まだ見ぬ友人へ, 非会員向け

孤独と戦え 自分をわかってもらおうとするな

 自分をわかってくれる人

 そんな人はいない

 と思って生きた方がいい
 自分の境遇をわかってくれたとしても、それをどう思うかはわからない

 「知ってくれた」
 だから何かしてくれるわけではない
 自分に必要なものを用意して待っている人などいるわけがない

 自分が知らない誰かに必要なものを用意して待っていないのだから

 自分に必要なものを持ってくる人を待っていたら、寿命が尽きてしまう


 幸せとは、無いものは無いと諦めて生きる道にある


 僕も自分の話を聞いてくれる人が欲しいと思うことはある

 だが、誰も聞いてくれる人はいない

 話しても話しても理解されない
 だから諦めている

 わからなくても、「わからない」と言いながら頑張って聞いてくれる人がいるならば、それだけで幸運なことなのである

 僕にはやりたいことがある

 三十を過ぎた頃に、人の心理についてその仕組みを考えていた際、自分でももう忘れてしまったのだが「世界はこうなっているのだ」と全て理解したと思ったことがある

 当時、それを図面のようにして絵に描いた

 これが全てだ、と思った

 「涅槃」と呼ばれるらしきものを見る体験をしたころだ

 これを、どこかに、と思い、僕は理論として確立するためにこの分野に足を踏み入れた

 だが、これを持っていく先がわからなかった
 どこにいっても、「まだ存在しない理論」を出す場が無かった

 どこに行けばいいのかわからないまま、色々なところで学んでいる際に加藤諦三先生に出会った

 その際も、僕は既にある神経症の定義について異を唱え意見した
 それが教授との出会いであった

 僕はアルベルトを親友とした
 アインシュタインである
 彼もまたそうだったのだと彼の存在を励みに、彼の言葉を相談相手にしてきた

 この理論を確立するためには、この分野に滞在しなくてはならない
 故に、僕は今カウンセラーをしている
 研究したいからだ

 ひらめく時は、一気に全体が見えてくる
 その時一気にやらないと、消えていく

 だが、それは自分では理解できても、うまく言葉に表して形にすることができない

 最近になり、僕は再び仏教について学び、そして曼荼羅について理解し、自分でも教えを説いている

 あれは体得なのだ、と教えた際、僕はある寺の生徒に「こんな風になっているのだと思う」と説明した
 自分の体験からすると、こうなっているはずだ、と

 すると、その後生徒はある図を僕に教えてくれた
 それは曼荼羅の悟りの肯定までを示した順序の図解だった

 僕はとにかくただ体得が先だった
 理屈は知らない
 僕が思うことを説明していると、生徒は「ぞっとした」と言った

 「確かにそう言われている」と知るものを見せてくれた

 言われていても、それがどういう意味なのか体得していない人には理解できない

 僕はそれを自分の言葉で説明している

 生徒は更に、曼荼羅の図解ともうひとつのものを見せてくれた

 似ている、同じことなのではないか、と

 それは、アインシュタインの相対性理論の図解だった

 それを見て「これは全部同じことを言っている」と答えた

 そして今、知りもしなかった「特殊相対性理論」を知り、わかった

 なぜかは知らないが、このアインシュタインの理論を理解できる人は少ないのだと言う


 高速で移動する物体の中では、時間の進み方が遅くなり空間が短くなる

 これが特殊相対性理論だ

 僕は図説を見て理解した

 これは、神経症の時間の進み方と同じだ

 神経症者と心理的に健康な人、その定義にはハッキリとした線引きが無い
 段階となっている
 つまり二種類に分かれているわけではないのだ

 それは高速で移動する物体と同じであり、その時間の速さは認知している時間の長さで「今」という時間の速さが割り出される
 認知している時間の長さが神経症度に比例する

 ということなのだ
 と気付いた
 やはり全く同じ
 この理論はあらゆるところに存在していると思われる

 所謂「宇宙の真理」のようなものだ
 物事の本質なのだ

 そういうことか、とまた頭の中で理論を構築しているが、これを話す相手もいない
 話して理解できるかどうかもわからない

 図解して説明したところで、ポカーンとするかもしれない

 誰かに聞いてもらいたいが、聞いてくれる相手がいない
 誰も僕が言う事を、わかってくれない

 僕もそんなことはある

 子供の頃からだ
 誰も僕の説明することを、わかってくれない

 小学生の頃、先生に教科書にないことを質問した
 自分がどう考えるか説明した
 先生は
 「それはまだ小学生ではやらないことだから」
 と言って、教えてくれなかった
 知りたくても教えてくれる人はいない

 全員で同じ進み方で、同じスピードで進まなくてはならない
 それが僕は嫌だった

 だから僕も人にわかってもらうことを諦めた


 それでも、入り口は仏教だが「一般的に誰も理解して教えていないこと」を教え続けていたお陰で、こうしてお寺の生徒が僕に気付いたことを運んできてくれた

 僕は物理学のことなど全くわからない
 難しいことを言われたら、恐らくわからない

 だがアインシュタインの理論は理解できる

 彼はこの美しい理論を完成させた時、いや、気付いた時、説明を生み出せた時、どう表現したらいいのかわからないが、きっと感動しただろう


 全部同じことなのだ

 この理論から考えると、神経症治療に必要なものも見えてくる

 認知の世界は、時間と空間の理論であるこの特殊相対性理論と同じなのだ

 つまり、物質的な世界だけではなく、もうひとつある人間の脳内の世界、認知の世界にも同じ状況が作られ、そしてその仕組みは同じということになる


 ここまで読んで、どう思っただろうか?

 難しいだろうか

 僕は日々そんなことを考えている

 だから、好きとか嫌いとか、そんなことで大騒ぎして「私をわかって」と言っている人の相手などしていられないのだ
 その人を理解してその人を喜ばせることは、僕にとって未知の理論を完成させられるかどうかに全く関係なく、またその価値は僕にとって重くはない

 「好きなことをする」

 その意味を誤解する人が多いが、気になることがある、ということだ

 知りたい、もっとやりたい、そんなことがあるのだ


 アインシュタインも完成までに長い年月をかけた

 僕も諦めずに頑張ろう、といつも思う
 そして僕より賢い人が完成させてくれるならば、それでも構わない

 お前は間違っている!と言いに来る人が、この理論を理解し、完成させどこかで発表してくれて構わない

 僕はただ、完成したものが見たいだけなのだ

 「私をわかってない!」と憤慨する人を解析するように理解したところで、宇宙の真理などわからない

 自分自身の存在の偉大さを、重く考えすぎているのだ

 そこまで他人は、「私」という存在そのものに、強烈な関心など持たない

 「私の存在」そして「私の人生」

 それをなんとかして他人に自分のこと以上に重く考えてもらい、自分が自分を扱うより遥かに重く扱ってほしい、というのがナルシストの願いだ

 だが、それは自分だけではなく他人の人生の価値も自分の人生に合わせて背負うことになり、責任は重大になる

 「私」という存在が、「それでいい!ありがとう」と喜んだ

 たったそれだけのことが、「私の満足」が、他人にとって人生を揺るがすほどの偉大な価値だと思えている
 それがナルシストだ

 「そんなことはないけど」と言いながら、結局は「私を私以上に偉大に扱え」と要求する

 口では何を言っても、「皆で私のために生きろ」と求めている

 皆が私のために生きたら、皆が幸せになるのだろうか?

 私の幸せのために皆が不満を持つことになったら、後でどんなことになるか考えないのだろうか?


 僕にとっては、ナルシストほどつまらない人間はいないと思える

 すごい価値があることを教えてくれる、見せてくれるのかと思ったら

 「どこかで他の人が言ったこと」ばかり述べる

 この人だけが、世界でこれを述べられる

 という独自の考えも表現も、何も持たない

 それをどれだけ長く見ても、なんの発見もない

 それを人に見せびらかすためだけに、生きているという

 「見て!」とわざわざ他人に知ってもらうならば、他にはない価値を見せつけなければならない

 この社会に存在するものなど、誰もがどこかで見たことがあるかもしれないのだから

 日本だけで、億を超える人間がいる

 その中の一人である自分が、他人との競争を勝ち抜き、自分の求めることをしてくれる人を探さなくてはならない
 そんな人生は、徒労に終わるしかない


 と僕ならば思う

 そして全く興味がない

 この理論を、誰かに説明してわかるだろうか?と考えている

 僕の尊敬する友人には、博士と呼ばれる人もいる
 彼なら理解できるだろうか?と考えている

 高速で移動する物体の中では、時間が遅くなる

 この理論をまず理解できていることが先だ


 僕は物理が苦手だった
 理解する気がさらさらなかった

 もっと数学のように面倒なものなのだと思っていた

 だが、それは偏見だった

 特殊相対性理論の「本質」の部分を知り、即座に理解できた

 こういうものだったのか、と偏見で捉えていたことに気付いた

 数字の問題ではない
 ただの本質

 そうである
 というだけの話だったのだ

 確かに、そうだ
 百年の中の今と、一日の中の今は時間の速度が違う
 この今が止まってしまえば、時間論で言われている通りに今の荒野が広がる

 時間は進まない

 本来はそうだが、無常であることがこの世の全て

 つまりその時間は止まるのではなく、逆に速くなる

 静止したものはこの宇宙に存在しない
 アインシュタインもそう結論づけている

 そうだ、そうなんだ、と納得した

 僕も誰にもわかってもらえない
 だが僕がアルベルトの結論に同意する限り、彼は僕の友人だ

 時間の流れは同じであるように思えて、そうではない

 そうではないのだ

 そして時が止まった世界はどこにもない


 アルベルトは、自分の部屋に友人を呼び、その理論を聞いてもらったという

 それが彼の研究室だ
 彼がいる限り、彼の研究をそこで話している限り、そこは彼の研究室だ

 仲間とは、自分の説明を同じように理解してくれる人のことではない

 仲間とは、同じ方を目指し、共に歩いていく者たちだ

 だから誰も聞いてくれなくても、理解してくれなくても、僕には仲間がいる


 君も、誰かにわかってもらおうとしない方がいい

 同意にはなんの意味もない

 本当に同意しているのか、同意したふりをしているのか

 なんのためにそう言っているのかさえ、言葉ではわからないのだから


 だが、君が皆と共に手を取り合って平等な世界を生きようとするならば、仲間は沢山できる

 まだ一人だとしても、仲間はもういるのだ

 少なくともその時、僕は既に君の仲間だ