「マリア様がみてる」という作品がある。
僕のオタクな友人が、勧めて?きて知った。
おっさん、こんなもの観てたのか…と思ったが、少女漫画である。
「男子禁制」
こう聞くと、バラ園のような美しい風景が思い浮かんでくる。
単なるイメージであるが、そのイメージを作っていくのはなんらかの作品群である。事実とは関係ない。
実際には、男子禁制の場所などバラ園どころか野獣の王国になっていることは、単独で王国からやってくる連中を見ていれば明白である。
野獣王国の中身がバレないように、外に出るときには分厚い皮をかぶって出てくる。
薄手のカーディガンくらいしかかぶらない人と比べて、異質すぎる。
同類である女子禁制の原始人王国から来た連中が、同じように分厚い皮をかぶっているので彼女たちを崇拝してしまうのだ。
今回は、そんな話ではない。
まず、武田邦彦先生のネットラジオ、ヒバリクラブを紹介する。
LGBT法案の謎、という話である。実はこれのほかに以前染色体の話をされていたのでそれを探したのだがぱっと見つからず、とりあえずこちらを貼っておいた。
武田先生は普通にまともな科学者なので、ぜひ話を参考にしてほしい。
同性同士の恋愛は、特におかしな話でもなく、昔からある。
そこで武田先生の話を引用したいのだ。もし時間がある方、興味がある方は、彼が以前染色体の構造について話している回があるので探してみるといい。
それについては僕も実は録画したものがあるのだが、途中で投げ出している。冗談抜きで、仕事部屋として用意している部屋が暑すぎて、千葉を甘く見ていたことを反省して今対処を考えているところなのだ。
しばらくいると熱中症になってしまうことがわかった。どうした千葉、なんだこれは。
息を止めるかのように録画しては、途中でぼーっとしてきてやめる、の繰り返しをしている。夏の間だけでも何か対処を考えねばならないだろう。
話を戻す。
男女もグラデーション的に段階があると既に分かっている、という話をヒバリクラブで武田先生がなさっていたのだ。
彼は「強男、弱女」という表現を使って説明していたが、より男らしく、より女らしく、が理想的という話ではない。
もともと、それぞれ違いがあるから、「自分との差」がちょうどいい人が自分にとって好ましいのだ。という話をされていたのだ。
これは、理解力や内面的な成熟度についても同じことが言える。
それで引用したかったのだ。
自分との距離がちょうどいい人でなくては「理解不能」なのだ。
例えば、彼の表現を借りれば「強男」は「強女」(男度、女度が強いという意味)とは相容れない。距離が遠すぎて異質感が強いのだ。本人から見て、である。
そうなると互いの距離は相互関係にあるのだから、ちょうどいい人だと感じる場合は、互いにちょうど良いと感じることになる。
暴力的な事件を起こす人、殺人を犯してしまうような人が、どうやら「強男」であるようだという話も武田先生が少しされていた。
男は乱暴だ、と思っている人も多いが、男同士でいても「それはちょっと横暴なのでは…」と思えることを、「これが強さだ!」と言わんばかりに述べる人がいる。
同じように「それでは女は木偶人形にしかならないのでは?」と思えることを「これが女らしいということ」と言わんばかりに理想として説く人もいる。
だが、その「男らしさと女らしさの頂点」が一緒になれば、「理想のカップル」になれるのかと言えばそうではない。
互いに「理解不能な別の生き物」のようにしか思えないため、うまくはいかない。
結局、本人にとっての「ちょうどよい」が見つかるのが最も幸運であると言えるだろう。
理解力が近い人、常識が近い人でなくては話が通じないように、自分と相手の距離が重要なのだ。それはそれぞれが自然な自分との比較で感じることだから、他人には本人にとってそれが正しいとか良いとか、決めることはできないのだ。
「これこれであるべき」という理想は決められるし、全員がそれに沿って行動することもできるが、その理想に合わせて「幸せを感じること」などできるわけがない。
理想的な人になろうとする努力は他人に崇拝されるための努力でしかない。結果としては孤独になる努力でしかないのだ。