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人生行き詰ってる?いいえ、それでいいのです

 幸せな人生を生きるには、葛藤を乗り越えなくてはなりません

 「今のままではやっていけない…」

 「このままではどんどん駄目になる…」

 そんな風に思える時期が、しばらく進めば必ずやってくるでしょう。

 それは成長の時期にきただけなので、落胆する必要はありません。

 人生はステップアップなので、その時の自分にできることをして、その時の自分が正しいと思う事をしていても、様々な困難に出会い、そのうち考えも変わるようになります。

 「思っていたのと違った」「言われたようにならなかった」

 そんな体験は誰もがしていくものです。

 人は成長の時期に入ると、必ず葛藤します。

 今までのままでいたい、なんとかこれまでを続けたい。

 なんとか「良い時に戻したい」など。

 また逆に「もうやめたい」「もっと新しいことを始めたい」と正反対の欲求も出てきます。

 葛藤は前か後か、右か左か、正反対のものを抱えて悩むものですから、それでいいのです。

 その時、「不安な方を選べるかどうか」です。

 安心安全にしがみつくと、望まない方を選んでしまいます。

 一か八か飛び込んでみる、というチャレンジ精神も必要なのです。

 ステップアップする時、人は必ず変化します。

 その時に人間関係も一掃されます。

 次の段階に行くときに「共には来られない人」は消えていきます。

 待っていた人です。

 自分が相手にとって都合のいい存在でないなら、もういらない。

 そんな相手だけが消えていきます。

 この一掃の時期は、毎回来るようです。

 経験上です。

 言われたことを鵜呑みにしていると、大事な時に助けにもならない人を頼りにしています。

 信じたのに裏切られたという経験をすればするほど、人を当てにしなくなります。

 次に行くときに、他人なしでもやっていけるようになります。

 何よりも、残る人はいつまでも残ります。

 自分が変化しても成長しても、変わらず付き合いが続く仲間もいます。

 いない場合もあります。

 自分に何も求めない人を見捨ててきた場合です。

 逆に言うと、人に求めてばかりだった場合です。

 「何かしてあげるから何かして」

 この見返り要求の付き合い方は、

 「何かしてくれるなら何かしてあげる」

 という相手にしか通用しません。

 自分から何かをもらいたがるのが「好き」だと思っている場合、この勘違いをします。

 その場合「自分が何もしてあげないと相手に対してダメージになる」と考えます。

 恩着せがましい人になります。

 「何かしてあげてもいいんだぞ」「あれもこれもやってやっただろ」

 人間関係が取引なのです。そういう関係は仕事だけで十分です。

 さて、そんな例外はいいとして、とにかく成長の時期には葛藤します。

 未来は「わからないのが当然」ですから、不安で先のわからない道が正解です。

 それでもやりたい、やってみたい、と自分が思えていることが大切なのです。

 私事ですが、このような時期になると必ず異性が一掃されます。

 良いことだと思います。

 パターンは同じなので、この一か月の間に僕は数人に同じような形で別れを告げられました。

 こうなってくると、一人目、二人目、と見ているだけです。

 十年前を思い出しました。

 パターンは変わらないです。

 とりあえず過去のことを話し、「今まで黙ってたけど実は」という僕が一番嫌いなパターンの人が既に数人いました。

 自分が本当はこんなこと考えてたんだぞ!

 というそれが、勿論今聞いても相手に対して嫌な感情を抱くだけで別に傷つきもしませんが、何か勘違いしていて「私に悪く思われていたら傷つくに違いない」と思えているのです。

 それだけ自分が求められていて、自分に好かれていない、認めてもらえないと

 僕が傷つくと思えていた

 わけですから、少なくともバカにされていたことだけは確かですね。

 あからさまにふんぞり返った態度で言ってきたり、人を可哀想な人扱いの目で見てきたり

 大変なことです

 大変なことですが、要はそれは全部自分への扱いなのです。

 自分をものすごくバカにしている人

 自分を気の毒に思って嘆いている人

 そういうことです。

 とりあえず、放っておいても自然にいなくなるのです。

 これが「今成長に向かえている証」です。

 仲良くしなくていいのです。

 本当にどうしようもなく気を引きたい人になると、一度別れを告げて「ありがとう、あなたに会えて幸せだった…!」とドラマチックにいなくなりながら、しばらくするとまた連絡がします。

 これが
 死人からの連絡です。

 その時もう自分の人生から消えて、死んだ人ですからもう見えないし聞こえないのです。

 相手に対して失礼なので、そこまで言ったからには「潔かった人にしておくため」にもいないことにしておきましょう。

 格好悪い人に出会ったら、いくらかでもこちらも格好良くなってくれたことにする演出はしてよいと思います。向こうも演出で生きていますからね。

 最近になり、僕も「これから絶対に良い未来が待っている」と確信できるようになりました。

 今は辛いですが、この辛さは過去に体験がある、と思いました。

 本当に信念に従い、大事な人を大事にする道を選べば、どうあってもわからない未来に行くしかない。

 幸せに向かっているのだな、と確信できました。

 いつも変わらない人たちは、どんな時も変わらないです。

 最近は、よく体の心配をしてくれる人がいます。

 そんな時は食事をこうして、風呂に入るときは…等々、心配して色々言ってくれます。

 別にわざわざ言ってくるわけではありません。

 普通に話していると、最後にそんな心配をしてくれる人がいます。

 経験がある人からは、サイトの会員の皆さんたちからも励ましをもらいます。

 「あれは大変ですね。本当に長くかかるから疲れる。」

 「いつ終わるのかと思う時がありますよね。」

 身内の死について、その後の苦労を考えてくれる方々もいます。

 そして、消えていく人たちは違います。

 相変わらず「私が今どういう状態か」だけ話しています。

 こうして起きることをただ眺めていると、ものすごい違いだなと思います。

 自分の現実に存在していない人と、している人。

 この差はすごいなと思うくらい、自分の世界から全く出られない人もいるのです。

 つまり、もうさよならなのです。だから消えていくのです。

 苦労は一度していると似たようなことは最初ほど重く考えなくなります。
 一度乗り越えているからです。

 昔を思い出し、あの時のあの人はすごかったなあ、と振り返ると笑えることさえあります。

 後ろなんか向いている場合じゃない、と強く思えます。

 現代社会は、昔の二十歳くらいが四十歳くらいになっている、とある臨床家の先生は言いました。
 80歳を超えておられて、戦後も知っています。

 確かに、僕たちは学校で将来まで決められるものだから
 「教わったまま人生を生きるものだ」
 と勘違いしてきたような気がします。

 もう自由になっているのに、まだ教えてもらい続けなくてはならないと勘違いしていました。

 批難される、反論を浴びる。

 それは「教育や指導ではない」ので、言う事を聞かなくてもいいのです。

 怒られないように生きるものだ、と親に我慢してきた人は思ってしまいます。

 しかしそうではないのです。

 言う事を聞く必要はなく「怒っている人」がいただけなのです。

 反撃していいのです。言う事を聞かなくていいのです。

 我慢などひとつもしなくていいのです。

 特に親に反抗して良いのです。不当だと思えるならば、納得がいかないならば。

 親を怒鳴りつけて説教していいのです。僕は母の生前にやりました。

 間違った子育てをしていると僕が気づいたのですから、大人になればハッキリと子供から伝えなくてはなりません。

 子は親を超えるものだからです。間違いに気付いているならば、それは間違いだとハッキリ言わねばなりません。

 親のご機嫌を取らなくても、もう生きていけます。

 誰のご機嫌を取らずとも生きていけます。

 誰かが助けてくれるかわからない、未来の保証がない、それは「当たり前のことで別におかしくはない」ので安心してください。

 それでいいのです。

 どうなるかわからない不安な道であっています。

 自分が選ぶのだから、大人になったら常に不安と戦いながら進めばいいのです。

 未来がわからないのは普通のことであり、どうするか決めてくれる人などいません。

 どうしたらいいと思うか意見をする人はいても、結局決めているのも責任を取るのも全部自分です。

 だからもう自由なのです。

 従わなくてもいいのです。

 誰も従ってくれませんし、従わなくてもいいのです。

 どんなに自分が頑張っても他人に言う事を聞かせる権利などありませんが、自分自身も自由なのです。

 苦労は沢山ありますが、どんな風にして生きていくかは自分で決めていいのです。

 どうやって生きていくのか、自分で考えて決めて良い。

 こんな楽しいことはあるでしょうか。

 素晴らしいことだと思います。

 一人でやってもいい。という自由。

 一人で決めてもいい。という自由。

 どうせ動かすのは自分だけですから、自由にしていいのです。

 嫌ならやめていいのです。

 僕も大人になり気づきました。

 別に助けなんていらないし、よく考えたら助けてもらっていなかったのです。

 言う事を聞いても、何も助けになどなっていない人の言う事を聞いていました。

 職場など小さなことではなく、「生き方」を決めさせていました。

 文句を言わせないようにするからです。

 言いたいなら言わせておけばよかったのです。

 適当に生きたツケは自分の人生にしっかり圧し掛かります。

 言われるがまま生きてしまい、自分のためになんら真剣に身に着けてもいないという最悪な結果になりました。

 どんどん成長しているのが当然だったのに、自由な時間は「余り」のように考えていました。

 人生に余りなどあるわけがないのに、諦めて生きているから余りが出てきていたのです。

 言われたことをしているから、他は余りの自由時間。奴隷の考え方でした。

 言われた通りに生きていること自体、間違っているのだと気づきませんでした。

 最初から人生は戦いで、服従させようとしてくる力との戦いなのだとわかっていませんでした。

 争いを起こさないようにして生きていれば、横暴な人の天下になります。

 服従しながら「誰か助けてくれる人が」など、他人をバカにしています。

 自ら既に服従しておきながら求めるものではありません。

 みな戦っているのだと知りませんでした。

 しかし、「自分でやっていいのだ」と気づいた時、道は明るく見えるようになりました。

 誰かを待っていたら何も始まらないので、自分でやっていいのだと。

 僕はいつか祖母の元に戻るため、インターネットを中心の活動にしたいと思っていました。

 その時が来るのが思うより早く、ずっと準備しながらの時間を過ごしたかったのに、またしても異性関係において要らない時間を過ごしました。

 今後は更に気を引き締めて、今までのようなことが無い未来に行かねばと思いました。

 僕が甘かったのです。

 大人なのだから、もっと必要最低限にしていかねばならないのに、つい人との交流をしていた僕が間違っていました。

 もうそんなことをしなくてもいいのですから、自分はただ自分を精進させるために生きていれば良かったのです。

 教えるだけの存在は、人間として交流する必要がないのだとわかりました。

 自分の役割について、深く考えるようになりました。

 失敗することで考えを改めるものです。

 もう親となっているので、自分が幸せになろうと考えない。それが当然だったのです。

 幸せにするために生きるのが親の務めですから。

 社会をつくるのは子供たちのためです。

 ただ役目を担っていればいいのだとわかりました。

 楽しみは一人の時間にもあります。

 欲張らないことが大切なのだと反省しました。

 そして、困難が来ても変わらない友人たちがいる。

 新たに出会った人たちの中にも、心配してくれる人がいる。

 親族との争いの中、一方的に批難されている僕を見て、子供が言いました。

 「ドラマの悪役と主人公側みたい」

 良かったと思いました。主人公側にいることが目的なのであって、勝つことは目的ではありません。

 自分の兄弟ですが、こいつ演技性人格障害なんだな、と思いました。

 いつも悪口を言っている人は好きですか?

 僕がもし、あなたの目の前ではいいことを言っていて、陰では悪口を言っている人だったらどう思いますか?
 僕が弟のようにかわいがってきた少年は、ネットで罵倒を繰り返しよく炎上していました。

 ちなみに僕は自分の調べたいことなど以外では、ネットは使いません。

 僕の兄弟は常に悪口を言っています。知らない人のこと、社会のこと、色々バカにしていました。

 そういう人が好かれる時代です。

 不思議ですが、やっている人が多いということは、そういう人が好かれているのです。

 一緒になって悪口を言わないと、自分も批難されます。

 迎合していないと批難されるので、自分の意志を持たずに生きると幸せになれます。

 「文句を言われない」

 ことが幸せであるから、それが幸せなのです。

 ところが、稀に僕のように「文句を言われないことは幸せにはならない」人もいるのです。

 本当に稀なのだと思います。好きなことができない、自由がないことを不満に思います。

 自らが選んだ方が、自分が正しいと選択した方ですから、僕は稀なのです。

 自分がどうなるかより、同じであること、一緒にいることだけが大事な人もいます。

 自分を肯定してくれる人は当然自分と似たようなことをします。

 同じことをしない人に「自分を認めろ!」というのはおかしな話ですし、まずそんなことは無理だと聞かなくてもわかりますよね。

 この人なら自分を肯定するだろうとか、批難するだろうとか、聞かなくても本人の生き方でわかります。

 僕は家族内でも僕だけ違っていたので、批難はすごいです。

 従って生きるのが良いことなのです。

 立派に言われた通りにすることが、立派な大人なのです。

 死ぬまで他の大人の言う事をしっかりと聞いて言われたことを守っていくのが、立派な大人なのです。

 偉い大人が自分の親で、自分は大人になっても子供の立場でいいのです。

 従わないと褒めてもらえません。

 褒めてもらうためにはいつまでも従わなくてはなりません。

 僕は褒めてもらわなくても好きなことを選びたい変人です。

 普通は褒めてもらうためなら、好きなことなどやれなくていいのです。

 好きなことなど無いですから。

 やりたいことも無いですから。

 現代社会ではそれが普通です。

 好きなことがあって、やりたいことがある。その方が不幸です。

 言われた通りにできず、自分で考えて決めて生きなくてはなりませんから。

 言う事を聞いていて、そのうち少し褒美をもらえる程度では満足できないのです。

 自分の人生を自分で使いたいという、大変我儘な人間です。

 普通は、自分の人生は人に言われた通りに使うものです。

 現代社会ではそうです。

 とりあえず我慢するのです。なんでも言う事を聞くのです。

 我慢してきちんと言う事を聞いて、それから相手に不満を述べて褒美の交渉です。

 僕はその人生では幸せになれなかった珍しい人間です。

 逆に、わからなくても自分でやっていいということに喜びを感じます。

 していいのかいけないのか、誰かに決めてもらってからやるものだと勘違いしていました。

 「やっていいのだ」

 と気づきませんでした。

 どうなるかわからなくても、実行可能ならば「やってみて良い」のだと。

 良いかどうかなど、誰にも決められず、実行することは「可能なのだ」と気付いていませんでした。

 周りが怖かったのです。情けない話ですね。

 僕は大人になっていたのに、周りが怖かったのです。

 そんな臆病者だから、好きなこともできなかったのです。

 可哀想な人間ですね。でも実際そうでした。

 怖い、という感情を乗り越えるのは、何も僕だけではなく全員やることです。

 自分だけ人生から逃げようとしたから、罰が当たっていました。

 やれるかどうかばかり考えていました。

 「やるしかない」

 という結論に至った時、道は開けました。

 人生に行き詰ったと思っている中年は、今こそ人生を始める時です。

 考える時期がきたということは、自分の道に進む時なのです。

 悩むことさえない人がいます。

 だから悩んだ人はまだずっとマシなのです。

 なんの疑問も持たない人より、遥かに自分の道に近づいているのです。

 何もわからない未来なんて、と変なことを思っていました。

 「未来ってわからないのが当たり前じゃないの?」

 ふと気づきました。

 これなら大丈夫、という保証を「自分ではなく他人からもらいたがっていた自分」がいたのです。

 その時点でもう負けていたのだと痛感しました。

 これからも何が起きるかわかりません。

 僕が今まで通りにしていても、状況は勝手に変わりますから。

 でも、これまで以上に幸せになれることだけは、約束されたようなものです。

 僕は神仏の教えに背きません。

 だから必ず神が褒美をくれるのです。

 それは心の中にもらえる褒美であり、幸せになれるものです。

 未来に進むための苦労ならば、神が与えた試練です。

 僕をもっと幸せにしようとしてくれているから、与えられたものです。

 この苦労は感謝して受け取っていくものなのだと知っています。

 この先はもう地獄だ、何もない世界だ、と思っている未来にこそ、幸せは広がっています。

 僕は嘘をついて生きないので、人に嫌われます。

 同時に好きになってくれる人がいます。

 嘘をつけば沢山の人に好かれますが、僕はそれに価値を感じません。

 窮地において絶対に変わらない仲間がいる感動の方が、僕には大事です。

 いい顔をして生きていれば、よく知らない人から賛辞はされるでしょう。

 しかし、いい顔をするためにいい格好をする必要があるので、本当に大変な時に素直に助けを求めることもできないでしょう。

 誰かを悪者にしたり、犠牲を払わせながらでなくては、誰の助けも得られないでしょう。

 ただ、僕だから助けてくれる仲間がいる。

 いい顔をする人から見たら、そんなくだらないことが、僕にとっては嬉しいことなのです。

 そこまでの関係になるのに長い長い年月がかかっています。だからその価値は僕にとっては大きいのです。

 一人残らず全ての人に批難もされない人生など、僕には到底無理です。

 そんなことより、たった一人でも僕を信じていつも変わらずにいてくれる人の方が、僕には遥かに大事です。

 どちらが良いか選ぶ時、殆どの人がそんな小さな、誰にでも手に入るものは望まないのだと知りました。

 誰でも得られるものだから、自慢にもなりません。

 僕は自慢できなくても構わないので、そちらを選びました。

 それでいいのだと思っています。

 僕にとってはそれが正しいから、僕は満足しています。

 相手にとって僕が特別な存在でなくても構わないのです。

 そこまでの贅沢は言いません。

 「その程度」と思われる、小さなことです。

 自分だから信じてくれる仲間がほんの少しだけいる。

 くだらないことですが、親の愛ももらえなかった僕にとっては絶大な価値です。

 理由も聞かず助けてくれる人がいる。

 結論だけ言えば「わかった」と了承してくれる人がいる。

 もう理由など聞かなくても、どんな人間かは既によく知っているから。

 ただそれだけのことです。

 殆どの人はそんなことはどうでもいい、と思えるような小さなことです。

 特別な存在になれていませんから。

 相手に崇められているわけでもなんでもありません。

 僕は自分がそんなに素晴らしいとも思っていません。

 他人にとってはくだらない人間です。

 そんな親も見捨てた人間に対して、誠意で付き合いを続ければ信じてくれる人も作れるのです。

 誰もいなくなっても、僕は自分が好きです。

 自分だから。

 自分に対してだけは後ろ暗いところはない。

 たったそれだけのことしかできなくても、それだけで自分を好きにはなれるのです。

 最近は疲れ切っていましたが、気持ちの上ではやる気がより起きています。

 これからもっと頑張ろうと思える。

 その程度のことを幸せだと思ったら、馬鹿にする人がいるかもしれません。

 しかし、何も持たない人間にはその程度で十分なのです。

 何もないからこそ、その程度でも喜んでいられるのだから、何もないことほど幸せなことはないでしょう。

 未来は明るいのです。

 なぜならば、何が起きるか何もわからないからです。