日記, 非会員向け

自分の夢

 生きることが嫌になってしまっている人たちは、自分の夢がない。

 「こんなこと起きて欲しい」という受け身の願望はあふれているのに、自分自身が「やりたい」と思う夢がない。

 自分の夢なんてものは考えることもない、という人も多いのではないだろうか。

 僕自身も目先のことでなら「これがやりたい」は沢山あっても、なかなか「こんなことがしたい」という夢は考えたことがなかった。

 苫米地英人博士の夢は「世界平和」だという。

 壮大な夢だ。

 すげーな、それは叶ってほしいな、と思うが、「それいいなあ」と思っても他人の夢である。

 僕自身の夢は「子供たちの夢を守りたい」という夢である。


 僕は幼児期に両親がいなくなり、夢なんて持ったことがない。

 夢なんて見ている余裕もなく、いきなり現実の厳しさしかなかった。

 「どうやって生きていけばいいんだろう」と呆然としていたのは、五歳の頃だった。


 「どう生き延びるか」しか考えたこともなく、友達と仲良くなりたいと思っても、「いずれは離れ離れになるから、今だけなのだ」と子供の頃でも至極現実的な考え方をしていた。

 だからこそ、今を大事にするということはできたが、夢なんて見れた試しはなかった。


 強制される人生からなんとか脱しなくては、という脱出ゲームのようになっていた。


 子供たちには、ヒーローになりたいとか、スポーツ選手になりたいとか、プリキュアになりたいとか、電車の博士になりたいとか、動物園の人になりたいとか、現実かどうか関係なく「現実になりたいやりたい」と思う夢が沢山ある。

 現実は思ったようなものではない。

 それでもくじけることなく立ち上がって進んでいけるのは、子供のころから見ている夢があり、希望があるからだ。

 夢は自分を励ましてくれる。

 夢は自分の心の支えになる。


 だが、今の子供たちは素直に夢を持つことも許されない。

 変身すれば、親は見世物を見せてもらっているような反応をする。

 子供たちがたった今見ている世界が見えないからだ。


 傷ついた子供たちは、いつまでも子供の頃に好きだったことにしがみつきながらも、自己卑下して好きであるものに対しても遠慮して自分をバカにする。

 「こんなものが好きだと知られるのが恥ずかしい」

 そんな風に自己卑下する人たちは、他人にいきなり攻撃的になり、また卑屈になる。


 夢を持つことも遠慮して、人にバカにされないか気にするのだ。

 バカにされないと安心しなければ持つことができない夢など、本物ではない。


 本当に信じるならば、自分が好きならば、堂々としていればいい。


 いい年をしたオッサンが「夢は世界平和!」とキラキラした目で言う。

 学者なのかと思いきや、職業はギタリスト、と言う。

 意味がわからないと思うかもしれないが、彼の中でそれはきちんと統合されているのだ。


 だが、いい年をしたオッサンが「人類を管理する」という夢を持っているのだから、反対に世界平和が夢である人がいても何もおかしくない。


 僕は、子供たちの夢を守ってやりたい。

 子供たちが夢を持って育っていけるように、子供たちの夢を守って応援してやりたい。


 それが僕の夢だ。

 「どうせいつかは捨てるもの」と思っている人が多い。

 夢は心の世界を作るものなのだから、現実に叶いそうかどうか考えて捨てることはない。


 「芋粥」という話がある。

 ある男は芋粥をたらふく食べることが夢だった。

 それが他人の力である日叶えることができた。

 男は「いつかは」という夢を失った。

 そして明日から何を夢見て日々の仕事を頑張っていくか、希望を失った。


 他人の力で叶えた夢に価値はない。

 ただ希望を失うだけだ。

 「何してほしい」の夢もそうだ。

 夢は希望の源であり、希望を失ったら人間は明日を夢見て生きていけない。


 大人の夢は、そこに現実の可能性がプラスされることで、希望となって未来に導いてくれるものだ。

 現実を生きることで夢は現実の希望となっていく。

 そしてその希望は辛く苦しい現実を前に進ませる光となっていく。


 「自分がやらねば」という意思があって、自分自身が自分の人生をヒーローとなりヒロインとなり生きていけるのだ。

 自分だけが知る人生のドラマを、自分が切り開いて生きていかねば誰のために生きているのかわからない。

 他人に救いを求めても、そんなものはやってこない。


 だが、夢を失ったらどこかに救いを求めたくもなるだろう。


 「いつまでもバカなことやってないで勉強しなさい!」

 子供たちの夢は、いとも簡単に打ち砕かれている。


 バカなことじゃない。

 子供たちにとっては、その夢はこれからの人生を生きる希望となる大切なものなのだ。


 夢を無くした子供は弱くなる。

 自分を信じられなくなる。


 だから僕は子供たちの夢を守りたいと思う。

 それが僕の夢だ。


 子供たちの夢をバカにする大人がいたら、「バカにしないであげてください」と夢もない大人が大人を批難しに行くだろう。

 それはただのお願いだ。

 直接訴えるものではない。

 単独で完成する行動が、自分自身の行動だ。


 だから子供たちの夢を破壊する大人がいたら、その夢が消えていかないように守ってあげればいいのだ。

 大人になったら、誰かに「この夢をわかって」と求めるものではない。

 それは他人に救いを求める行いだ。夢を既に失っている。


 「これが俺の夢だ!」と堂々と一人で育てていけばいいのだ。


 夢を持つのは恥ずかしいと思っている大人こそ、恥ずかしい。

 要は、自分には夢も希望もないということなのだから。

 いちいち人に聞かせて回る必要もない。

 なぜならば、大人は自力で行動に移せるからだ。


 聞かなくても頼まなくても、自分がやりたいことは自分でできるからだ。


 弱い人間には夢がない。夢も希望もない。


 ただ、非現実の中に見た願望を現実に求め生きていく日々になっている。


 「良い子にしていれば、人に認められる人間であれば、いつか誰かが夢を叶えてくれるのではないか」

 人に認められる人間ならば、自分で自分の夢を叶えればいい。


 実力ある人間は行動に移し、正しいことを知る人間は正しい行いをする。


 人に認められるから偉いわけでも他人に何かしてもらえるわけでもない。

 自分自身の夢を叶える力がなければ、自分を認めることもできない。


 他人に認められたいのは、「他人の要求を叶えるため」に生きているからだ。


 自分の夢を叶えるために、自分で自分を認められるよう生きればいいのだ。



 心の中にある夢は生きる糧になる。

 「いつかこんな人が現れてあいつらを見返してやる!」という夢は、現実部分を考えれば「あいつらが苦しむことが夢」だ。

 子供はそんな恐ろしい夢を持たない。

 子供たちの夢は素直な優しい心に溢れている。

 人を苦しめることより、人を幸せにすることを願っている。


 だから僕は子供たちの夢を守ってあげたいのだ。


 そして大人たちが自分を恥じることなく心の中に夢を持ってくれれば、夢を思い出してくれればと願っている。