本当に悟りを開き切る、境地に至ること、また至れた人を求めるならば、現代の仏教の中にそれを求めない方がいいでしょう。
あらゆる宗教の中にそのゴールを見ることはないでしょう。
最近、原始仏教とも呼ばれているダンマパダを読みました。
ゴータマ・ブッダが説いた教えの、一番最初の元とされるものです。
その後、なぜか改変されたりしながら、ブッダの説いた教えともやり方とも関係ない新しいものが生まれました。次々生まれました。
それは大乗仏教と呼ばれるようになり、過去のもの、原点であるはずのものは小乗仏教と呼ばれるようになりました。
色々ありがたい話をしてくれる坊さんたちはいます。
しかし、冷静に考えればどれもこれも、そもそもブッダが教えたことからは外れています。
組織化され、殆ど企業と同じになった宗教には、やはり悟りのゴールを目指せるものはありません。
彼らは結局、ブッダの教えより「自分が所属している組織のルール」を優先して生きています。それはブッダが説いた教えの中で言うところの「不自由」でしかありません。
彼らは、ブッダに帰依しているはずなのに、実際にはブッダに従っていません。
そして、大乗仏教は人々の救済に当たるとするものですから、目的そのものが違っています。
ゴータマ・ブッダの教えに沿うならば、私は私を救い、私をよりどころとし、それだけで幸せ。それでいいのです。
僕も度々引用している「ダライ・ラマ」は有名な、チベット仏教の長です。
しかし、彼らはそもそも有無を言わせず誘拐されてきた子供たちです。代々、占いの通りにどこかに行き子供を連れてきて、ダライ・ラマとします。そのように教育していきます。
古来からそのような風習がある場所はあります。同じでなくとも、今では問題とされるようなことが行われている場合もあります。
別に僕はダライ・ラマの悪口を言いたいのではありません。特に、今のダライ・ラマは愛嬌があるし、彼の説法を僕も熱心に聞いてきましたので寧ろ彼のファンだと思います。
ただ、過去には生まれ変わりとして発見されたダライ・ラマが還俗してしまうこともありました。その際に抗えなかったものが、情欲だそうです。
人間ですからね。連れてきて教育しても、期待通りに育たないこともあるでしょう。彼らは彼らで、自分で何も選ぶことができない不自由の身です。崇め奉られてしまい、そこから抜け出ることもできません。
そんな風に、生まれながらに縛られてしまう人もいますが、ゴータマ・ブッダはそれを捨てて出家した人です。
その彼に見習う割には、やっていることがおかしくないか?と言いたいことは世間にいくらでもあります。
ただ、ゴータマ・ブッダは剃髪して僧侶の顔をしていても立派な人ではないことが多いと述べていますから、昔からそんなものなのでしょう。
彼の時代も、宗教はありました。バラモン教です。
今もまた、同じことが起きています。
かつての人々を縛る宗教のひとつに「仏教」が入ってきただけで、起きていることは何も変わりません。
本当に出家修行者になるならば、社会で企業のようにして生きていないでしょう。托鉢して生きているでしょう。
僧侶を「資格発行」でなっていいことにし、各寺も本山に上納金を渡し続けなくてはならない。
葬儀に出ては大金をもらい、「これで亡くなった方は、ブッダの弟子になりました。」と勝手なことを言い名前まで付ける。
こんなことを、ブッダはひとつもやれと説いていません。
今の仏教の僧侶たちを本物のブッダが見たら、どう思うのでしょうか。
「あなたたちこそ、我が弟子たち」と言うでしょうか?
外車を乗り回して銀座の店に通う坊主を、ブッダが徳の高い僧侶と認めるでしょうか?
そもそも、今の「仏教」を知ったら、どう思うでしょうか。
僕自身が大乗仏教の元で育ち、その教えに触れてきたのでそれ自体を全否定はしません。結果、たまたま子供だったせいもあるかもしれませんが、とにかく本質的なことだけ理解して、精神鍛錬の道を進んでくることができましたから。
生きるために、我慢して従い続けなくてはならない。そんな縛りとなっている「宗派」や「宗教」は、必要なのでしょうか。
ブッダの教えは必要だと思います。
しかし、その教えに従うならば…と他のものをセットにしていることは、とても善き流れとは言えません。
徳の低い僧侶は、「僧侶を尊敬しろ」と求めますが、僕は元となったブッダの教えを知り、「意味をはき違えている、都合よく使っている」と知ったことが沢山あります。
僕は精神修行をしてきていたおかげで、初めて読みましたが内容はほぼ殆ど理解できます。本当の意味で理解できますから、一般的に「間違って広まっている」とわかることもありました。
こんなものは、実践しないと理解できないです。
しかも、かつてゴータマ・ブッダが生きていた頃は、生きて輪廻してたどり着くはずだった「涅槃」が、いつの間にやら「死んだら行くもの」にされている。
伝言ゲームの間違ったやつですね。
しかし、もっと早くに本物を見るべきでした。
ダンマパダを紐解いてみれば、何もかもの答えが出ていると言っても過言ではないくらい、これが正解だと納得できるものばかりです。
逆に「こんなに歪んで広まっているものなのか」と知りました。
特に、ただ原文を求めているのに、いちいちどこそか大学の教授、なる人たちなどが解釈や解説をつけていて、邪魔でしょうがないのです。
「お前はブッダじゃないだろ」と思いましたが、傲慢極まりないことです。
悟りを開いた人の言葉を、そうではない者が解釈して講釈まで垂れるのだから呆れたものです。
「この悟りを得た!」と体感して理解したならともかく、それでもその時は「自分の言葉」で語れるでしょうからやはりブッダの言葉はブッダの言葉として伝えなくてはなりません。
どこそか大学の教授なる人たちなどは、完全にブッダと対等に肩を並べているつもりで、「私はそうは思わないけど」などと言いながら、「この時代の人だから、今なら違うけど」なんて浅はか極まりない、愚かな解釈をするのです。
そしてそれを本に書いて出せば、「そうなんだー」と鵜呑みにするバカ者が沢山いると思います。
「偉い人が言うからそれが真実」と思うのです。そして、それはブッダの教えを理解したわけではなく、「どこそか大学の教授の個人的解釈を知っただけ」なのに、自分が何かを理解したかのような錯覚に陥るのです。
とにかく、そんなことが多々あるのだと知りました。
余計なものはいらないです。ブッダの言葉だけで十分です。
「それだと意味がわからない」と思うかもしれませんが、それでいいのです。
意味がわからないから、悟りを開いた時に気づけるのです。
「これのことだったのか!」
この気づきこそ悟りですから、ブッダの言った意味は理解できなくていいのです。
実際僕自身、「どういう意味なんだろう」とか「僕はそう思わないけどなー」と考え続けながら生きてきて、何かのきっかけに気づくことができました。
そんな時は、「覚えた時に理解した意味ではない、ということに気づく」のです。
「思ってたような意味じゃなかったんだ!」という気づきです。
先に誰かの講釈を聞いて何もかもわかった気になってしまえば、本当に悟りを得ることができなくなってしまいます。
だからこそ、不要なものはなくていいのです。
そもそもブッダの教えたものがあれば、既に必要なものはあるのだからそれでいいのです。
というわけで、一番シンプルな、できれば翻訳も直訳が良かったのですが…とにかく原文のままに近いものを読むことにしました。
一応言っておきますが、精神修行をせずに幸福になるなど、不可能ですよ。
欲しいものが手に入って、思い通りのことが起きたら幸せになれる!なんて考えている人は、地獄に落ちるでしょう。落ちているでしょう。
それだけ強欲な望みを持つ割には、現実には何も望んだ通りに手に入らない、満足できない状況でしょう。
それが当然なのです。
いつも心穏やかに、下心を持つこともなく、怒りに心を乱すこともなく、周りをよく見て今を実感し、この日々を楽しむ。
安寧な精神の世界にこそ、幸福はあります。
皆さんも、自らが住まう心の国を育て、より良い精神発展を目指してください。
心豊かな人こそ、真に幸福な人です。