでもそこまで違いは出てくるのだ。

 生まれつき、邪悪だ、と言っても差し支えないだろう。

 だからこそ、愛されずに育った「存在そのものが悪」である人間は、人並外れて邪悪な精神を制御すべく努力しなくては、人間と共存すらできない。

 というのが子供の頃からの僕の考えであり、僕自身が人を傷つけることのないよう、僕は「僕から他人を守るため」に自制するようになったのだ。

 そのための修行や努力なのだ。

 頭の中で考えているだけであっても、自分のことを傷つけるようなことばかり妄想している人は、いて欲しくない。

 それは犯罪を犯す前の性犯罪者と同じで、元々の性癖が原因だから相手が嫌がることであっても、いつもいつも勝手に人のことを想像している。

 そう、あなたのことも。

 そのような人にいて欲しいだろうか?

 自分を疑わず、信じてくれる人がいいのは誰もが同じだ。

 自分が知ったら傷つくような想像ばかりしている人など、わざわざ選ばないだろう。

 そしてそれが毒親の子である。

 僕は、僕が人と仲良くしてほしくて、危険な人間であることをやめる必要性があった。

 結局僕の場合は、「僕自身が人間の仲間になりたがったから」という理由で危険な存在であることをやめた。

 しかし、殆どの人は人間そのものが嫌いになっていて、愛された子たちを前にしても「この人たちの仲間になりたい」と切実に思うことはないのだうろ。

 仲良くなりたがっている人、として「いい人ぶりたい人」は沢山いるが、とにかく自己執着が激しいだけなのだ。

 それはどうでもいいが、僕は僕の教えることを聞きながら、人の時間を無駄にすることが我慢ならないのだ。

 皆さんの役には立たないだろう。

 僕は存在するはずのない人格とされているわけだが、僕は「今すぐ愛し愛される人たちの仲間として生きる」と決断してそうなったわけで、恐らくそこが珍しいのだろう。

 殆どの人は「いつかそうなりたい」という願望は持っているが、しかし今はやはり「自分を見て欲しい」「他人に優越したい」なのだ。

 そっちで満足して、時間が余ったらまあ人と仲良くできたらいいよね、とりあえずは自分が他人にちやほやされることかな、そのために生きているからね。

 そんな感じだ。

 僕は「他人に優越することを諦めて、信頼し合う人たちの仲間になることを優先した」のだ。

 だから、僕の教えていることは「自分が生まれながらに邪悪な存在である」と自覚して、死ぬまでそうであるのは変わりないから、人として生きるために精神の戦いをし続け仲間を守る覚悟をしている人にしか、役に立たない。

 つまり、殆ど人の役には立たない。

 そんなことしたい人が全然いない。

 どうやら、自分のことを愛ある家族の子と同じような存在だと勘違いしているらしい。

 僕は全く違う。

 僕は生まれながらに邪悪だ。親も自分の一部であり、親の精神は自分の人格なのだから。

 人は過去の経験から発想が生まれるのだから、生涯変わることはない。

 それが自分なので、生まれた後から「いい人だと認めてもらう」なんてことは無理だ。

 そうではないのだから。

 そうではないにも関わらず、人間の「仲間」にしてほしいのだから自分で努力するしかない。

 そのままでいれば、生まれたままの自然な姿は邪悪な存在だ。

 自分の欲ばかりで、自分が得しないことはしたくない。

 他人のために何かするなど損としか考えない。

 何かしてあげたら自分が「いい人」になれた気がしていい気分。

 そのくらい、微塵も心優しいところがない。何もかもに見返り要求がある。

 その性根から腐ったような人間こそ、毒親の子ではないか。

 それを「いい人だと認めてちやほやしろ」など、とんでもない話だ。

 自分なんていない方が人間たちには安全で有難いと、なぜわからないのか。

 剰え、言葉で「こんなの迷惑だよね」といちいち聞くような迷惑っぷりだ。

 人間的に問題がある人は、どこまでいってもやることに問題がある。人の気持ちなど考えることは決してないのだ。

 既に過ぎてどうでもいいくらいの時になってから、振り返って自分が反省しているかのようなパフォーマンスを見せる。優しい人を演じる。

 だがしかし、常にたった今は、実在の自分は利己的なのだ。

 そんな邪悪の化身みたいな人間なので、殆どの人はそのまんま生きるよというのが神経症者なのだろう。

 僕の場合は、本当にたまたま、違った。

 僕は自分にばかり都合がいい展開になっても、皆の前で引け目を感じる。

 そんなことは望んでいない。

 僕は、自分が母の立場になって小さな輪の中で人を支配したかったわけではないのだ。

 偉そうな態度、なんでもできる顔。失敗してもそれを失敗だとすら認めない態度。

 そんなクズとして生きるのがどうしても堪えられなかったが、どうあっても生まれながらに悪なのだからそれはしょうがない。

 人の迷惑になる存在として生まれたのだから、まだこの世を生きたいと思うならばせめて迷惑にならないよう、他人が傷付くことを考えない程度の人間になるしかない。

 そうでなくては、自分が生きていてビクビクしてしまうから。

 バレたら困るような発想が出てこないよう、僕は小学生の頃からずっと精神鍛錬をしている。

 今はもう、悪しきことを考えなくなった。

 だが、元々邪悪なので、冷酷な発想も出そうと思えば出てくる。

 それでも今はもう、人を傷つけるより守る方がいいと心から思っているので、特に大事な人達に対して悪しきことなど微塵も考えない。

 人間の行動は、先に想像があって後から物理的行動を起こす。

 脳内に何もイメージができていないと、人間は動かないのだ。動けないと言った方がいいだろう。必ず先の見当をつける。

 よって、自ら悪しき事が起きているとか、起きると想像している人は必ずそうなるように率先して自ら動いていく。

 そうなりたくてなっているだけなのだ。

 だから毒親の子は危険なのだ。

 そのまま生きていれば、他人に見せるのは地獄しかない。

 「この人がいてくれるから、人を信じられるようになった。この人がいるから、希望が見えてくる。」

 毒親の子はそんな存在になれない。なっていない。なろうとしない。

 存在が迷惑なのは、心が汚いからだ。

 一生どうにもならない病気みたいなものだ。

 僕は毒親の子、自分も含めて、愛されずに育った人達を「生まれながら前科者、性犯罪者と同じ」と考えている。

 そりゃそうだろう。

 愛されて育った子も知っているが、まるっきり発想が違う。

 毒親の子同士で群がる人たちは自分が好きだろうが、僕は発想からして天国に相応しい人たちの方が好きなのだ。

 心優しい、疑いを持たないように精神の世界で戦う人。

 親友も恋人も、そっちの方がいい。

 一緒にいて僕は安心なのだ。だから彼らが安心できるだけの人間になった。

 単純な理由なのだ。

 そんなわけで、僕は恐らく「毒親の子」の役には立たない。

 方向性が違うし、既に仲間ではない。

 見ている限り、毒親の子たちは「いつかは救われる」という状態でいたいのだ。

 まだできない、ついやっちゃう。

 この状態でいる人は、甘えたいだけで今の自分のままで生きていくことにはなんら問題を感じていない。

 要は、今の自分が結構好きなのだ。しょうがないという理由をつけて納得できるのだ。

 残念だが、僕の場合はそんな甘い状態ではなかった。

 他人に言い訳して、わかってもらえればいい、と自分で納得できるほど自分で自分を肯定できなかった。

 だから変わるしかなかった。地獄に生まれている証拠だ。

 もう地獄から出るしかない。そのくらいド底辺の地獄に生まれたのだ。

 殆どの人は、まだ邪悪さも不幸も足りないのだ。

 「もうこんなところはこりごりだ」とは思わず、今でもまだこれから都合がいいことが起きると思っている。

 今の自分のままでも、欲しいものは手に入ると信じている。

 それを信じられるだけまだマシだ。

 そんなもの「この僕が手に入れられるわけないだろ!」と自分でも泣きたくなるような自分として生まれて、今の僕はある。

 別に自分がすごいとも思わないし、毒親の子たちも理解はできるからそのままではいけないなんて思わない。

 そうなるべき時にはそうなるし、なる必要がないならばならない。

 それだけのことだ。

 ただ、話を聞いてきた皆さんには申し訳ないと思っている。

 僕が勘違いしていたのだ。

 そういえば、救いを求めているのであって、今既に「愛されている世界」という展開は望んでもいないのだった。

 今の自分をわかってくれる人が現れると信じられる程度の状態なのだ。

 待つ姿勢でいるだけ、幸せに生まれたと言えるだろう。

 それだけ自己肯定できる今なのだから。

 なんにもないと、そんなに肯定することはできない。

 だからいつも思うのだ「何もない方が幸いだ」と。

 何もかも半端で、なんとなく嫌な気分がする程度の不幸だったら、そんなものは「普通」だからどうにもしなくていいのだ。

 どうにかする必要が出てきた人は、幸いなのだろう。

 今後のことを考えねばと思った。

 決意して進む人には役立つことがあるだろうが、心の戦いをして仲間を守るなんてことをしたい人がいないだろう。

 すごい人ごっこ、がしたくてしょうがないのだから。

 僕は、来るべき時のために、今もこれからも、心の戦いをして生きていく。

 今、ここでは過去の話ばかり。

 そんな「自称素晴らしい人」で今の日本は溢れている。

 おじいちゃんたちが「自分は誠実だ」と言いまくるから、みなも真似しているのだろう。

 「私はこんな人です」と自分で言うのだから、やはり農民たちには難しいことだったのだろう。

 ワイワイ、やいのやいの。群れて同じことをするのは、何百年も昔から変わらない。

 群れないなら群れないで、大衆を守るでもない。率いるもの、導くもの、生み出しているわけでもない。

 ただ仲間に入れなかっただけ。

 まあ、こんなところだろう。

 「いつかカッコいいヒーローになれる」と信じている今を送り続けていたいだけ。

 もうなった、という今でなくては意味がないと思った僕の方が、変わらない人たちより遥かに強欲なのだろう。

 人間の仲間になるために、心の中で悪と戦う邪悪な仲間がいるかと思ったが、その姿勢で生きる僕は結局愛された子たちの方の仲間にしかならないのだとわかった。

 自分が稀なのだとわかってはいるが、同じような仲間が全くいないことに関しては残念に思っている。

 僕はやはり、これからも愛や信頼の中を生きていくしかないのだろう。

 僕は彼らが好きで、彼らの仲間である方が自分でも嬉しいのだから。

 

 疑い、疑われる関係などいらないし、信じているふりをしている関係もいらない。

 本当にそうでないならば、僕はもう要らないと思う。

 四十代にもなると、もう今更偽物を見て生きようとも思わなくなるものなのだ。

 「一回体験してみたいなー」なんて時期はもうとっくに過ぎて、体験したいものは一通り体験できたから、もう本物しかいらない、と思えるのだ。

 勇気がない人は、体験しないまま分かったふりをして生きていく。それが一番憐れだろう。

 その年に相応しい発達段階や欲求がある。一通り満足できるだけ勇気を出して行動し、失敗をして痛い目に遭う方が、人生はより味わい深いものになる。

 謙虚に生きる人になるためにも、若い頃から勇気を出して、素直に行動した方がいいのだ。

 知ったかぶりの嘘は醜いが、失敗ばかりした人の体験談は人の心に響くものなのだから。