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軽すぎる夫婦の接し方に唖然

 これはひど過ぎる。

 そんな夫婦の接し方があります。

 本当によく聞くなと思うのです。

 夫が話を聞かない。
 無視する。返事をしない。聞き流す。返事が早い。突然黙る。

 こんな付き合い方するなら、結婚なんかしなきゃいいじゃない。
 と思ってしまいますね。

 途中で嫌になってもやめられないのが結婚ですよ。
 やめるならやめるで話し合いも必要ですが、その前にまともに接するのは人であれば当然です。

 「話を聞いてるから黙ってた」

 こんな子供じみた言い訳をする人がいます。
 言い返したくもないと思います。

 「お前が言ったからやった。」

 何をするのも妻のせい。

 先に言っておきますが、それはまともなことではありません。

 思いやりとか優しさとか、譲ったなんて言い訳で

 「お前が言うから」

 と責任を押し付けまくる夫がいます。
 他人のせいになどしないのが大人です。

 人のせいにしながら行動していたら、子供だって成長しません。

 「言われたからやった」

 小学生の真似をして言うと、「それはうちの夫です」と名乗り出る奥さんはよくいます。

 僕もひとつ謝っておきます。

 僕には想像を絶する世界で、全く想像がつきません。

 夫婦関係は恋人と同じで、自分が片方をやります。
 ですから、想像がつくのは片方だけです。

 「お前が言ったからやった」

 はなんのためなのか。
 ムカついた時です。そんなこと言われて嬉しい人がいるわけありません。人のせいですよ。

 「お前が言ったことがムカつく」ということです。

 そうすれば、相手は何も言えなくなります。
 何を言っても「言われたからやった」と言いつづければ、自分が発言したら何を勝手にやって何を言われるかと恐れます。

 「口出しするな!」

 という意味です。

 そして

 「何も言いたくない」

 となるのは当然です。
 もしこれで

 「妻が口を利いてくれません」

 などと言い出したら完全ないじめです。そうなるに決まっていますからね。
 そんなことは小学生でもわかる話です。

 どういうことですか。

 と僕が言っても仕方ないのですが、そんな話を聞いて驚きました。

 もう一度謝ります。僕には体験がないので、想像を絶する世界です。
 そんなレベルの会話は相手にされても相手にしません。

 そんな夫が、もう六十代なんて話を聞きます。
 どういうことですか。

 大人、どういうことですか。

 すごいですね。

 そこまでして妻をいじめて、と思いますが、話を聞くとこのような夫は社会では立派なことをしています。

 マザコンです。

 でもね、奥さん。

 こういう時は普通に考えてみてください。当たり前のことを。

 「お前が言ったからやったのに!」

 こんなことは、言いませんよ。言ったからって、それを理由にやりませんよ。

 「お前が言った、そして俺は考えた末、自分自身がこうしたいからやった。」

 こうでなくては、自分の意志になりません。

 妻に生きる意味をもらっています。母親代わりなのです。

 優秀でも有能でも、そんなこともできないならばなんの意味もありません。

 結婚なんてしていられません。

 「黙らせるための能力」というものを身に着けている人がいます。

 しかし、自分の結婚が駄目になったら意味がないのでは?と思いますよね。

 気にならないのです。頭の中は「自分が正しく優秀であるかどうか」しかないからです。

 ならば一言で言って、無能です。

 当たり前ですね。夫婦関係の話ですからね。

 妻に嫌われて妻の気持ちがわからないならば、無能ですね。

 嫌々付き合ったカップルではないのです。結婚ですよ。

 妻に嫌われたらすべてはおしまい。

 ところがそんな時「俺も嫌いだもんね!」という夫もいるのです。

 呆れたものです。どういうことですか、大人。

 僕も精神分析学を学んでから、「あれは幼児の会話なのか!」と気づき、周囲で偉そうにしている大人たちを見る目が変わりました。

 自分も一緒になって会話してしまっていた!と気づいて、即やめました。

 気付いたら、即やめる。

 それしかありません。

 してしまっていたものは仕方ありません。しかし、そうであるものはそうであるのだから、現実は変えられないしどうしたって「即やめ」しかありません。

 皆さんも気づいたら、即やめしてください。
 知らないうちは仕方ないですが、知っていてやっていたら本当にどうしようもないことになります。

 子供の頃に言われていた当たり前のことは大事なんですよ。

 人のせいにしない。

 人の話はきちんと聞く。

 人の話をきちんと聞けない人は、自分が嘘を言う人です。

 自分が本当のことを言えばいいのに、人に良く見せるために思ってもいないことを言います。
 欲求不満になりますね。

 そこで「じゃあ本音を話すか」ではないのです。

 「ネチネチといじめをして欲求不満を晴らす」のです。

 自分の素敵な人格を守るためです。

 勿論、そんなことを思ってくれるのは、精々本当に接してもいない他人だけです。

 どうなのそれ?

 きちんと接した相手には嫌われて、ろくに接しない相手には「いい人」だと思われる。

 それって、まともに人間関係が作れなくない?

 と思いますね、そうですよ。そうなりますよ。

 僕の先生が「日本を駄目にしている大人」と称した人たちです。

 非社会的心理的ひきこもり。

 反社会的ではないが、非社会的。当たり前の心理的コミュニケーションは取らないが、社会では立派なことをする。
 社会での社交辞令には長けている。

 そんな人たちが、増えているのです。

 新型うつ病も同じくです。
 うつ病と一般的に呼んでいたものとは違います。

 実際には無責任に逃げるのだが、責められない理由を作る。
 職場などで退職するときに、迷惑をかけているのだが、仕方ない理由を作ることに専念するのです。

 「じゃあしょうがないよね」と文句を言わせないことだけ考えて、その場を乗り越えていくことは絶対にしないのです。
 どんなに立派な何かをしたところで、最後にそれでは…と思いますね。

 でも、社会では優等生な人によくいるのです。
 諦めてもらいたいのです。

 期待させるようなことばかり言って、ちやほやされたい。
 でも自信はないから、現実からは逃げる。

 よくいます。褒められたいだけ。でも現実は乗り越える勇気がない。
 今とても多いのです。

 僕のかつての彼女もそうなりましたが、一年くらいで復帰させました。
 それ以降は、昔のようなことはありません。

 普通、迷惑をかけるならば自分が悪者になって当然、と思いますね。

 でも自分が悪者にだけはなりたくないのです。
 仏教で言うならば、極楽が遠い人ですね。

 そんな「俺は悪くない!」の人を疑いまくりの人に、存在を無視されて孤独になる妻も多くいます。

 どういうことですか?!

 是非、どんな会話が成されるのか聞きたいところです。
 教えてくださる方は、会話の流れを目安箱に送ってください。参考にさせていただきます。

 僕は今日もびっくりな一日でした。

 僕も鍛えなくてはなりませんね。体験がないことはわかりません。
 全く知らない、ということがあります。

 自分がやらないことです。

 正直、夫婦問題の話を聞いていても、僕が想像しているものはもっと良いものだと思います。
 親子関係ならばどうしようもないレベルのものがわかりますが、恋愛関係は自分が作りますから親は関係ないですしね。

 夫は妻に「俺はうまくやっていこうとしているんだ、なのにお前は…」と言います。

 うまくやっていきたい人の言う事ではありません。

 妻自身も大事にされたことがないと、わからないのです。

 愛された経験がない人は、その扱いのレベルが低いことがわからないのです。

 何を言ったか、どっちが正しいか、の論争になります。

 「いや、そこはもう問題ですらないと思うけど…」

 そんな会話なのです。

 態度です。

 態度がおかしいのです。

 怒っていても、不満を述べていても、その態度です。

 良いことを言っていてもです。

 「こんなに私のことを考えているんだ…!」

 と感じますか。

 そこです。

 愛されていれば、何があっても不満は言われても、相手の態度が変わりません。

 欲求不満で生きる人は、不満があると態度が変わります。
 仏頂面になります。

 ストレートに表現しないのです。

 ある奥さんは、イライラするそうです。

 ある奥さんは、イライラして一年に一度は長文の手紙を送りつけるそうです。

 言葉だけの世界で作る良い家族に生きる人がいます。

 心理的には完全に破綻しているが、形だけは良く見せている家族です。

 誰も相手を見ていませんが、理屈だけは作れるように、形だけはうまくやり取りするのです。

 我慢我慢です。
 態度が嫌、言ってることが変わる、何があっても、我慢です。
 みんなで我慢です。

 そんな理想の家族です。

 理想の家族なんて存在しません。
 愛し合っていたら理想の家族です。

 どんな形か、何を言うかやるか、そんなものはそれぞれ違う成功の形があります。

 お手本にある理想の形を我慢して作ることにしたので、心理的には我慢している家族。

 良いことばかり言い合いますが、本音ではありません。
 心は籠っていません。

 だから欲求不満なのです。

 起きていることが起きているとわかるやり取りがないのです。

 頭がおかしくなりそうですね。

 妻が出て行く事件か多発しています。

 夫が追い出される事件も多発しています。

 困ったものです。

 夫は妻の言うなりです。別に優しいわけではありません。
 「出て行けと言われたから出て行った」
 これで妻は憤慨です。

 「お前が勝手に出て行ったから俺は待っていた。」
 これを優しさのように言われます。

 愛されていると信じられないのです。
 しかし
 「俺は離婚する気はないし、仲良くしようと思ってる。」
 と言われるのです。

 「話にならない!」
 とある妻は憤慨します。

 僕はこんなレベルのやり取りがあちこちで起きているのかと思うと、気が遠くなります。

 僕の想像ではこうです。

 妻が出て行きました。
 当然探します。
 そして見つけます。
 どうして出て行ったんだ!心配するだろ!
 とは怒るかもしれません。
 ちゃんと話をしよう、家に帰ろう、と取り合えず妻なので抱きしめるでしょう。
 気付かなくてごめんな、と謝って、頭をなでて頬ずりくらいはするでしょう。
 妻ですからね。

 出て行かれたらそうなりますね。

 出て行けは、出て行かないですね。
 その場で話を聞きますね。

 この想像は、僕がうまく行った恋愛で想像しています。
 結婚はうまく行った恋愛の先にあるものなので、それで想像しています。

 ただし、妻である人は夫を疑って出て行くにしても、他の人はどうか?と関係ない人を相手に確認しないように。
 それまでの経緯があって、出て行くが発生したのですから、そこだけ切り取ったら意味はありません。

 何もかも、体験が全てです。
 言っていることは関係ありません。

 気持ちがあれば、「気持ちがあるんだな」とわかる行動しかしません。

 恋愛や結婚で失敗する人は、前回の持越しをして前回の話をしてその続きから次の恋愛を始めます。
 それは確実に失敗に繋がりますから、よろしくないです。

 妻がイライラする夫は、失敗が認められない夫です。
 弱いのは夫の方なのです。

 今更何をしても結果は変わらないのに、今から「じゃあこうする」と変わろうとします。
 「これでいい?」と後から変わっても意味はないのに、そもそも変わってもいないし実在の自分は過去にいたのに、過去の失敗を今から帳消しにしたいのです。

 見捨てられ不安の夫ですが、自覚は難しいでしょう。

 妻はそんなことは求めていません。

 どんな気持ちか理解して欲しいだけです。

 僕は前回付き合った彼氏や夫にそうされた時にどんな気持ちだったかわかって、と求めてくる女子によく出会いましたが、それも無駄なことです。
 それは前回の彼氏や夫にお願いすることです。関係ない人にはできません。

 似たような人格になっていますね。
 人は過去を処理しないと、自分がされて処理できていない体験をそっくり次の相手にやり返します。

 気持ちをわかって!
 というつもりで、自分がされて嫌だったことを次の相手にします。
 自分は「これでわかってもらえた」という気分になりますが、相手は過去の自分になるだけです。
 これを繰り返すことで、後ろ向きな人は増殖します。

 ちなみに、親もこれをやっています。
 されて嫌だったことは、その時に処理して次に持ち越さないように。
 次に出会った相手を無駄にしますからね。出会いはいつもゼロからスタートですよ。

 「夫は私に警戒していると気づいた」

 そんな話を聞き、それはそうであろうと思いました。

 自分を装っている人は、自分自身が隠そうとするのでその動機が強化されていきます。
 自分では嫌われると思うから「良く見せる」が始まるのです。

 妻が何か気持ちを伝えようとするたびに「俺に何かを求めている」と勘違いして「じゃあこうする」が始まります。それを繰り返す度に、妻が自分を嫌っているとかいう妄想が強くなっていくのです。

 しかしですね。

 結婚してからまだ嫌われるなんて疑っていたら、一生誰のことも信用できませんよ。
 それ以上のゴールはないのですから。

 絶対に未来が確実な保障なんてないですが、それで信じられないならもうどうにもなりません。

 「でも俺に文句言った!」なんて理由で疑っていたら、本当に何も言えません。

 良いことだけ言われたいなら、本当にそう思える人になるしかありません。
 そうでないのが人間なのです。無理なことです。

 どうあっても妻を信用できない夫はいます。

 信用するかしないか、人を信じることも愛することも能力です。

 何があっても愛する力がある人は信じられるし、無い人はどんなに良くしてもらっても、実際に好かれていても、わからないのです。

 疑って疑って、本当に嫌われるまでやり続けるのです。

 「きっと俺は嫌われる」

 無意識にそう信じている人は、必ずそうなるように仕向けていくのです。

 もう愛されて受け入れられていたのに、「証拠は?!」と思ってしまう人は、不幸だなと思います。

 形ある愛などないのに、形あるものを見ては「嫌われた」と思うのです。

 一度も確認しようとしたことがないのです。本当はどうなのか。最初からです。

 きっとこうなのだろう、という感覚です。
 本当は愛された時もあったのに、「愛されているんだ」という実感をその時に体感しなかったのです。

 怖いからです。
 もし嫌われていたら怖いから、確認しない。

 ただ、嫌われないように「良い夫」になっておこう。

 「嫌われたくないから」

 だから、最初から信じてなどいないのです。

 嫌われると信じているから、嫌われない努力をしているのですから。

 愛されていると信じている人は、嫌われないように努力などしなくていいのです。

 愛されていると信じている人は、愛する努力をするだけですから。

 嫌われない努力をした人が相手に与えるものは

 嫌っているだろうという疑いの行為です

 「嫌っているんだろう、嫌っているんだろう」

 と疑う行為を繰り返せば、そのうち本当に嫌われるようになるのです。

 信じた通りに、現実は動いていくのです。

 しかし、そんなことより傷ついた妻の心より、文句を言われて傷ついた自分のことで頭がいっぱいなのです。

 心の中に、妻なんか存在しない。

 自分が正しいならば、全て解決なのです。

 愛し合うために欲しかったのではなく、形を作るための道具だったのだなと残念になりますね。