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常に間違えている

 この世の全てを知り尽くした神になるまで

 人間は常に間違えている

 全ての人が常に間違っている

 と思って、わからないものをわからないままに

 間違っているのかもしれないという余地を残して生きることが大切です。

 僕たちは知っているようで知らないことが沢山あります。

 知らないのに知ったかぶりで「こうすべき」と言い切っていることが沢山あります。

 真実を知った時、自分自身の考え方が同じであっても結論が変わることがあります。

 「真実を知らなかった時」

 例えば僕自身のことです。

 僕は平和で平等な社会を望んでいます。
 僕は日本や侍が好きで、伝統や文化も大切にしたいと考えています。

 しかし、考え方は同じでも、結論が正反対に変わったこともあります。

 ひとつが、憲法改正反対。

 間違いなくそれが正しいと信じていました。

 しかし僕は、この憲法がなんなのか全文を読み理解したわけでもなく、その成り立ちや他国との関係性を正確に把握していたわけでもありません。
 政治や歴史について、きちんと学んで理解していたわけではないのです。
 そこがわかっていないと話にならないのに。

 その部分において、自分の力でしっかりと学んできたわけでもありません。

 それなのに、なぜか僕は「憲法改正反対」でした。
 理由は「平和のため」でした。

 それが間違いだったと気づいたのは、30歳を過ぎてからです。
 歴史もです。自分が教わってきたことが間違いであると知ったのは、やはり30代の頃でした。

 真実は学ぶのではなく、「調べなくてはならない」のだと気づきました。
 自ら調査しました。学ぶこともありましたが、確認をして周りました。

 僕は自分が間違っていたことに気付きました。

 今は憲法を改正した方が良いと考えています。
 理由は「平和のため」です。

 なぜこんなに、大多数が誤解しているのか。
 沖縄戦の後、捕虜となった沖縄の人々の映像を使ったアメリカ軍のプロパガンダ映像を見ました。

 日本が鎖国していた頃の、世界の動きを知りました。

 歴史は勝者によってつくられる。

 それは知っていたはずなのに、僕はなぜか「今の自分たちはちゃんと正しいことを知っている」と思い込んでいました。

 人間は驚くほど、自分自身の身には何も起きていないと思い込むものです。

 仏教において罪を犯し続ける因縁の繋がり。

 十二因縁。

 その最初が、無明。無知であること。

 次が行。無知ゆえに過ちを犯すこと。

 地獄を脱するには、常にまず無明から脱すること。

 無知からの脱出です。

 僕は子供の頃から、社会に不満がありました。
 好きなこともできず、言われた通りに良い成績を取り、将来はなんとなく進む方向が決まっている。

 野球選手や歌手や、漫画家。

 そんな職業は何か特別な人間がなるものであり、自分たちはただ言われた通りに学校を出て、夢もなく学校と同じく行けそうなところに就職するだけ。

 漠然とそうするしかないのが現実の世の中だと思っていました。

 しかし、同時に特に不安はなく、言われた通りにしていればその分なんの問題もなく生きられると思っていました。

 ただ、不満なだけで。

 ただ不満なだけ。

 「ただ、不満なだけの人生。」

 それが当たり前。

 人生とは我慢するものだ。それが当たり前なのだ。

 その分、我慢しているからこそ安心して生きられるのだ。

 この考え方。奴隷のものです。奴隷の幸せと呼ぶものです。

 既にこの社会全体が支配され操作されていると、なぜ考えなかったのか。

 「もう武士はいないんだ。」

 途方に暮れていたのはまだ子供の頃でした。

 江戸時代ならやりたいこともあったのに、今の世の中では武士の教育なんて受けても、なんの意味もない。

 僕は戦犯と呼ばれる人たちを「英霊」と呼ぶのは、危険思想の人たちの考え方で、極右の人たちだと思っていました。

 危険思想なのは僕の方でした。

 まともだと思い込んでいた僕の方でした。

 大多数と同じ意見に安心していた自分自身の方でした。

 いつも何か矛盾を抱えていました。

 ある点においては危険なものなのに、ある点においてはその方が正しいと思っている。

 「これが良いのだ」と思えるひとつがない。

 過去の、武士の生き方と考え方ならば、「これでみんな平和になれるのだ」と納得がいくものがあるのに、現代においてはひとつもない。

 どれも正しくない。どれをとっても誰かが悪者になる。

 社会の問題について、「あっちの方が悪い」と日本人同士の考え方でも「自分たちが正しいので反対の人間は排除すべき、考え方を変えるべき」と思う人がいるでしょう。

 僕はどちらでもありません。

 僕は今あるものにおいて「確実にこっちが正しいから、自分はこちらにつく!この考え方だ!」と言い切れるものが、少なくとも社会の中にはありません。

 別に皆さんを否定するわけでもなく。

 皆さんは今まで通りで良いと思います。僕は誰かをやっつけることには一切参加しません。

 そこまで何が正しいのか言い切れるほど、僕はまだ世界の裏側を知りません。

 外面で言われていること、教えられること、一般に知られていることしか知らずに生きてきました。

 まだほんの少ししか確認していないので、全体像はだいたい把握していますが、決定的にこれという結論は控えます。

 社会の問題については、自分自身がそこから連なる問題の解決策を提示できない限り、やはりハッキリ言いきれません。

 憲法改正反対も、僕はそこだけ切り取ったように考えていました。

 子供のように、「だって~だから」という理由でした。

 では、きちんと全て把握して言っているのか?当たり前のことを確認していませんでした。

 「これはこういうもの」

 この説明を知らない人にされて信じ込む。そんな人間でした。

 難しいことだから、自分で確認しないのです。言われたことを信じるのです。

 自分自身で確認しなくてはならないと考えていませんでした。

 知らない人に教えてもらって、鵜呑みにしていました。

 世界で結ばれている条約や、力関係などを理解していませんでした。

 全ては繋がっているのに。

 僕は子供のような大人になっていました。

 難しいことはわからないままで、偉い人に教わっていればいいと思っていました。

 少しずつでも学んでいく、知っていく、という努力を怠って、情報を得ることを「学ぶ」だと誤解していました。

 学ぶとは、疑問を解いていくこと。

 「疑問を持たぬものは学ぶことができない」

 僕は疑問を持っていたわけでもないのに、「これはこうなんだよ」と教えられたことを鵜呑みにし「これはこうあるべき!」と主張している、ただの洗脳された兵隊でした。

 僕が言ったわけではない。

 平和のために大切だと。

 僕が考えて結論を出したわけではない。きちんとこれがどういうものか理解して、確認して、納得して出した結論ではない。

 そして「知っている人はもうずっと前から、知っているのだ」ということも、知りませんでした。

 それがほんの一部の人たちでしかないことも、知りませんでした。

 本当のことは、広めることができないのだと、知りませんでした。

 敗戦国の人間なのに。

 日本人とは、民族性が全く違う。
 そのような人たちとのやり取りをしているのだと、気付いていませんでした。

 平和憲法ではない。

 「この国は戦争を起こす権利をはく奪されているだけなのだ。」

 と、知りませんでした。

 絶望的に無知でした。

 こうした衝撃を乗り越え、自ら真実を述べる研究者から学び、自分自身で論文を読み、自力で情報を集め、確認するようになりました。

 子供の頃から疑問に思っていた、何か違和感を感じていたこと。

 その違和感が、三十年余経って払しょくされました。

 世界は恐ろしいところでした。

 アルベルトの言う通りでした。

 「本当のことを知っている人間が、黙っている。」

 黙っていました。

 金のため。守ってもらうため。

 ふと、心理構造について考えました。

 人間は強者を正しいとしたがり、恐れて従うと、その下にいる者もまた同じ思考になっていく。

 つまり、支配と服従の関係は、あるひとつの意思により動かされる集団。

 「集団ナルシシズムVSヒューマニズム」

 人類の課題。共同体と、支配者の戦い。

 支配と服従の関係の場合は、人は全体ではありません。

 「支配者」その一人です。

 下は全員同じです。

 ひとつの意思により統合されている集団だからです。

 ひとつの意思により動くからです。

 神経症の人たちは、何か勘違いしている。
 やらなくてもいいことを、やらねばいけないことだと思い込んでいる。

 ある精神科医に意見した時、僕はそう言いました。
 医師は言いました。

 「でもその方が便利な時もあるんだよ。例えばひとつの意思で集団を動かしたい時とか。」

 何かゾッとしたのを覚えています。

 さる大きな病院の院長をしておられる先生です。

 知っているのに、黙っている人々。

 そして不満を露わにし、強く意見して騒いでいるのは

 「何も知らない人々」

 これが、社会というものなのだ。世界というものなのだ。

 甘かった。

 僕は甘かった。

 痛感しました。

 親の洗脳は脱することはできます。

 ただ、社会の洗脳の方が深刻なのだと知りました。

 知っている人がいる。こんなに。

 ある場所までいけば、知っている人は沢山いる。

 誰一人声を上げはしないが。

 上げても、消されていくが。

 そして大多数に声を掛けられる人が、真実を述べる人として押し上げられる。

 大衆によって。

 似ている。

 経済的な流れも。酷似してきている。

 ナチスの頃に。

 あの頃のドイツに。

 国民は愚かだと言った彼は、最初からどう集団を動かすかよく考えていました。

 愚かな大衆には、できるだけ大きな声で何度でも言って聞かせるのだと。

 確かに、それによって僕も騙されていた愚かな大衆の一人でした。

 だから、神仏は必要なのだ、と納得しました。

 何千年も続く普遍的道徳。

 必ず為政者は嘘をつくから。必ず支配力は善人の皮を被ってやってくるから。

 だから必要なのだ。

 「これはやってはいけない!」

 と道徳性で拒否する人たちが多いほど、支配の力は弱まるから。

 神仏は心の中にいて、道徳性により自分を制してくれるもの。

 心理的抵抗力を高めてくれるもの。

 だから必要なのだ。

 悪の力を弱めるために、必要なのだ。バランスを取るために。

 そもそも、僕は戦争というものを誤解していました。

 戦争は聞いている通り、どこかが悪いことをして成敗するような、漫画チックなものだと思っていました。
 正義のために!というような。それも日本人ならではです。

 侍の国の戦争は、敵なのに殺さない、奴隷にしない。
 戦っても相手も尊重する。

 世界でも稀な国でした。

 皆殺しか奴隷が当然なのに。

 戦争は「起こしているのだ」と知りませんでした。

 その準備も少しずつ始めているものだから、「これから起きるな」ということもわかるのだと知りませんでした。

 全ては繋がっているから、どこにいても何をしていても、世界はわかるものなのだと知りませんでした。

 気付いていませんでした。

 いう事を聞いて奴隷をやっているより、自力で確認して判断して生きた方が、遥かに安心して生きていけるとわかっていませんでした。

 何よりも、自分が体験したことにおいては、自分の本心の判断が正しいに決まっているのだと忘れていました。

 僕は無知でしたが、無明は脱しました。

 無知であると知っていること。それを自覚していることで、無明は脱することができるのです。

 正しいことは正しいんだ。

 僕は昔から誰にも理解されず、思う事も言いませんでした。

 話しても誰も理解してくれないどころか、頭おかしい扱いされるのはわかっていましたから。

 しかし、やっと、理解してくれる人、同じことを考えている人に出会うことができました。

 やはりこれで正しかったんだ。

 人生は時期を見なくてはならないと思い、先のことを考えて、未来の自分に託して生きてきてよかったです。

 目指すところは死ですから。

 僕たちは死ぬために生きているのですから。

 生きるとは死ぬこと。

 死んで行くことが生きること。

 少しずつ死んでいく。それが生きるということ。

 生きると決めて生きるか、決めずに死を待つか。

 最近、死について以前より考えます。

 あなたも死にますね。いつか。

 いつあなたは死ぬでしょうね。

 僕も死にますね。いつかは。

 おかしな人が言っていました。

 「私は死ぬのも自分でいつ死ぬか決めたいと思ってる。」

 「あったことをないことにしたいと思ってる。」

 思っているだけではできませんが、どうやってそれを可能にするのでしょうね。

 人類には不可能なことを可能にするならば、死に物狂いで取り組まなくてはなりませんね。

 考えるまでもなく、死にます。

 決めることもできずに。

 死について考えることをバカにする人もいますが、僕は死ぬのがまだ怖いです。

 親なんていらない、あんな親要らない。

 そのような人がいますか?昔友人にもよくいました。

 ならばください。その親。

 あなたはその親の子をやめてください。

 僕は親が欲しいので、ください。

 僕はそれなりにやっていく自信がありますから、ください。

 あなたはいらないです。あなたが親を要らないのだから、親にもあなたはいらないです。

 必要としていないのだから。

 どこかで養子縁組でもしてください。

 うちでもよくありました。可能です。

 どうせ心も繋がっていないのだから、関係を切ってもいいのです。

 子供が要らないというのだから。

 親が要らないならば、一人で生きていけます。

 死にたい人は、僕に寿命をください。

 勿体ないので命をください。

 捨てるのだから、僕にください。

 僕は長生きしたいです。

 もっと生きたいです。

 人は変りません。

 「お前では嫌だ」

 と思われても、相手も困ります。その親が嫌ならください。

 命が要らないなら、その命をください。

 引き換えに欲しいのは金ですか?

 死んでから何をしてほしいですか?

 僕は死にたい人よりは、社会に貢献しますから安心してください。

 皆の幸せのためにできる限り貢献します。

 奴隷になって支配の力を強めることはしません。

 子供の頃、せっかく親がいるのに、親が要らない子が沢山いるんだと知りました。

 生活ができれば、親なんていらない子が沢山いました。

 要らないんだ、親なんて。

 気に入らない親なら、要らない、子供にとっても親なんてその程度なんだなと思いました。

 いなかった僕は親が好きでしたが、いればいたで要らないものなんですね。

 子供にそう思われるなら、大した人間ではないのでしょう。

 子供だけは普通親が好きなものなのに、子供がそこまで要らないと思うのですから。

 僕は母に腹を立てることが沢山ありました。

 よい親ではありませんが、母は好きでした。母だから。それだけです。

 最後まで母の病気を治す手立てを研究し、最後くらいはなんとか幸せを感じる人生にしてあげられないものかと考えて生きていました。

 間に合いませんでしたが。

 僕の母はそんなにひどい人ではありません。酷いことはしていましたが、酷い人ではありません。

 僕は僕の母をそこまで追い込んでいたものを、成敗するために生きていました。

 最後の二年、僕も妄想恋愛されてしまい、母と過ごす時間が殆どありませんでした。

 もう取り返しはつきませんが、そのように人のことはお構いなしの人が存在しているのがこの社会です。
 その人は関係ありません。
 僕の人生には一切関わらなかった人ですから、向こうではあれこれあったようですが、僕の人生には一切出てくることなく、無関係なところで消えていきました。

 自分の人生を生きることを邪魔する人はいても、邪魔をしただけなのでこっちの人生には関係あることをしませんでした。

 自分のことしか言わない人は、他人の人生にまではやってきません。

 人に無関心で想像力がありませんから、現実に起きていることには出てきません。

 現実逃避させようとしてくるだけです。

 自分の人生のストーリー上、いてもいなくても変わりない人。

 そんな人がいますね。

 毒親もそうです。
 自分の人生に影響はしません。自分の人生を進ませないだけです。

 自分のストーリーの中に、登場はしてこないのです。

 登場して一緒に進んで欲しいから、子供は諦めずに頑張っているのですから。

 自立して前に進むことなく、親の気を引くために生きるのですから。

 人は生きていれば真実に次々たどり着き、考え方も変わります。

 現実を知るからです。

 妄想から現実へ。決めつけの空想から真実へ。

 世界は恐ろしいところでした。

 思うより遥かに恐ろしいところだったので、僕も昔のように休みの前には皆で飲みに行っているのが楽しみなんて人生は、二度と送れません。

 もっと危険な世界に生きているのに、それに気づかなかった。

 それは全て、最初から自分が檻の中にいたせいなのだと、納得しました。

 いう事さえ聞いていれば安心。

 最初から、奴隷だったのだと気づいていませんでした。

 軽々しく芸能人の噂話レベルに話すことなど、もうできないでしょう。

 よく知りもしないのに。

 なんでもないことのように、重大な事柄を扱う。

 重大なことのように、なんでもないことを大袈裟にする。

 神経症的だったのだ、とよくわかりました。