まだ見ぬ友人へ

嘆く前に決めるべきこと ~まだ見ぬ君への手紙~

 

まだ見ぬ友人へ

 

 まだ見ぬ友人の君に、嘆く前にそして悩む前に、まず決めて欲しいことがある。

 それを決めねば、僕は君の相談にも乗れないし励ますことも慰めることも、何もできない。

  

 君はそれなりにこの人生を生きてきて、辛いこと苦しいこと、信じられないこと色々味わったと思う。

 「酷い!」と思えることがあったかもしれない。

 

 では、どうする。

 まず決めろ。

 

 決めねば話にならないからだ。

 

 話にもならない人間の話は、誰も聞かない。僕でも聞かない。

 

 人生は地獄だろう?

 そしてどうする。

 生きるか、死ぬか、まず決めろ。

 

 死ぬ気で生きるか、死ぬか、決めろ。

 

 どうせ人は、いつか死ぬ。

 生きるか死ぬかも決めないまま生きても、何も始まらない。

 

 君が決めることだ。

 

 君が今生きているのは、「生きる」と決めたからではないのか?

 生きるつもりもないのに、勝手に生きているのか?

 何もしていないのに、勝手に年を取っているのか?

 飯も食わず動きもせず、勝手に年を取ったのか?

 「生きたくないけど生きちゃってる。」

 なんて末代までの恥になるようなことを言うなよ。

 生きたくないならば、人は何もせずに朽ちている。

 腹が減って飯を食う。眠くなって眠る。それは「生きよう」とする行為だ。

 「生きたがっている」ということだ。

 君が霞でも食って生きているならまだしも、万が一そうならば現世に不満などないだろう。

 

 人は「生きる」と決めて生きねば、意志を持って生きられない。

 君は生きるか死ぬか、まだ決めずに生きていないか?

 生きたくないと思いながら生きているならば、この世は地獄に輪をかけて地獄になるぞ。

 やりたくないことをやっているのだから。

 だから最初に決めろ。

 生きるのか、死ぬのか、自分で決めろ。

 そんなものは、他人が決めることではない。

 本人の意志だ。

 君がもし、自分をどこまでも蔑ろにするならば、君は君の無意識が行う行動を無視して、他人にいい格好を見せたいが故に死ぬかもしれない。

 そして無様な生き様と死に様を晒すかもしれない。

 立派に生きようとすれば、生きたいなどと誰も思わない。僕でも思わない。

 せめて無様な生き様を晒さないように、生きるならば生きるしかないのだ。

 

 親を罵って他人のせいにして、努力や親切を「アピールする」という生き方をする人は、人を罵る割には親がその昔してくれたほども、自分の子供にしてないい、なんてことがある。

 無様。親を超えるどころか遥か下回る。

 片腹痛いとはこのことだ。

 子を虐待し人のせいにして生きる人間は、「生きる」と決めかねながら生きている。

 「自分にとって都合の良い世の中になってからなら、生きてもいいかな」という甘い考えの元、夢みたいなことを追い求めて年だけ食っていく。

 あるわけがないものを外面で判断し、「あんな人たちはいいなあ」「あんなものが手に入ったらさぞ幸せだろうなあ」と勘違いして追い求める。

 そこにどんな罠があるのかも知らずに。

  

 というわけで、まだ見ぬ友人よ。

 生きるか、死ぬか、まず決めな。

 

 そしてもし、生きると決めたら考えろ。

 「なんのために生きるのか」を。

 

 それを決めてから、人生は、君の今生は始まるのだ。

 

 たった今、あるだけの荷を背負い、捨てるものを捨て、持つべきものを持ち、身に着けた武器を数え、それらを使ってどうするか、君が考えるのだ。

 その時こそ、僕は相談に乗ろう。

 生きるのか死ぬのかもわからない亡霊みたいな存在に、「どうしたら生きて幸せになれるか」を説いても仕方ないだろう?

 時間の無駄を割くための、君と僕の命を無駄にしないための、優しさだ。

 

 なんのために生まれたのかは、君がなんのために生きるかで決まる。

 君がなんのために生きたかで、君の人生がなんのためにあったのかは決まっていくのだ。

 まず、君の意志があり、全てはそこからなのだ。

 

 

まだ見ぬ友人のこれからの雄姿を称える

 最上 雄基