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毒親の子が二重束縛している理由

 なんとなくわかりました。
 なんとなくかよ、と思わないでください。僕は体験がないので。

 僕は毒親の子ですが、正常に健康な心理状態です。

 相談を聞き続けていて、確かに矛盾しているなと思う事ばかりですが、矛盾したどちらに進んでもうまく行かない結果になります。

 本人がどうしたいのだろうか?
 そこが一番重要です。

 悩んでいる状況が、どう転んでもうまく行かない形になっています。

 そして気づきました。

 毒親の子、二重束縛されて、本人も二重束縛したりされたりです。

 「いじめの関係が親子関係だった」

 「親子は逆転していた」

 子供の我がままは、最後は相手が親なので言う事を聞いてもらえないまま終わります。

 言う事を聞かせてしまったら、いじめです。

 ところが、親が子供のような我儘を言い、子供が我慢して言う事を聞いてしまってきたのです。

 「お前であるなという無意識のメッセージを受け取っていた」

 毒親の子は、そのような育ち方をします。

 その関係、親子だから続くんですよ。

 他人ならばその関係は「嫌いだからすぐ離れる関係」なのです。

 「言う事を聞いて自分の意志とは反したことをする」

 そして

 「これでいい?」

 なのです。

 他人ならば、親が子供にしていることは完全に「ムカつくやつへの対応と物の見方」です。

 嫌いな奴相手の付き合い方だということです。

 他人ならば険悪になって「仲が悪い関わらない相手」へのものです。

 だからなのだと納得しました。

 心理的に健康な子は、二重束縛を「嫌われた」と受け取ります。

 実際そうだからです。

 親は子供が嫌い。

 良い子になって、望ましい子になって、ということは?

 「お前は嫌い」

 なのです。

 「これでいい?」

 と言われた通りに「形だけ」合わせてみても、嫌いなことには変わりません。

 嫌っているのは「内面まで全部望んだとおりだった子」なのですから。

 それは、どうにもならないことです。

 人は好きであれば好意的に見てくれます。

 嫌いであれば同じことでも許せません。

 つまり、子供を愛する親は他の人がどう思っても、その子を嫌いにならないのです。

 「変わらないと嫌い」

 でもその子はその子です。

 「その子のままなら嫌い」

 でもふりはできても変われません。

 だから、結局は嫌いなのです。

 どう頑張っても「自分を嫌い」なのですから、どうにもなりません。

 何をしたって関係ないのです。

 元々の存在が嫌いなのですから。

 「存在するな」という意味になってしまいます。

 ですから「自分は生きていていいんだろうか」と悩む人がいるのです。

 勿論、生きていていいから存在しているのですが、そんなことは人間には決められないことですし。

 ただ、「個人的にお前が嫌」という親がずっと近くにいるから、そう悩んでしまうのです。

 存在に罪悪感を抱える。

 普通に考えたらそんなことはおかしなことです。

 「存在するな」

 という意味になることを、し続けている人がいるからです。

 そのような扱いを受け続けているからです。

 「どう変わったら存在を許してくれるの!」

 と頑張ることはないのです。

 あなたはあなたが嫌いだと思う人が「どう変わったら好きになってくれるの!」としつこくしてきても、好きにならないでしょう?

 「これでいい?」「これならいい?」

 としつこく気に入られるようにしようとしてきたらどうなりますか?

 もっと嫌になりますね。

 ですから、不毛なことなのです。

 「お前でなければよかった」

 ということなのですから。

 ちなみに、子供も同じことを思います。

 「この親でなければよかった」

 僕はそう思いました。

 僕の母は「子供なんか欲しくなかった」「お前みたいな子を産まなきゃよかった」と言っている人でした。

 僕はそれに対して「僕もあんたの子に産まれたくなかった。他の親の子ならよかった。」と言っていました。

 勿論母は怒りましたが、そうなものはそうだから仕方ないです。

 僕は毒親の子に疑問を投げかけたいところです。

 もっと好きになって欲しいとか、もっと優しくしてほしいとか、結果そういう意味になる話をよく聞きます。

 しかし、皆さんはそもそも「その親に好かれたい」のでしょうか。

 そこまでして愛されて嬉しい人なのでしょうか。

 僕は「この母」に賛辞される子供には寧ろなりたくないと思っています。

 尊敬できる憧れの人だから、認められたいと思うものです。

 尊敬できない人に満足してもらえる人間になっても、自分で嬉しくないと思います。

 何よりも、親が自分を批難するとかいじめるとか、そんなこと以前に

 「そもそも何をしようが自分を嫌っている人はどうしようもない」

 と知っておくべきかと思いました。

 ~だから嫌、は「嫌い」ということです。

 異性を振るとき、嫌いな友人のことを話す時、そのような表現をします。

 ~だから嫌、は、「お前が嫌いな理由」を述べただけで、別に変われという意味ではないのです。

 直せばいいのかなと思うから、変わろうとするのです。

 言う事を聞かないと黙ってくれないから、言う事を聞くのです。

 自分が意志を曲げなくては満足してくれない。

 意志を曲げたら自分ではないのですから、それは「自分が嫌いなのだ」ということです。

 曲げたから好き、ではおかしいのです。

 「お前でなくなったから好き」

 結局、「お前は嫌い」なのです。

 何を直しても、どんなに言う事を聞いても、嫌いなものは嫌いなのだから、しつこく頑張っても親も気持ちは変わりません。

 それが人生のスタートだったということです。

 諦めるしかないのです。

 親の個人的好みに合わせた「キャラ」になってみても、ふりをしていれば不自然になります。

 他人にも強要したくなります。

 我慢している分、優しい人に絡んだり我慢させたりすることで、今のキャラを維持します。

 好意的な全ての人を欲求のはけ口にしていくので、全ての他人と親しくなれません。

 それもこれも、親に愛されたいがためです。

 ふりをしているのに「自分はきちんとできているぞ」なんて自覚しながら優越感に浸ることになります。

 自分が「他人から見てきちんとできている」と自分で自覚していたらおかしいこともわかりません。

 他人から見た自分など、死ぬまでわからないのが当たり前なのに。

 説明して言わせようとしているだけです。

 自分のことを説明など普通はしないものですから。

 言葉で洗脳すれば、言わせることはできます。でも思われはしません。存在していないからです。

 現実の自分は、最初から変わりません。

 親に嫌われた自分が、親に好かれる人のふりをしているだけです。

 親に好かれる人のふりをして、親に好かれる自分だったら…というifの人生を生きています。

 しかし現実にはそうではないので、うまくいっても自分だけが満足しません。

 賛辞されて、羨ましがられて、親がそうであって欲しい人間の人生が成功しても、自分の生きたい人生とはなんら関わりない人生なので、終わりなくつづく地獄です。

 「いつまで続けていたらいいの?」

 と他人に聞く人がいます。

 それ以前にこう聞きたいところです。

 「なんでそんなふり続けてるの?」

 「もしこんなお前になってくれたなら…」という親の夢を叶えているつもりなのですが

 そうではなくて、その言葉の意味は

 「お前が嫌い」

 なのです。

 でも生まれたものは仕方ないから、できるだけ目障りにならないようにしてね。

 できるだけ面倒かけないでね。

 余計なことしないで、理解可能なことだけしてね。

 私に得させることだけしてね。

 私を楽しませる人生送ってね。

 私が自慢できる子供をやってね。

 「それなら、存在しているのは許してあげるから。」

 せめて言う事を聞くならば、いることくらいは「許してやってもいい」ということです。

 ただでさえ、存在が目障りですから。

 親に嫌われた自分が存在を許してもらうために、人生を費やしていきます。

 親が亡くなると、親に満足してもらうための人生の残骸だけが残ります。

 他人の人生の続きが残っています。

 誰か知らないが、親の脳内にいる親しか知らない「想像上の理想の子」の真似をした人生が。

 親の想像上の理想の子になれない限り、ふりだけではぼろが出ます。

 その度に叱られながら、嫌味を言われながら、気に入られるように直し続けるのです。

 「これでいい?」

 「いつまで続ければいいの?」

 そうではないのです。

 最初から、全部だめ。

 だってお前が嫌いだから。

 何をしたって駄目。

 そもそも、この人と結婚して失敗。結婚前からやり直したい。

 お前さえいなければ、一人に戻れたかもしれないのに。

 辛辣に聞こえるかもしれませんが、本当にそうなんですよ。

 結婚が失敗だったと思う親にとって、子供ほど目障りになるものはありません。

 子供さえいなれば独り者に戻れますからね。

 そうなると「こいつが早く大人にさえなってくれれば…!」と思うようになります。

 邪魔者です。

 「もう大人になったからいいよね」

 と親をやめられます。

 僕の母は「お前に迷惑はかけない」と言い続け、詰まるところ「一人になって自由にしたい」を選択しました。
 早く捨てたくてしようがないのです。

 結婚も親になったことも、全部後悔です。消したい過去なので見たくもないのです。

 「後は大人になったんだから好きにしろ。」というご都合主義の「放任主義」です。

 教育の放棄なのです。

 「餌だけ食わせて後は放置」

 子供を人間扱いしていません。親は死ぬまで子供にとっては先導者であり、教育者です。

 そのくらい、子供は邪魔なのです。

 そんなことよりも「自分はちゃんとできているかできていないか」人の評価ばかり気にしています。

 子供の頃にどんなに辛い目にあっても、親になったら自分が文句を言った親と同じように「やっぱり自分も同じことをしたくなる」のです。

 そうなると、あの頃の辛かったことなど忘れ、今の自分のことしか考えません。

 常に自分のことばかり、それこそ毒親です。過去なんか全部忘れました。

 忘れたと言えば、周りも何も言わないと思っていますが勿論周りは覚えています。

 楽をするためなら何でも努力する。変な話です。

 あまりがっかりしないよう。

 そんなものなのです。

 親だから子供が可愛いわけではありません。内面的にはまだ子供の気分ですから。

 嫌々生んで育ててやったんだから、感謝しろと言いたいくらいなのです。

 育てたくもない子供をそれなりに形だけはきちんとしてやったのだから、もう何もやりたくない、これ以上私に求めないでくれ。

 大人にしてやったんだから、もう許して。もうこっちに来ないで。そっちで勝手にうまくやって。

 親はそんな気分です。まだまだそんなことより一人で人生を楽しみたいのです。

 我慢してきてちっとも好きなことをできなかったので、子供が消えてくれたら今度こそ昔やりたかったことのやり直しなのです。

 常に過去のために生きていますから、過去の欲求不満を晴らすことしか考えません。

 何かあったら役立ってくれれば、もう十分だから。役立つ時は必要としてあげるから。

 本当にそんな気持ちなんですよ。

 恐らく、実際のところを思い返すと、そうであっても不思議ない、と思える人がいるでしょう。

 あとはどうするかです。

 親の傍にいて少しでも関わってもらいたいならば、許してもらうためにふりを続けなくてはなりません。

 「お前の顔がムカつくから、ずっとお面かぶっててくれる?」

 「お前であるな」はそんな感じの意味合いですから。

 こんなに上手にきちんとお面をかぶっている!

 と自慢しているより、

 親に騙された!私は本当はこっちのお面が良かった!

 と新しいお面をかぶって、もっと目立つお面にするより

 「もう、なにもかぶらない」

 と諦めた方が、ずっと楽です。

 人の人生は悲しみから始まります。

 生まれてこなきゃよかった、と赤ん坊は泣いています。

 安心安全な場所にいたのに、苦しみの人生が始まったのですから。

 これが生きるということなのだ、と悲しみを受け入れてしまえば、人生は少しずつ良いものになります。