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天才を殺す凡人

天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ (日本経済新聞出版)

天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ (日本経済新聞出版)北野唯我日経BP2019-01-16

 このような本がある。今回はこの本をお勧めしたい。

 内容より、読んでみて思ったことを書く。

 予め書いておくが、僕はこの本に出てくる天才、凡人、秀才、の中で言えば、確実に天才である。

 それを踏まえた上で、この「天才を殺す凡人」の内容は非常にわかりやすく、的を射ていると思った。
 とても簡単に読める会話形式のドラマ仕立てなので、難しい本は読みたくない人にもお勧めだ。

 この中に出てくる「サイレントキラー」が僕は気になった。

 天才を殺す秀才。

 憧れと嫉妬。

 まるで映画アマデウスのアントニオ・サリエリだ。

 天才に憧れるが、同時に憎い。天才さえいなければ自分の天下なのに、と思う。

 サリエリそのままだ。

 世の中の小難しい理論を展開しては、それっぽい会話で人を納得させてしまう。

 僕はこの手のやり取りが、子供と親の間でも行われている、と思った。

 まだ何もわからない子供に、社会的にそれっぽい理屈を並べながら言う事を聞かせてしまう。

 子供はみな天才。好奇心の塊なのに、それを殺してしまう。

 「日本は天才を凡人に変える天才」

 と言ったのは、東大の某先生だった。

 僕は天才を見抜く。

 「人の中の天才」を見抜く。僕が天才だからだ。

 「社会で教えられた真似事」ではない、自然に発揮しているその人の何かに気付く。

 気付くだけだが、それすらできる人も少ない。

 子供の頃から「人間」に好奇心を抱いて観察し、研究し続けてきた。

 故に、個々の人間の違いや、その人にしかない特徴に気付く。

 本人が好奇心を呼び起こすかは、如何に偏見や他人に対する嫉妬、敵対心が取り除けるかだろう。

 天才は才能だけではなれない。

 好奇心を内側から生み出せなくては、才能などあって無いようなものだ。

 そのためには、偏見に対する恐れ、そして他人に張り合って優越したいという劣等感の解決が必要だ。

 他人に勝とうとした時、天才の才能は死ぬ。

 他人に認められようとした時に、好奇心を捨てる。

 まあ、今回はそんなことはどうでもいい。

 「それぞれが必要としている人がいる」

 と先の本に解説がある。

 僕自身の場合は、と考えると、確かに書いてある通り「秀才」の中の「スーパーエリート」のような人が必要だと思った。

 僕は発想はできる。思考はできる。

 「再現性」を持った人が欲しい。

 天才宮崎駿監督に、久石譲が曲を提供するようなものだ。

 久石氏曰く、如何にも天才らしく「こんな感じのやつ」的な指示があるらしい。

 それを再現するのが彼の仕事だ。

 彼は天才じゃないの?彼だってすごい才能だよ。と思うかもしれないが、少なくとも「宮崎駿映画」を作る際は、天才宮崎監督率いる集団の中の、音楽担当「再現性の天才」久石譲なのだ。

 もし、僕自身が「こういう感じのもの」と説明し、それを再現する秀才がいたとしたら、僕は天才を見るより感動すると思った。

 天才を見た時に、例えば苫米地英人博士の教えを聞いた時に、僕は「すごい!」とも「意味わかんない」とも「こんな天才になってみたい~」とも思わない。

 「わかるー」

 である。

 「それ面白そう!ようし、俺も!」

 と好奇心や意欲が湧いてくる。

 「なに!そんなものがあったのか!」

 と驚いて、やはり自分も何かやりたくなる。

 だが、再現性の天才みたいな人がいたら、僕は感動するだろう。

 その時は

 「こいつすげえ!」

 と思うだろう。

 天才の説明を聞いて、それを理解した。イメージできた。そして再現した。

 天才より多く必要な人だ。

 宮崎映画でもそうだ。音楽だけでは駄目。他にもいろいろな担当の「再現性の天才」が必要だ。

 そして、先の本には更に「共感できる凡人」が挙げられていた。

 天才の心の闇を支える、共感性の天才である凡人。

 本人は何も生み出さないし、特に優秀でもないが、天才の心を支えると言う。

 「あげまん」のことだ。

 人の心だけよくわかる人。

 天才は本人が天才なのだから、他人にすごい才能を求めない。
 寧ろ求めない。他のものを持っている人がいい。

 張り合われた途端に相手の価値は無くなる。

 僕は、天才福田雄一監督の妻は、この手のあげまんだと思う。

 ムロツヨシさんという俳優さんがいる。通称福田組のエースだ。

 彼は福田監督の妻が見つけた人だと聞いた。

 「あの人はあなたに必要な人だから、一度会ってほしい」

 と妻が進言してきたので、会ったのだという。

 福田雄一監督の作品、ドラマの「勇者ヨシヒコ」。

 あの作品の冒頭で毎回盗賊が出てくるという前振りのようなミニドラマがある。

 登場するのは毎回神経症的な人だが、彼の目から見て解釈すると、こうなるのだなと思った。
 参考になるので、僕はこのドラマも何度も見ている。

 僕は面倒くさいので、もう頑張って作ってくれた天才が生み出してくれたものを利用しようという、怠け者である。

 再現する人がいないのだ。
 それが一番の悩みだ。

 あるところに師の推薦にて行った際は、故あって話が流れた。

 師は「あそこでは君の才能はわからなかったか」と言った。

 僕の先生は偉い人だ。だからみな先生の前ではへりくだる。

 だが、見えないところで僕が言われたのは

 「加藤諦三はふたりいらない」

 であった。
 そして僕の文章を直された。

 だからもうやめた。面倒くさいからだ。

 僕は加藤諦三ではない、とか、加藤諦三がふたりいてもいいじゃないか、とか、あれこれもめた末、僕が嫌になってやめた。

 僕は僕が思うことを書いたまで、僕は加藤諦三ではない。

 そんなに爺さんではない。

 そして加藤諦三先生は、もっとナイーブでカッコいい文章を書く。
 情緒あふれる詩のような文章を書く。そこにちょっとした笑いもある。
 だからカッコいい。

 話が逸れたが、先の本「天才を殺す凡人」は、「自分の中の天才」を発見し育てるためにも良書だと思った。

 そして様々な人とのやり取りや、役割分担を考えるにも役立つと思う。

 僕は人と張り合う気が全くなく、発見する気しかない。

 発見し、生み出すことにしか興味がない。

 故に、勝ち負けを競える時点で全て負け、と考えている。

 「優劣で並べられるラインに他人が存在している時点で全て負け」

 それが僕の考え方である。

 他人と優劣を競うためには、他人が生み出した何かを実行するしかない。

 そんなキリのないことより、僕は原点を生み出す人間でいたい。

 面倒くさいからだ。

 優劣を競う方が面倒くさいからだ。

 発見も創造も、自分だけいればできる。一番楽だから、そうしているまでだ。

 あげまんに創造力は無い。

 だが、想像力があるのだ。

 人には役割分担がある。

 天才の才能を再現性の天才である秀才が支えるならば、心は共感性の天才が支えるというわけだ。

 勿論、他にもそれぞれに必要な人、そして役割がある。

 結局、天才だろうが凡人だろうが秀才だろうが、全てにおいて必要なものは「想像力」なのだとわかった。

 再現性の天才になるには、話をきいて想像する能力が必要。

 共感の天才になるには、様子を見て想像する能力が必要。

 そうなると、前者は男子で後者が女子である場合が、思考形態から考えてもちょうどいいのだろう。

 そして、どれになるにも不要なものは敵意。人を信用できなければ、その全ては発揮できない力だ。

 持って生まれた力は、全部ドブに捨てる。それがまさしく神経症的才能だ。

 共感力がある人は、「わかってあげる」ができる。

 共感力がない人は「わかってあげて」と強要する。

 時々、あげまんなのにさげまんになっている、という人を見かける。

 あげまんの力があるのだが、自分がなくなっているからさげまんになっているのだ。

 さげちんにくっついて生きている、またはさげまんを親友にしている。

 使われている、と言った方がいいのだろう。

 その共感力は、自分に都合のいいことを言う人に使わせてはならないのだ。

 自尊心が低いと、褒めてくれる人、優しいことを言ってくれる人、が素晴らしい人に見える。

 だが、自尊心が低くなければどんな態度にでてくるかわからない。

 困っている、自信がない、という素振りがなければ、近寄っても来ない人たちかもしれない。

 同じ人でも全く変わってしまうのだ

 (・Θ・)あげまん!

 (・Θ・)さげまん…

 このくらい違うのだ。

 だが、天才の苦悩は僕にはよくわかる。

 共感なんてしなくても、よくわかる。

 ジョブズは生み出した基板を、部下に再現させた。

 「美しくない」

 と言ってやり直させた。
 それについて理解できる人はおらず、根拠なく厳しいとか、我儘だとも言われていた。

 完璧主義だとかなんとか。

 だが、そうではない。

 俺にはわかるぞ。

 「それでしかない」だったのだと。

 その形は完璧で、そうでなくてはならなかったのだ。

 なんとかなっていればいいものと、他では駄目だというものがある。

 「美しい」つまり、それ以外にない、だったのだと僕にはわかる。

 ジョブズは早死にした。心の支えがなかったのだろう。

 あげまんは天才にとって命そのものというくらいの価値がある。

 そして天才はよく早死にする。

 ジョブズの若さで死ぬことを考えたら、僕もあと十年がせいぜいだと覚悟して生きなくてはならないだろう。

 俺をわかってくれ!私をわかってくれない!

 この手の人は他人の寿命を食っている。

 当たり前だが、他人に理解してもらえた人は理解してくれた相手以上になんらかの能力を発揮しなくてはならない。

 二人前の価値を一人で生み出せないならば、他人に理解してもらった意味がない。

 自分には意味があった、では、搾取になってしまう。

 自分の望むことをする意味が、他人の側に最初からなくては意味がない。

 私、という特定の個人に他人は望みなどない。

 何かすることで他人に気に入られたいならば、他を凌駕するだけの能力などがなくてはならない。

 私、の考えや、私、の自然な姿で生きていない限り、「私」が必要とされることは、無い。

 他人にちやほやされたくて社会的理想に沿うなど、結局は「あんなものあったらいいな」を叶えてあげるだけの、魔法使いである。

 理想の人になってやれば、その姿を見た人は「わー」と喜ぶだろう。

 それを見て「自分が期待された」と勘違いしてはならない。

 自分ではなく、先に情報で知っていた何かを見たから、「きっとこの人はあれこれだ!」という期待を寄せたに過ぎない。
 延々と期待に応えるつもりでもないなら、そんなことは早めにやめた方がいいのだ。