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ギフテッドの仲間たちへ

 これは世にギフテッドと呼ばれる、特出して知能が高く、その特徴を備えている人たちに向けてのメッセージだ。

 ギフテッドの多くが、世間から理解されず、自分の話を理解できる人に出会うこともなく、はみ出し、あぶれ、時に自殺しているようだ。

 最近、映像や手記にて、僕も間違いなく僕と同じ仲間だとわかる人たちを目にする機会があり、ある側面に特化した僕から、仲間たちのために今回の記事を書きたいと思う。

 まず、ひとつ励ましたい。

 僕たちの人生は、最初から最後まで孤独との闘いだ。

 殆どの人間とは会話しているようでいて会話になっていないことに、既に気づけている人はこの意味がわかるだろう。

 誰にも理解されず、外から確認してもらえないと人間は自分の存在に不安を感じる。

 僕たちは噛み合った会話さえすることが難しいわけだが、一人の時も死の魅力に負けることなく、生に絶望することなく、こうして仲間がいることを確認して希望を持ってほしい。

 僕も死にたくなることはしょっちゅうで、なんの希望も持てなくなることもよくある。

 何をしても無駄、何ができても無駄。

 この辛い現実も仲間がいれば乗り越えられる。

 僕は、仲間たちの中でもかなり発達している方のようなので、こと「人間」について疑問を持っている仲間がいるならば、僕の話も参考になるだろう。

 そして、本題だ。

 仲間たちに告ぐ。

 君たちは、今まで生きてくる中で、また今現在も、世の中で正しいとされることに疑問を持っていたり、自分自身は間違いないと「わかっていること」なのに、誰にも理解されず、間違いが正しいことにされていたり、正しいことを間違いにされたり、またバカにされたりしてきていることだろう。

 今回は、一般的な人向けではないので細かい説明は省く。

 結論だけで理解できるはずなので、いつもの面倒なことはやらない。

 ひとつ、これを知ってほしい。

 「教えている人、は実は理解していない人が殆どである。」

 ということ。

 僕はある高名な学者に学んだ。ハーバード大学で博士号を取得していた。

 最初は、とても賢い人なのだと思って興奮するくらい、楽しいことを教えてもらった。

 しかし僕は誤解していた。

 僕、そして僕たちは、「自分が理解していないことを教えていいと思っていない」のだ。

 だから、教えている人は理解している人だと思っていた。

 それは全くの誤解であった。

 理解していないが、教えているのだ。

 「覚えた」のことを、「わかった」と勘違いしているのだ。殆どの人間には、その区別がないのだ。悪気があるわけではなく、恐らく「それは違うものだ」とひとつひとつを区別して認識する能力がないのだと思われる。

 「理解した」とは、自分自身が教えた内容を生み出した人と同レベルになったということだ。

 アインシュタインの理論を理解できた人は、その続きを発想できる。

 自分自身の力を持って、彼の続きを生み出せる。

 それが「理解している人」だ。

 本当に理解した時点で、既に同レベルだ。

 だが、殆どの人はそうではなかった。理解できていない。

 わかった、とは恐らく「教えた人への返事」なのだろう。

 他人に向けて言っている言葉なのだろう。

 「なるほど、こういうことか!」というひらめき、悟りが「わかった」なのに、子供が返事をするように「わかった!」と口に出して伝える状況を「わかった」だと思っているのだ。

 「何を言われたのか、説明がわかった」

 これはわかった、ではない。

 言葉がわかるのは当たり前として、これがどういう意味かがわかったのか、が「わかったのか?」だ。

 仲間たちに告ぐ。

 僕たちは、世間ではバカにされたり、協調性がない問題児のように扱われることが多い。

 みな似たような体験をしているだろう。

 そこで誰も味方になってくれる人がおらず、行き詰まることもあるだろう。

 僕は大人になっても、心理治療の場において延々と内面的な問題がある人として扱われ続けた。

 そして誰も信用できなくなり、信用しないからこそ自力で学び、やっと僕が話している内容を理解してくれる人に出会った。

 僕は高度な学術や研究を、大学で学んでいなくても理解した。

 そして僕の話を、高度な学術を習得している研究者が理解した。

 外からも確認してもらえて、間違いない事実を確信できた。

 しかし、無駄になった時間はどうにもならない。

 「権威ある人」の言うことなど、信じなければよかったと、大いに後悔した。

 自分では「おかしい」とわかっているのに、同じことを言われ続け、誘導され続け、自分の何がおかしいのか考え続けながら、僕は病院に通い続けるという愚かな真似をしてしまった。

 そうやって自分を抑え付け、権威ある専門家に人生を任せ、「まとも」になろうとしたばかりに、異常な人に捕まり続けた。

 「自分が理解していない、わからないことさえわからない。」

 こんな人間がこの世に存在するとは思わなかった。

 自分が本当に理解できているのか、まだわからないのか、新しい事実に出会った時に自分自身で気づくことすらできない。その上、出会うものは全てわかると思い込んで大勢の人がどうなのかを「決めて」しまうのだ。

 彼らは人の人生を左右する判断をしている。そこに重い責任感がなかった。

 「頭おかしい人たち、まともに生きていけない 我々とは違う負け組 を助けてあげている。」

 この姿勢なのだとわかった。優越感を持っているのだ。自分たちより下の存在だと思っているからこその親切心が出てくるのだ。

 元々医師であった自分自身がうつ病になり、それをきっかけに精神医療がおかしいと気づき、精神科医に転向した医師がいた。

 僕はなんの力もないので、力ある人がなんとかするだろう。

 社会の大問題は、権威ある人、その力を持つ人がなんとかするしかないのだ。

 大衆にできることなど、束になって何かすることしかない。

 束になって行動するか、行動しないか。

 僕もまた大衆の一人だから、並外れて理解はできるが特に何もしない。

 どこに訴えようとは思わない。

 しかし、僕の仲間たちは別だ。仲間を助けるのは仲間である人間の義務だ。

 僕は、「わかっていない人」なのに「わかっている人」の役を立場上わかっているはずの人にやらせてしまっていた。それは僕の失敗だ。

 肩書の上ではわかっていないと困るし、わかるはずの人。それは定義の上での話であり、現実の今の状況は、すべて自分が見て体験しているのだから判断するのは自分自身。すべては自分の能力にかかっている。「普通ならわかるはずだから」となんにも考えずに僕は「わかる人扱い」をしていた。

 この滑稽なまでの思い込みが、自分自身の首を絞めた。結局僕は、最後の最後まで知りもしないのに「一般的にできるということになっている肩書を持つ人」を信じて頼ってしまった。

 この愚かな行いが、僕の罪だ。それまでの人生を考えれば、肩書を持っていることと中身があるかなしかは関係ないと考え、自ら真実を知るために努力すべきであった。

 そして、「この人たちの方が、僕よりも現実がわかっていない」と自覚できたら、あてにはしなくなった。

 そして内部がどうなっているのかも、目の当たりにした。

 僕たちは、社会的権威など縋る必要がない。

 「わかる」という点においては、みな自力でなんとかしていける頭脳を持っている。

 ただし、自分を理解してくれる人は滅多にいない。

 僕自身も、誰に教わることなく、生まれた時に与えられたものを運命だと受け入れて、使うことにした。

 自分自身の頭。力をあてにすることにした。

 僕の場合は、もう一度一族が培ってきたことを思い出し、「誰でも得られるもの」を優先することをやめた。ご先祖様を蔑ろにし、「誰でも手に入るもの」ばかりを得ようとした罰だろう。失敗したのだから。

 ご先祖様などの運命、そして自分自身の持って生まれた特性や能力。

 天が与えた「選べないもの」を捨てて生きようとした僕は罰を受けたのだ。

 他人に褒めてもらえなくても、それでいくら稼げるなんて得がなくても、「それが自分自身」なのだから、その自分自身で生きるべきだった。

 反省し、自分の力をもう一度頼りにし始め、内面的にも次々変革が起きた。

 以前と同じ目で見ていないし、「至高体験」と呼ばれる不思議な体験もした。

 僕の仲間である君たちは、世間では「バカ」とされているかもしれないが、勉強ができるできないはどうでもいい話なのだ。優等生であるかないかなんてどうでもいい。

 寧ろ、優等生にはなっていないはずだ。

 自分自身が持って生まれた力を、失ってはいけない。

 世間に名前などない「何か」が、各々与えられた力なのだ。それを言葉で説明できる人は誰もいない。

 その何かが、自分自身が自然の力を獲得するために必要な部分なのだ。

 その仕組みについて、僕は既に理解している。ただ、説明したところでわかる人はなかなかいないだろう。僕ももう、他人に言葉で何を説明しても意味がない、とあきらめているのだ。

 頑張って説明し続けてきた。

 それでも、権威ある人にこそバカにされ違う解釈をされ、レッテルを貼られる。

 扱いに絶望したわけではない。

 人間という生き物に期待しなくなったのだ。

 あまりにも、知能には差があると嫌でも知ることになった。

 これが現実なのだと今は受け入れている。

 もう一度確認する。

 世間のほとんどの人は、どんなに偉い人だろうが高学歴だろうが関係なく、他人の命じたとおりに生きている。

 「普通」という自分でも説明できない言葉を多用しながら、「たった今世間で良いとされること」を振りかざして、コロコロと意見を変えながらカメレオンのように生きている。

 彼らは、自分自身に信念がない。いい格好はするが、中身はない。

 そして、周囲で見ている人たちも、思考する頭脳はない。

 多数が言えば「正しい」としか認識できない。

 思考し続けて結論を出す知能がないのだ。

 どれが事実だったのか、聞いた話だったのか、そのような区別を脳内にて行うことができず、常に他人に確認して安心しているのだ。

 よって自分の意思で生きることはない。

 他人に良いとされること、既に「これをやればあの人と同じ」と安心できる誰かがいることしかやらない。

 僕たちの場合は違う。事実で考える。

 そして、それは正しい。正しいと自分ではわかっているはずだ。

 間違いないとわかっているからこそ、教わっていないが正しいことを実行し、そのため他人と同じ行動をとり群れることが無くなってしまう。

 群れないからおかしい、我儘、などという烙印も押される。

 僕たちは、殆どの人から見て理解できない。それは諦めるしかない。

 発達障害と診断されることもあるが、自分以下の知能の権威が僕たちを診断しようとしたとき、自分が間違いなく正しいと思いたい権威ある人は、なんとかして僕たちを下に、つまり問題ある人にして安心しようとしてくる。

 「正しいことは何か」を彼らは自分で決めていい。彼らが決めたことは、社会にとって正しいことにしてもらえる。

 要は、彼らは好きなことを選んでいいのだ。

 エリートたちの多くは自分たちが選ばれし人のように考えている。庶民や理想の枠に入れない人たちのことを見下している。

 だからこそ、僕たちは高機能ASDのような扱いになってしまう。

 勿論、「同レベルの知能」がある人に出会った時にそれは違うとわかるが、そのように高度な頭脳を持ちながら研究世界にいる人に出会うにはきっかけが必要だ。

 一方的でいい。本を書いている人の中に、知能が高い人を見つけるだろう。

 本人は無自覚でも、似たような人は見つかる。

 それはきっかけに過ぎないが、完全に暗闇の中を彷徨う時にはそれが光明となるだろう。

 僕たちは高度な教えを覚えた人がそれを教えていると、今教えている本人が教えている内容を理解しているのだと勘違いしてしまう。

 本人も他人の言葉を語りながら自分がわかっているのだと勘違いするが、自らの能力を頭打ちにしてしまうだろう。
 実際にはそれ以上の伸びがあるはずの人なのに、そこで「他人の皮」をかぶり自分を消して終了だ。

 しかし、「既に他人にちやほやされるとわかっている何か」なのだから、欲深い人たちにとっては魅力的なのだろう。

 彼らはそのような欲を「正義」や「大儀」「献身」等で覆いつくし、社会的地位を維持しようとする。

 まあ、僕たちには全く興味もわかないことだ。

 そんなことより、自分が、ただ知りたいことがある。

 だからこそ、僕たちは僕たちなのだ。

 説明しながら、図を描いた方が早いだろうなと思ったが、君たちは自分でやってくれ。

 こうして起きていることを計算するために集中していると、鼻血が出そうになるほど頭がカーッと熱くなってくる。

 もう眠くなってきた。

 僕たちは互いに存在を確認し合い、そして会話することで自分の形をよりくっきりと生み出していかねばならない。

 殆どの人は、目先のことでしか考えないし、止まった時間の中を生きている。

 僕たちの時間の尺度は長い。

 しかしそれが本当は必要なのだと分かってもらうことすら難しい。

 いずれ、結果が出た時にわかる。10年、20年と経ってから。

 僕自身が長い時間の尺度で物事を考える、珍しいパーソナリティだと発見されたわけだが、しかし「なぜそれができるのか」などについて質問される割には、「なぜか」をたった今見せても「普通はそんなことしない」と批難されるのだ。

 君たちにはわかるだろう。この滑稽さが。

 これが、凡人だ。

 僕たちにとっては、小動物か何かのように見えている、大衆だ。

 君たちは罪悪感から、そのように見ないようにしていると思うが、それが事実だ。

 知能がど真ん中の人から見ても、知的障害がある子は「自分たちとは違う」と見てわかるように、僕たちから見ても、見てわかる。

 バカにされることが多かった分、また傲慢になっていない分、人より上だと思うことに抵抗があるかもしれないが、それはそれで自己執着と言うものだ。

 自分を「いい人」にしようとするものではない。

 ただ、数字のように、事実はあるがまま認識すればいい。

 いずれ結果は出る。

 後で困るほど周りに合わせて折れるものではない。

 どうせ、合わせていく気などないのだから。

 僕も最近は、自分のしていることに意味があるのか疑問に思えてきている。

 どうせ理解されない。

 説明しろと求める人間に限って、説明したところで理解できる頭など無いのだから、笑わせるじゃないか。

 「理解できた」と言いながら、今の説明を復唱するくらい、理解できていないのだ。

 君たちは、誰かにわかってもらおうとするな。

 天才のコミュニティに入るのも面倒だが、少なくとも僕は今こうして活動をしている。

 悩みは無くても申し込んでくれば、知能が高い会話ができる。頭を活性化させるくらいは役に立つ。

 自分より程度が下の人にわかってもらおうとしていると、自分の頭の中がおかしくなってくるから、気をつけろ。

 バカにつける薬はない。

 俺が発明するまでは。

 だから今のところは、諦めておきたまえよ。

 既に何が正しいのかは、知っているのだから。

 理解できない人と力を合わせようとしなくていいのだ。

 僕たちに敵意はないが、相手側には大いに敵意あることばかりだ。

 僕たちは世間に自分たちを認めさせようとする必要はないが、そんな真似をせず僕たちが集まった方が遥かに大きな力を発揮できるのだから、仲間同士力を合わせて生きていこう。

 僕たちを迫害する人たちは、それはそれで向こう側には支配者と崇拝者がいるので勝手にうまくやるだろう。

 僕たちには、関係ない人たちなのだ。数のことは気にせず、本物を見つけ大事にしていくのだ。

 そして、僕たちとは正反対にいるような、しかし似ているような、知能ではない何かが特化している人、別の何かで自然とつながりを持てる人がいるから、彼らを助け、そしてその力で助けてもらうのだ。

 僕たちは自然の力が人一倍使えるように生まれている。

 僕たちは、全体の中でも進化が早い人間だ。2%程度しかいない。

 ど真ん中を軸に作っている「普通」の基準で生きていけるのは、より「普通」の人であり、生まれつき普通の人たちからすれば僕たちは異端にしかならない。

 僕たちが見ればわかる「おかしくない行動」も、彼らは説明されても理解できないから既に知っている「自分より劣っている何か」と認識して安心感だけ得ようとする。

 そんなものに合わせなくていい。

 優越感に浸り安心するために、わからないものを見下して生きるしかない人間は、僕たちにとっては真の能無しであり憐れにこそ思えど張り合うべき対象ですらない。

 皆に安心してもらうため「一般的になること」にやたら力を費やして同化しようとすることはない。

 孤独でも仲間はいる。

 数は少ないが、少ないがために僕たちには遠くのことでもわかる力が備わっている。

 まだその力を自覚して使えないならば、僕のところに来て修行することだ。

 では、仲間たちよ、元気でいてくれ。

 決して自ら命を絶つことなく、共に力を合わせて、知恵を集めて、生きていこう。

まだ見ぬギフテッドの仲間

 最上 雄基