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自分に気付いていく、自分について考える

 今回のサムネイルはクリスマスのもの。
 皆でカードも作ったけど…

僕が一番素っ気ない色塗りをしていた。と終わってから思った。

 色塗りを終えて思った。
 女子の色塗りはカラフルで、女子向け雑貨屋さんの色遣いを思わせた。
 あれはやはり女子ウケなのだろう。あのごちゃごちゃしたやかましい感じの色使いは、恐らく「可愛い」とか「綺麗」に値するのだ。

 カードゲームをしたが、神経衰弱の際に「普段使わない脳の部分を使っている」とよくわかった。血が巡る部分がいつもと違う。そしてものすごく衰えていることを感じた。

 今回使ったひとつが、「熟語トランプ」である。
 脳の発達を考慮し、僕が色々用意してきた道具のひとつだ。
 他にも色々あるが、まだ使っていないものも多い。

 今回、「ありがとう、過去の俺」と感謝したものは多い。
 やはり未来のことを考えて生きていくものである。

 熟語トランプは、今回初級編を使った。
 カードに漢字が書いてあり、組み合わせは自分で作らねばならない。
 神経衰弱は場所も記憶しなくてはならないが、僕はそれが苦手だと思った。
 子供の頃は得意だと思っていたのに、と驚いた。

 機械の組み立てや、麻雀の方が集中できる。
 脳の違いなのだろうと今回改めて思った。

 男女の脳が同じ、は間違いだ。
 最近はそんなことを言い出した人がいるが、どう考えても変な結果と結び付けている。現実の結果の方が優先だ。事実どうであるかだ。

 漠然としたイメージは、女性の方が得意とする部分だ。
 同じにしたら、女性は得意なことをひとつ失うことになる。
 せっかく優先して能力を発揮できる部分があるのに、わざわざ失うこともない。

 今回はひとりの生徒が圧勝した。
 明確に結果となるものである。

 形としては見えなくとも、脳は働いている。
 僕など集中力の無さに驚いたくらいだ。
 神経衰弱をしているのに、僕は別のことを考えてしまう。

 「今、全員の脳はどう使われているのだろうか。」

 そんな風に、気になる部分は違うのだ。

 色塗りをしていて思った。
 僕は絵を描くのが好きだと思っていた。
 色を塗るのも好きだと思っていた。
 子供の頃に描いていたから。

 だが、それは間違いだと気づいた。
 「それしかなかった」だけなのだ。

 おもちゃなどひとつも持っていなかった。
 あるのは紙と色鉛筆だけだった。だから描いていただけなのだ。

 面白いとは思った。好きではあった。
 だが、細かい作業をちまちまするのが好きではない。
 だから好きではなかったのだ。

 なのに、組み立ては違うのだ。
 機械を組み立てることは好きなのだ。

 明確に完成形のあるものを、作っていくのは好きなのだ。
 それがまだ完成形として存在していないものであっても、好きなのだ。

 脳内にある明確なイメージを完成させるために、パーツを探して組み立てていくことは好きなのだ。
 メカは子供の頃から好きだ。
 仕組みが気になるのだ。

 人にはそれぞれ、気になることと気にならないことがある。

 だが、今の子供たちが一体どれだけ「自分の気になったこと」をやれているのだろうか?僕たちでさえやらせてもらえなかったのに。

 僕の場合は原因を理解している。
 僕が機械に興味を示すと、母が嫌な態度になった。
 「お父さんみたいなことをして。」
 だからやりたくなくなった。

 父は機械いじりが好きだった。
 僕も幼い頃から乗物や機械が好きだった。
 僕が興味を示すものに問題があったわけではなく、母は僕を見て「嫌なこと」を思い出すので嫌ったのだ。
 乗り物は、祖父が好きだった。母は祖父が嫌いだった。

 仕方ないのだ。僕も、たまたま好きなのだから。

 今も好きだ。
 ノートパソコンも中身を自分でいじる。

 だから脳も気になるのかもしれない。
 パソコンは人間の脳をモチーフにしている。

 その仕組みは類似している。

 人間の脳は、明確な仕組みが存在している。
 機械ではないが、機械のように。
 機械が人間の脳のように作られているのだから。

 苫米地博士が人工知能の発展について書いていた。
 僕はそこにだけは否定的立場だが、それでも彼が言うと

 「何か僕が思うのとは違う、明確な根拠あって希望を持てるのだ。」

と思える。
 そしてやはり僕も今考える。
 確かに、脳の仕組みを「感情」というあやふやなものではなく、「認知」という一点に絞って解明することができたなら、と。

 僕は苫米地博士が好きだ。
 個人的に、あの性格が好きだ。何をやりたいのかとてもよくわかる。
 自分と似ているから。
 映像で見た時に思った。あの表情。
 彼は、面白いのだ。楽しんでいるのだ。

 世間では批判的な彼の行動の理由を、つい説明したくなった。
 だが、それは「言わない方がいいやつ」だと判断した。
 考えあってのものだから。

 面白い。こんな人がいるのだな、と嬉しくなった。
 僕も負けてはいられない、と彼を見ているとやる気が出てくる。

 こんな面白いことをしている奴がいる。
 なんだ、やってもいいんじゃないか、と。

 彼は先駆者であり、希望をくれる人だ。

 教えてもらうより、自分もそっちに向いて走った方が面白い。

 遊んでいるんだ。
 人間はみな、生きながら遊んでいる。

 人生をお芝居で生きることにした人もいる。
 自分を装うのだから、そういうことだ。

 嘘をついて本当の自分を隠し、なぜか人生ごとごっこ遊びにしてしまう。

 「こう思わせるぞ、と僕一人頑張ったところで、そんなことは不可能だ。」

 と子供の頃に思った。
 そりゃあそうだ。
 「そう思わせたい」のは僕だけであって、友達が「そう思いたい」とすら思ってくれないのだから。
 「こうなりたい」のは僕だけであって、「こうあってほしい」と友達が願ってくれていないのだから。

 あれは、親の方から「こうあれ」と望まれて、可能になるのだ。
 特定の存在、つまり僕に対して「こうあれ」と。

 だが、他人は違う。
 まだわからない特定の誰かに対して「こうあれ」と望まない。
 「思ってくれない」と言った方がいい。

 それは、あなたが「この人ちょっと無理」と嫌悪した誰かに対して、「もっと気に入る素敵な人になって欲しい」と願わないのと同じだ。

 「この人無理」と思ったならば、「他の人がいい」になる。

 選んでしまう。
 だから「思ってもらおうとする」に意味はない。
 自分でなくてもいいのだから。

 親は子供でなくてはならなかった。
 というより、「この子しかいない」からそうなった。

 クラスの友達の中で、まだ知りもしないうちから「この子でなくては駄目!」はない。
 異性にしても、意味もなく「この人でなくては駄目」は無い。
 見た目にしても、選んでいる。
 「根拠なく」はあり得ないのだ。

 親だって「我が子だから」という根拠があるのだから。
 他人の子なら、しつこく責め立てて変えようとしない。
 「我が子だから」やっているのだ。

 「嫌でも替えが効かないから」

 「私を知って欲しい」
 「私を分かって欲しい」
 「私を好きになって欲しい」

 それも全て、相手の方が望んでいなくては意味がない。

 ただの願望。

 だったらいいなあ、の域。

 実際に相手も「そうしたい」と最初から願ってくれれば、互いに努力するから意味はある。

 クラスの友達は、僕に他の子より性格が良くなって、他の子より一緒に遊びたい子になって欲しい、と願っていない。
 他の子より僕に優秀になって欲しい、と願っていない。

 だから意味はなかった。それだけの簡単なことだ。

 結婚しても離婚してしまう夫婦は沢山いる。
 その人でなくてもいいのだ。

 最初は見てくれで選んでいる。形あるもので。

 だが、最後には人格で選んでいく。結局はそこで見捨てていく。

 最終的には、どうあっても人格が必要なのだ。

 「この人なら~してくれそう」

 という期待。それは「できそう」の間違いなのだ。

 「してくれそう」の場合は「したいと思う人柄でありそう」がセットになっていなくてはならない。

 そして「私に対して」という対象者も限定されなくてはならない。

 「恋人に対して~しそう」でも足りない。

 「恋人」は「異性として好きな人」だ。

 つまり、「この人は異性として私を好きになる」もセットでなくてはならない。

 大勢の中から、自分を選んで好きになりそうな人である。
 それらすべては、連鎖しているのだからひとつも欠けてはならないところだ。

 確かに、好きならやるのかもしれない、と思う事も、

 「なんのために結婚しているのか」

 という点において、

 「異性として惹かれているから」

 でないならば、結果は生まれてこない。

 人は、できても「やりたくない」ことはやらない。

 なんのためにやっているのかが、重要なのだ。

 

 人は生まれた時は心の世界に生きている。

 脳内の「こうであって欲しい」に現実を引き寄せようとする。
 「こうであるに違いない」という現実の予測ではない。
 「こうあって欲しい」という願望に現実を引き寄せてしまうのだ。
 そのために、暴れたり泣いたり怒ったりする。
 だが、それでは心の中から出られないのだ。

 認知能力が低いほど、不幸を感じる。
 現実を正確に認知していれば、不幸は起きない。

 知らないことを「こうに違いない」と如何に決めつけていて、更に、「それがはずれているか」が不幸になるポイントだ。

 「そんなのおかしい!」と他人を変えさせている人は、最低限合わせて「ありえない世界」を作ってくれる人がいなくては生きていけない。

 最初から起きていないことを、起きている風にしてもらうのだから。
 付き合ってくれる人がいなくては、心の世界に生き続けられない。

 現実にはそんなことは起きていない。
 そして別に不幸なことも起きていない。

 自分だけ特別と思い込んだところで、現実には特別ではない。

 だから悪いことも起きていない。
 理想的なことが起きないと嘆くのは、自分だけ特別だという「勘違い」があるからだ。

 特別な他人などいない。
 他人は他人だ。

 自分にとって自分が特別なだけであり、それすら全員同じことなのだから、結局誰も特別ではないのだ。

 

 いつも通り、淡々と「こういうものだ」と人の心理について、クリスマス会?で話した。

 あっさり起きていることを明るく話しているつもりなのだが、生徒たちは俯いて深刻そうにしていた。

 つまり、それだけ「起きていない世界に生きている」ということなのだ。
 ずっと、もうこの人生ずっとだ。

 他人から見ればあっさりわかるようなこと。

 「お前の家族って、仲悪いね。」

 だが、「うちの家族は仲良し家族」と教え込まれていた子にとっては、それがショックなのだ。
 しかしそんなことは他人に配慮できない。
 見たまま仲が悪いのに、本人が気づいていないなどわかるわけがないのだから。

 仲が悪いから家にいて安心できない。
 親に嫌われているから、何をしても優しくしてくれない。
 親はそもそも生来の自分を見たくないから、いつまで経っても終わりがない。
 死ぬまで我慢だ。

 「私はそんな子ではありません。」

 と親をがっかりさせないために。

 そのがっかりさせないキャラとして、自分の人生も生きていく。
 親が見ていないところでも、親のために生きていく。

 他人は素顔にがっかりしない。
 選べるから。

 「こうあれ」とは誰も望んでいないから。
 「こういう人なんだな」で終わる。

 そして嫌われもしない。
 ただ「そうなんだな」としか思わないから。

 偏見ある人がいたとしても、無い人もいる。
 自分が好きになる人と嫌いになる人がいるように、他人も同じだ。

 素顔のままで好きになってくれる人しか、残らない。
 だから一番楽でいい。

 他人は楽でいい。

 親の方が人生の苦痛に耐えられていないのだ。

 「こんなはずじゃなかった」

 そんな結婚をしているから。
 そんな人生を、生きているから。

 「私はそんな人ではありません。」

 親もまた、その親のために装って生きているから。
 我慢して生きている親は、子供にも我慢させる。

 どんな人でも親なら子供は好きなのだが、自分で自分を嫌っている親は、自分自身が見たくないから自分を装って子供にも我慢を強いるのだ。

 親が装って生き抜くために、ボロが出てきたら全部子供のせいにして。

 装って生きる人は、自分のボロを他人に押し付けて生きていかねば、本当の自分を消したまま生きてはいけないのだ。