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全く思い出せない人、愚かだからこそ得られる幸せ

 この話、誰としたんだっけ?

 この話、誰に聞いたんだっけ?

 ここ、誰と来たんだっけ?

 相手が思い出せないことがある。

 話した相手がいたことは覚えている。

 誰かがいた。

 だが、誰なのかが思い出せない。

 そんなことがある。

 人として接していないと、こうしたことは多くなるだろう。

 「この人」とはっきり覚えている人は、それがどんな理由にせよ存在に執着があったのだ。

 何かを期待した相手なのだ。

 だが、誰にも何も期待せずに生きれば生きるほど、個人を記憶していない。

 他人と張り合う人、同化して生きる人が多い。

 ほかの人と同じことを言う、どこかで聞いたような話、あちこちで他の人も得ている情報、知識、その人自身が生み出し見せてくるもの、言葉、何もかも「胸を打つもの」がないから、その人を覚えていない。

 喧嘩したわけでもない、問題なく接していたのであろう相手のことが、思い出せない。

 このように、「問題ない関係」であればあるほどいいと思い、他人の記憶にも残らない人になりたがる人が多いのだ。

 他人と比較してもらうため、他人と同一と思ってもらうため、迎合し、教えられたことをやり、言い、自分自身である証拠、特有の何かがない。

 「特別だ」という説明はしても、そこにいるその人は何も特別ではない。

 如何に説明されても、現実のその人は何も変わらない。

 何を見た時にどう反応するか、何を思うか言うか、その人に出会った時にその人は既に完成された人格を備えている。

 「自分を隠す」のだから、問題を避けて、争いを避けて、誰にも知られることなく、覚えていられることもなく、ただ生まれなかったかのように、消えていきたいのだろう。

 「死にたい」「生きたくない」と心の底で思う人は、「生まれて来なかった存在」として人の記憶に残らないように生きていく。

 本心のままに生きている。

 生まれたくなくても、生まれてしまった。

 ならば、誰にも記憶されない存在になれば、生まれなかった「ことにできる」のだ。

 「ことにする」ために生きているのが、人を操作して生きている人だ。

 死にたくても死ぬのが怖い。生きるのも嫌。自分がどう思われるか知りたくないから、自分ではない何かを見せて身を守りたい。

 それらの願いは自分を隠し「存在したことを知られない人」になることで叶えられている。

 本当のその人自身は、どんな人だったのか、「誰だったのかすら記憶されない」ならば、いなかったようなものだ。

 自分が好きでなくとも、よく記憶している人もいる。

 相手の要求が多すぎた時だ。

 こっちは何も求めなくても、向こうの要求が多ければ同時発生でこちらの要求も多くなる。

 「やめてほしい」

 「いなくなってほしい」

 そんな願望が生まれてくる。

 他人に何かをさせようとする人の常だろう。

 人に何かしてくれと求めてしつこく同じように接していれば、「求めないでほしい」という自分に対する願望を相手の中に生み出すことができる。

 「この人」は最初から人に要求を押し付けてくる人だった。

 ならば「この人」に対する要求は、「いなくなってほしい」だ。

 最初からなのだから。出会った人にとっては、「要求をしてくるのがこの人」なのだから。

 だから存在ごと消す。

 絡まれて要求してくる相手につかまって、それでもその人から逃げたい人は、要求を叶える代わりに「要求してこない状態」になって欲しがる。

 要求をされ続けるのは嫌だが、嫌だと言ってもなぜ嫌なのかさえ想像ができない相手のためにわかりやすく説明しても、理解する気が最初からゼロで要求を叶えるまでやめない人がいる。

 「要求を叶えないと、いつまでもこれを続けるぞ」

 という脅しなのだ。

 欲、とにかく欲。人間に対しては憎しみ。

 目の奥には人間に対する怒りの炎が見える。そして欲。今目の前の人間を屈服さえさせれば、自分の願望を叶えられるという欲を抑えられない野獣のようにギラついた光。

 目の前に餌を出されて食らいつくのを堪えている野獣のように、今にも飛びつきそうな勢いだ。

 早く、早く、この餌を食いたい。

 非常に動物的で、原始的な人間の行動である。

 一緒に生きていける人は「やめて」と言えばやめてくれる。

 「やりたくない」と言えばやらせようとしない。

 確かに、やろうと思えば他人からは邪魔な存在になることで、要求を人に叶えさせることもできる。

 餌を与え続けないと暴れ出す猛獣のようなものである。

 大人しくしていてもらうためには、餌を与え続けなくてはならない。

 何かをさせるどころか、批難ひとつ受け付けないという人もいる。

 望んだことをやらせ、言わせ、自分一人で満足する。

 究極のナルシストである。

 「この人が嫌いだからこそ言うことを聞く」という場合もある。

 要求をやめないということは、「この人と要求はセット」なのである。

 そのような人格なのである。人と人格は物や金のように切り離せない。

 言うことを渋々聞いてくれた、ということは「しつこい自分が邪魔だ」と思った相手が完全に自分に対する期待を捨てたのである。

 「このしつこい人間を黙らせて大人しくさせるための手段」なのだ。

 子供が我儘を言ってギャーギャーと騒ぐとき、親はつい黙らせるために言うことを聞いたり、何かを与えたりしてしまう。

 親の忍耐力が試される時である。

 うるさくても邪魔に思えても、受け付けない態度も必要である。

 ナルシストの幸せは、「自分が存在してほしくない」と思われていても望みを叶えてもらえると知らず、人を責めたり自分の正しさを誇示するあまり、自分が正しいから望みが叶ったのだと勘違いするところだろう。

 なぜ他人が要求を叶えてくれたのか、向こうから黙っていても自然にしてくれたわけではないのだから、考えればわかることなのに、それを考える頭がない。

 ナルシストの幸せは、愚か者だからこそ得られるものだ。

 憐れなことである。

 望みを叶えれば叶えるほど、自分の存在そのものは忌み嫌われていくから、誰も向こうから近寄ってこようとしない。

 恐怖を植え付けた相手は、自分を恐れて何をされるか陰で言われるかわからないという不安からいつまでもついて来ようとする。

 「許してくれ」「もうやめてくれ」

 そんな気持ちで自分に縋り付いてくる相手を見て、「自分は求められている」と優越感すら感じるのだ。

 求められているのではなく、並外れて邪魔にされているのだ。

 一番の安心は「その人が消えること」である。

 この世から。

 「あの人が生きてこの世にいると何をされるかわからない」

 そんな不安を抱えさせるほど、人を恐れさせることがうまい人がいる。

 恐怖政治の独裁者のように、人を支配して生きるのだ。

 とにかく人を責める。望みが叶わない時に相手を批難する。悪者にする。

 自分の望みを叶えない人間は悪である。

 だから望みが叶う。

 自分が恐ろしいから、望みを叶えてくれる。

 当たり前だが、自ら人に要求して断らせないようにする以上、「消えてほしいから望みを叶えてくれる」のだ。

 そんな理由で嬉しいわけがないと思えるが、思わせたいことは説明したらその通りに思うようになる、と思えている人にはわからない。

 恐ろしいほど、馬鹿な人なのだ。

 これは率直な僕の感想であるが、ここまで頭が悪い人が大人になって存在していることを知らなかったし、そこまで馬鹿な人を相手に日本語で会話をしようと全く思えない。

 どうせ意思の疎通は図れない。

 日本語を覚えただけのゴリラは、中身がゴリラだ。

 要求も人間のものではないが、起きていることを理解できないのに何を言っても無駄だ。

 可哀想に思う。

 そこまで頭が悪いまま大人になってしまって、起きていることも理解できない上に他人の気持ちを想像することもできないのだ。

 「実際にやらなくてもわかること」がある。

 しかし、やってみないとわからないと思う上に、無理やりでも望みを叶えたら「うまくいった」と思えるのだ。

 脳は、余程強い意思を持って衰えないように努力しなければ、どんどんどんどん衰えていく。

 衰えは成人したころから始まる。

 手遅れだ。本人に意思がない。

 みなこのような人を迷惑に思うだろうが、その憎しみは慈悲に変えた方がいい。

 そのような人たちは、死ぬまで他人を恨んで生きるしかないのだ。

 こんな憐れなことはない。

 人間は常にすべての人が欲求を持っているから生きているのだから、他人が望まないことなどひとつも強要しないのが当たり前で、そのためにはお願いしたいことがあればお伺いを立て自由に断れるようにするのが当然だ。

 それでもやりたくもないことをやりたいと言い、根拠なく目の前の人を疑って勝手に我慢して勝手に恨む人がいるくらいなのだから、最低限自分自身は強要して相手を動かそうなどとしないのは当たり前だ。

 そんなことすら理解できず、ただ欲を満たすことだけを考え、欲を満たせないと怒り、憎み、恨むのだ。

 存在していることに罪悪感を抱かせる人である。

 たったひとり、その人が生きるために沢山の人の精神は犠牲になる。

 人の精神を食いながら生きているのだ。

 しかし、見えないものを想像する頭もないから、自分が何をして生きているのかもわからない。

 そして、自分がしてきたことを直視して人の気持ちを考える勇気も道徳性もない。

 考えなくては、想像しなくては賢くはならないが、考えて想像したら「気づきたくないこと」に気づいてしまう。

 だから自分は愚かなまま、愚か者らしい理由を作り出して「そうであると思い込む」のだ。

 気づく、という精神的ショックに耐えられない。まだ体験すらしていないが、それに耐える覚悟もできない。

 精神の世界で、何にも勝てない。勇気が出せない。人を傷つけることを恐れるだけの道徳性も信心も何も持っていない。

 これが精神世界の最底辺。救うことができない最も憐れな人なのだ。

 人として生きるために、幸せに人生を生きるために必要なすべてを持っていないのだ。

 その分、自分の力では得られなかった様々な形あるものを得ている。

 それについても「当然」という理由をつけて、自分がしたことを恩に着せているから感謝もしない。

 感謝もできないから、人に愛されても愛されたとすら感じない。

 これが「自分だけが特別」であるために生きた人の人生だ。

 なんという憐れな人生だろうか。

 人を馬鹿にして恨んでいる割には、自分の持ち物ひとつ、身に着けたものひとつ、何をとっても「誰かが与えられて得たもの」だというのに、人から与えられて着せてもらった衣装に身を包み、自分はすごい偉いと威張っている愚か者なのだ。

 そして、いつか必ず、自分が身に着けていた全てのものを剥がされて、その重さで罪を量られる日が来るのだ。

 三途の川を渡りやすくなるように生きることだ。

 僕はそのような「後が怖くて仕方ない」人生を送るほど愚かではないので、彼らを憐れに思う。

 人を馬鹿にして喜んでいられるのも、今のうちだけだと知っているから。

 想像する勇気もなく、人を悪者にして敵対しなくては生きていけず、欲を満たせば満たすほど心は飢え、しかし賢くなるための壁を破るのは怖いから、低級な欲に停滞し続けるしかない。

 三悪趣。

 地獄から脱することのできない憐れな魂である。

 生まれ変わっても生まれ変わっても、地獄の苦しみは業と共に深く深くなるだけなのだ。