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なぜ親子関係や夫婦問題を知るためにそんなことが必要なのか?

 僕は自分のホームページや講座等で歴史や政治について教えている。

 「何が起きているのか」を教えるために、教えている。

 親のことで悩んでいる人、夫婦のことで悩んでいる人、また子育てで悩んでいる人、そのような人になぜそんなものが必要なのか?意味がないと思う人が大多数なのではないだろうか?

 目先で起きていることを1とするならば、僕が教えていることは10の枠のことである。

 内面的なことは0。外側と内側は相互的に作用はするが、その事実は内と外で別物である。

 0は0になるまで内面で解決する必要があり、それをより0に近づけるために外側の事実は正確に知る必要がある。

 家格は教育に現れる、と聞いたことがあるが、それは確かにそうだと僕も納得した。

 ところが、僕が今ここで言う「教育」とは何かを既に違う意味で捉える人が大多数になったのが今の日本である。

 そのくらい「自分も自分の家も無くなった」のである。

 概念上から「私たちの家族」というものが消え去っている証拠である。

 区別がないのは、「家族が概念から消えている」からである。


 「認知の世界を制したものが世界を制する」

 これは認知科学者苫米地英人博士である。


 そして実際そうである。

 僕たちが悩む原因となる「偏見」は、認知の世界に刷り込まれた洗脳である。

 「~であるべき」「こうしなくてはならない」

 そんな決まりは神様が決めたことでもない、そしてやらなくても犯罪にもならない、だがなぜかやらないことは「許されない」気がする。

 それが洗脳である。

 人間は思うより愚かで、「これは神様が決めたことですよ」と人間に聞いて「神様が決めたことなんだ」と根拠なく信じ込むこともある。

 考えているのは人間だ。悟りを開いたわけでもない。

 僕はブッダと言う存在の偉大さを今になって知ることが多い。

 僕たちが違うものとして認識している古くからある宗教はブッダの教えに影響されていて、正に源流と呼べるからである。

 悟りを開くという目的のために存在しているのが「正しい神」と言えるだろう。

 内面を平和に、そして人類も平和に、そのような世界に導くために存在している。


 ところが、「神様のふりをした人間」が作った「正しい教え」もある。

 独裁者のような人が作るのである。

 成長すればするほど、人間は自然を破壊しようとしない。

 「内面の自然」を破壊しない。そして「外面の自然」も破壊しない。

 限りなく0に近づこうとする。


 道理を説く、そして起きている事実をありのまま認め、ただそれを述べる。または述べない。


 もうここまで読んでも

 「それとうちの夫婦の問題と、どう関係あるの」

 と思うだろう。

 また、政治的、イデオロギーの話など

 「そんなこと知りたいんじゃない」

 と思えるだろう。

 しかし、「他人はどうにもできないのだ」ということに納得もできないだろう。


 自分自身はなんの外面的影響も受けずに、今の自分であるだろうか?

 「親がこうしたせいで」

 そんなことをよく聞く。

 ならば外面からの影響は重要だ。


 知りたい人と、知りたいわけではない人がいる。

 「なぜなのか?」

 それを知りたい人は、自分を知っている人である。

 自分を知らない人は

 「他人をやっつけたい」

 という気持ちしかない。

 何かを知って「やっつける材料」にしたがる。だから真の意味で優秀にもならないし、結局は感情的な満足のために起きている事実を利用してしまう。

 そしてそれが「毒親」と呼ばれる人たちである。

 自分の感情を満足させるため、優越して人を見下すために「先人たちが発見した様々な教え」を利用する。

 要は、悔しいから勝ちたい、そればかりである。

 「人間を恨んでいて、復讐しか考えていない」

 それが神経症者である。


 親も何かに影響されている。

 その力がなんなのか知るために、歴史や政治は必要なのだ。

 歴史と政治は違うようでいて繋がっている。歴史は政治の記録であり、政治もいずれは歴史になる。

 今の日本人は政治は政治家や専門家がやることだと思っている。

 ならば社会に出ても、言われた通りに動くしかないだろう。

 家庭の中でも、最も強い立場の者に従うしかないだろう。


 ここでは長くなるので、その根拠について流れは説明しない。


 僕もなぜ自分がここまで早く人より理解できるのかについて知った。

 僕は元々政治をしていた家の人間である。

 「家の中の教育」に元々存在したのだ。時代が違うだけで、本質的には同じなのだ。

 そして歴史の流れを理解できる教育がまだ僅か残っていた。

 僕の母は子供のころ僕を虐待したが、その時口から出てくる言葉は「武士は!」というものだった。

 「武士はこうしなくてはならない」

 という教えは正しかったし、僕もその通りだと思う。

 正しいことを言いながら、虐待をしてくる。ダブルスタンダードである。

 これが「ダブルスタンダード」と呼ばれるものだと知っているのは知識のお陰である。

 更に、これが「社会主義の影響を受けているからである」とわかるのが知能の高さであり、社会主義化してくると何が起きるか知っているのが知識である。

 そして、武士の教育には知能を上げるものがある、と知っているのが知識であり、実際にどれがどう作用したのか判別がつくのが知能の高さである。

 全ては政治が作っている。

 だから歴史を正しく知っていることは重要であり、自分を知るにも不可欠なのだ。

 感情的な歴史を教えてくるのが毒親である。

 片方に都合が良く片方に都合が悪いことを正しいと教えようとする。

 「真実」は誰にとっても同じ事実であり、完全に客観的である必要性がある。

 そこに解釈を加えるのは知った人の人格や過去である。

 他人が解釈まで決めてしまったら、知った本人の人格が無視されることになる。


 そして人格を無視して生きているのが毒親の子であり、神経症者である。

 これはただの悪循環であり、最初に自分の自由を奪われたものを特定し、それを断絶してしまうしかない。

 自分の自由な思考を根源から絶たせている「偏見」を知らねばならない。

 その中でも全体に影響している強い力が歴史や政治にある。


 だからそこも教えているのである。

 僕がそれを教えなくてはと思うのは、僕が選ぶ自由ではなくそれが自分の役目だと思うからである。

 元々政治を行う家に生まれていれば、人より気づくのも知るのも早くて当然である。

 江戸時代の流れで言えば、それを理解して領民たちに知らせるのは僕の役目である。


 人はいきなり変われない。

 流れがあり変化して変わっていくものである。

 いきなり別人にはなれない。

 だから僕もわからない時には、時に江戸時代に戻り考える。

 ここが江戸時代の世界ならば自分はどうすべきかを考える。

 その流れの元に生まれているからである。

 そして江戸時代なら何をすべきか答えを出し、今の社会で本質的には同じになるように動くようにしている。


 僕は母とはつながることができなかったが、ご先祖様がいた、殿がいた。

 遥か昔の歴史とつながりを持てたから、「この社会は一体どうなってしまったんだ」と子供のころから疑問に思えた。

 恐らく、代々続いたというものを教わらない家では、二度に渡る歴史の改ざんに遭い

 「どうしたらいいの?」

 と社会に出て聞きにいくことしかできなかったと思われる。

 理不尽なことに出会っても、何が理不尽なのか、それがなんなのか、何が起きているのかわからない。

 そうなると「強い支配力」に従うしかなくなる。

 そのような流れが生まれたと考えられるので、僕は特に故郷の人たちには江戸時代の頃よりの話をして教える。

 平らにされた社会では「今自分たちが何になっているか」で勝ち負けが競える。

 時間の流れがあるまともな社会ではそんなことで競えない。

 例えば、現在の社会で町医者になった人がかつて農民だったとする。

 その人の家の努力は、元々藩政期時代から薬師や学者をやっていた家より遥かに大変なものなのだ。

 元々の力の流れがある。それがあって今の努力や成果は正しく理解することができる。

 しかし社会を平らに見てしまうと、「もっとすごい人たちがいるから自分たちは大したことがない」と劣等感を抱きかねない。

 そして、かつて農民だった家が、今はどこかの会社勤めをしているとする。

 「うちなんか何もない、底辺の家だ」

 と引け目を感じて他人と比較していたとする。

 しかし、あの幕末の動乱に負けず、そしていきなりやってきた「自分たちのためでもない教育」を受け、何もわからなくなった社会でよく今まで生き残ってきた。

 そう考えれば、今も家を存続させていることは立派なことなのである。

 大体、大昔の農民は武士や公家を見て「うちなんてどうせ農民だ」と劣等感を抱かなかった。

 「あいつらはいいよな」と闘争心を燃やさなかった。

 この闘争心や劣等感は、社会に生み出されたものである。


 自分たちの感情ではないのだ。

 外から操作され、生み出されているのだ。意図的にである。

 だから全体が同じような感情を持てるのである。

 「うちは元々~だから」という個別化ができれば、そのような劣等感は抱かない。


 この流れを説明して、自分たちを個別化し、自分たちには自分たちに対して相応しい「正しい認識」をするために、歴史と、そして政治が人間にどう作用するかの仕組みを知る必要があると僕は考える。

 そしてこれは学校で何を教わってもわからないことなので、僕はこれが「自分にしかできない、自分の役目だ」と考えている。


 僕の家は何百年と領民の親である家をやってきている。

 だから故郷に戻ると、頑張って生きているみんなを見て「よく頑張ってきてくれた」と皆を褒めたい気分になる。

 今の地位や年齢でしかものを見ない人は、全員が「同じ家の人間」として考えている。

 何よりも同じ人だと考えている。

 大昔の流れを壊さないように生きてきた僕は、自分がそう生きてきた通りの感情や自覚を持って生きている。

 元々農民の家と、領主や大名の家の人が「社会は同じになったんだから」と言い出して競争したら、僕は「ズルい」と思う。

 実際そんなことをしている輩があっと言う間に上を牛耳って自分たちだけ得しようとしたわけだが、それは卑怯だと思う。

 同じ場に出て競ったら、自分たちが有利に決まっている。

 僕の一族はそれをやらず、「うちだけにあるんだから」と江戸時代通りに領民たちの面倒を見続けていた。

 形は消えても、中身は継続している。

 だから僕はそれを継承し、他の人がわからないことを考えるのが役目だと思っている。


 それは偉いわけでもすごいわけでもなく、自然の流れである。


 そして僕は、外国の力がどんどん入ってきて、成金たちが人の誇りも考えず、領民たちを言うなりにこき使っている様を見ていると許せない思いなのである。

 更に、すっかり社会の方を正しいと思い込んだ武士の末裔が、自分がなんだったのかもわからなくなって自分が知ること身に着けていることに無自覚になり、大多数と同じように生きたり生きられなかったりで彷徨っているのを見るにつけ「しっかりしろ!」と叱咤したい気分なのである。

 我々がやらなかったら誰がやるのだ。

 多くの農民たちのお陰で我々全員が生きながらえてきたことを忘れてはならない。

 この日本を支えてきたのは農民たちなのである。

 彼らの人生を守り支えていくのは、「金や地位の力ではない」と示していくのは我々の役目である。

 それを自らの行動により実践していくのが、我々の役目である。


 「普通は!」が家の中で叫ばれている時、既に一族は侵略されているのだ。

 家族が洗脳の侵略に遭っているのだから、「そんなのおかしい」と思える人はなんとしてでも生き残らなくてはならないのである。