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「お前はお母さんをやりなさい」と求められた子供 親子逆転奴隷の子

 居た堪れないと思った話である。

 ある古い友人と久々に出かけた。
 僕が買い物に行くので、「お前も行く?」と声をかけただけだ。

 特に理由はない。
 天気が良いので、休みのやつに声をかけた。別にひとりで行ってもよかったが、僕が出かけたい気分なので声をかけただけだ。

 友人に声をかける時など、そんなものだろう。

 だが、その友人の返事がおかしかった。

 「〇時からならいいよ」

 会話がおかしい。
 「行く?」と声をかけた。誘っただけだ。
 だが友人の返答は「頼みごとをされた人間」のものだ。

 会話がかみ合っていない。
 友人は、昔から頓珍漢で空気が読めない、ちょっと浮いている奴だった。
 周りがちょっと引いてフォローをしていても、ちっとも気にしないので「こいつは図太い何も気にしないやつだ」と思っていた。

 周りが引いていたら、気になる。
 でもちっとも気にせず一人で笑っているような奴だった。

 テンションも周りと合っておらず、いつも同じ調子。
 周りがどうであっても、一人だけ常に同じテンションの奴だった。

 普通は、周りと一緒にテンションが上がるし、なんでもない時はそんなにテンションが高くない。

 だが、一定の調子で常に高めのテンションでいる奴だった。

 「変わり者」であったし、周りもそう思っていた。

 だが、僕は友人のその対応に強い違和感を覚え、その反応を観察した。

 そこまで気にしたことはなかった。
 元々変なやつだと思っていたから、変なやつに対する対応で接してきていた。

 親友や相棒、家の中でとは違う。
 いつも通りにリラックスしていたら、こっちが嫌悪する反応が戻ってくることを既に知っていたので、その友人用としての対応を既に習得している。だからうまくやってきている。

 仲の良い友人といれば、二人で何をしていても笑ってばかりいる。
 それも大爆笑である。
 水曜どうでしょうの世界だ。あれがずっと続いているようなものだ。

 だが、その友人は違う。

 「情報の交換をして、情緒の交換をしない。」

 神経症者の特徴である。
 そのままだった。

 何かを見つけて面白いなと思って意見すれば、すぐに情報が返ってくる。

 「知らない」と友人が言ったら、もう会話は終りである。

 常に会話が続かない。

 普通の会話はしない。

 ロボットのようである。

 友達との会話ができない。
 会話はラリーである。繰り返すごとにどんどん話題が広がって、想像が膨らんで、そのうち話しながら笑いが止まらなくなる。

 別にそれだけではないが、そんなことは友人となら当たり前にいつもの会話である。

 だが、そうではない友人もいる。

 冗談で言ったことに、真面目な情報で返す。

 形ではなく、実体験で何が起きているのか把握するものだ。
 僕はこの感覚は、このやり取りは、一体なにかと考えた。

 「冗談の通じない、つまらなそうなお母さんといる時のもの」

 友人は、僕が母親の代わりに一緒に居て欲しいのだと思っている。

 勿論本人は無自覚だ。

 本人は、「生まれてからずっと全ての人にこの対応」なのだ。

 親子の関係は終らないまま、友人の親はもう亡くなった。

 友人が「何かしてほしがっている」など無い。

 「何もしてやらなくていい」のが他人の楽なところだ。

 義務はない。義務は子供に対してしかない。

 個人に義務を課すのは、集団の力である。

 つまり権威だけである。個人が個人に義務など与えられない。

 家の中では奴隷の代わり、それも「母親になって」と強要された奴隷。
 それが親子逆転した人である。

 当然、外に出たらもう自由だ。家から一歩出たら、他の皆と同じ義務しかない。

 自分が困らないためにやらなくてはならないことはあるが、それは考えて行うので自由である。

 とにかく、家の外に出れば自由なのである。

 友人はそれに気づかないまま、全ての人の母親として生きていた。

 常に「自分が何かをやらされる」と思っていた。

 それも既に「母親」としての疑似自己になっている友人は、誰の言葉を聞いても「幼児が求めること」として解釈した。
 幼児である親の親代わりをしていたからである。

 気分は子供なのに、「やらされている母親」なのだ。

 これでいい?
 ちゃんとやってるよ

 という気分で、他人の母親をやっているのだ。

 これまで、全ての人とのコミュニケーションで「全く同じ気分」だったのだろう。

 友人の言葉さえ、母親と同じように「幼児に話しかけられた時の母親」として聞いてきたのだ。

 これで生きていて疲れないわけがない。

 その友人のために、何かしてあげなくてはならない他人はいない。

 その友人をどうにかしてあげなくてはならない義務など、他人にはない。

 つまり、全て自由なのである。

 それをその友人は、全ての他人から話しかけられた際に「自分に何かをさせようと思っている」と勘違いして受け取っているのだ。

 これで一人になりたくならないわけがない。

 神経症者は、「しなくてもいいことをやり続けている」のだ。

 僕と母の会話は、本当に親子のものだった。

 僕が本当に「親の態度」で接した。

 「またそんなことを言って、子供みたいなこといつまでも言うな」

 と僕が母に呆れて言うと

 「お母さんはこれでいいんだもん」

 と母は本当に子供のように笑っていた。

 こんな親では、頼りにならぬ。自分でなんとかして行かねば、考えて行かねば、と思って生きてきた。

 晩年もだった。

 「お母さん、この話は大事な話だから、ちゃんと聞いてください。」

 手遊びを始める母を前に、そう注意した。

 「これは必要なことだからね?」

 認知の状態を確認しながら、母に話しかけ続けた。
 この状態に、僕以外誰も気づかなかった。医師も気づかなかった。
 生理学的なことは検査してわかっても、脳内の認知能力がおかしくなっていることは、完全に認知症の症状になるまで発見されることはまずない。

 家族も既に様子がおかしいことに気付かないのだ。

 友人がもし「自分は何もする必要がない」と気付いたら、絶望するのだろう。

 「自分は皆に何かをしてあげるお母さんだ」という気分で生きているからだ。

 「何もしてあげなくていい」は、「自分が必要ないんだ」になるだろう。

 「何かをしてあげ続ける存在」だと思っているから。

 僕はその友人と付き合いが長いはずなのに、友人のことがわからない。知らない。

 友人が常に意識して「人に合わせたこと」をしているから、僕は友人が何を見てどう反応するか、友人のことを何も知らない。

 友人がどんな人なのか、本人自身も知らない。

 いつも意識して作った答えを言い、「良いとされること」をしてきたから。

 「きちんと作った自分」として生きてしまい、本当の自分がどんな人間か本人も知らない。

 僕も知らない。

 誰も知らない。

 「やらなければならないこと」がない時、一体何をして何を思う人なのか、誰も知らない。

 実際には、これまで生きていた人生において、友人に「やらなくてはならないこと」が無かった。
 本当は自由だった。
 だが、友人は「そうでなくてはならないのだ」と思い込んで「しっかりと頑張ってきた」のだ。

 友達がリラックスしていても、その友人はひとりできちっとしていた。
 「自分はちゃんとできてるぞ」とすまし顔だった。

 だから「変なやつ」だと思われていた。
 「いつも気取っているやつ」だと思っていた。

 何かに憧れて真似しているんだろうな、くらいにしか友人たちは思っていなかった。
 オタク系の友人だから、何かのキャラにでも憧れて真似しているんだろうなと。

 だが、今になって「違うのだ」とわかった。

 話の聞き方がおかしい。友人の立場ではない。

 いつも偉そうな態度だった。

 友人に対して「何かしてあげよう」とする。その態度は偉そうなやつのものだ。

 友人に対して、「してあげなくてはならないお世話」などない。

 何か言えばすぐに「じゃあこうする?」と面倒を見ようとする。

 この友人といると、一人でいた方がマシと言う気分になるのは、会話していないからだ。

 もし、僕が同じ意識をして友人に接しているとしたら、「そんなことしなくていい」と思うのだろう。
 友人にそんなことしなくていいと思うのに、自分がやっていたらおかしい。

 自分と同じように、自分の話を解釈して欲しい。

 「ここに行かない?」

 と聞いたら、「僕に何かしてほしいんだな」と解釈して欲しい。
 それならわかる。
 だがそれでは、友人同士の会話ではない。

 もうとっくに自由だ。

 僕も家から一歩出れば、自由だから楽だった。

 外に出ればもう、やらなくてはならないことはない。

 僕も皆と同じなのだから、自由だ。

 気付いた時、僕はすさまじい解放感を体感した。

 「もうずっと自由だったのだ」

 友人もずっと自由だ。以前から自由だ。

 だが、見ている限りもうすっかり自分がなんなのかわからなくなってしまっている。

 板についた「母の母親」で生きている方が、もう楽なのだ。

 常にストレスを溜めるが、もう考えなくてもそんなことはできる。

 考えずにただ反応し、ただ欲求不満になり、仕事のように他人と接する。

 親の親となった人は、親が死んだらもう不要だ。

 そして義務など最初から無いのだから、何かしてあげて見返りをくれる人など一人もいない。

 そんな義務はないのだから。

 今まで「優しい人」「役立つ人」として生きてきた。

 だからその通りに受け取ってもらえた。

 やっていたのは自分自身なのだから、見返りなどあるわけがない。

 「やりたくないなら、やらなければいいのに」

 そうなってしまうだろう。

 常に同じテンションで、空気を読まない友人。

 つまり常に意識して、常に同じ相手と同じ場面で話していると思っているのだ。

 状況に適応できていない。

 いつもいつも変わらず、どんな話をしようが関係なく、同じテンション。

 いつも同じ人。様子が変わらない人。

 時々ヒステリーを起こしておかしくなるが、そんな時は誰も近寄らない。

 本人が自分でやっている。

 他人はそんなこと知らない。最初からそんな人だった。

 この人にどう適応するか、それが他人の課題だ。

 どう接するかは他人が考えることだ。それぞれ自由に。

 だが、友人はきっといつも良いことをしていると信じている。

 今は天国の母親に見せているのだ。

 言われた通りにちゃんとやってる、と。

 目の前の人が誰かもわからない。今自分が目の前の人から見て何者なのかもわかっていない。

 「私と他人」

 それしかいない世界にいるのだ。

 居た堪れない気持ちになったが、僕が悲しんでも仕方ない。

 やらなくてもいいことを、これからも続けていくのだろう。

 僕が話したところで、それも「何をすればいいの?何か間違ってるの?」と受け取るに決まっているのだから。