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やっぱりどうでもいいニュースだった

 先日アップしたどうでもいいニュースの続き。吉本の騒動だ。

 真実がわかるのはやはり「実際に人を見て」だなあと思った。

 僕は今の大阪についてどのくらい心理的に問題が悪化しているのかはわからないが、ここ十年程度に出会う大阪の若い人たちを見ていると相当変わったなと思っている。

 大阪でさえ「きちんとやってます!」「良い子にしてます!」が大事になってきているのか…と思っていた。

 結論から言うと、親子喧嘩みたいなものなんだなと。心理的には。

 会社組織だから!と軍隊みたいなものを最近は求めるが、そんなことでやっていけない。

 若い人たちの方が、ビビっている。
 ビビっているから、悪い方に悪い方に考える。

 「きちんとわかってもらわないと」と焦る気持ちがすごいんだなあと思った。

 社会が許してくれない感が、ひしひしと感じられる。

 責められることを異様に恐れている。

 だが、先日動画でも言ったが、真実なんて体験した人たちにしかわからないのでどうでもいい。

 ひとつ間違っているなと社長の会見を見ていて思ったのだが、「相手がそう感じたのならそうだ。」という点だ。

 受け取り手に合わせて現実は作られるならば、誰も自分の意見を言わない世の中になるだろう。

 どっちもおかしい。

 バカなの?と思う。

 事実、どういうつもりで言ったのかの方が重要なんだよ。
 解釈はその人の人格を通して行われるんだから。

 解釈する方に合わせていたら、現実に出てこられない。

 安心なんてすることはない。

 劣等感を抱えた人が、自分の感じ方に合わせて現実がその通りだったことにしていれば、誰が何をしてくれても謝っても、何も変わらないどころかどんどん苦しくなる。

 なんか、情けねえなと思った。

 可哀想にと思う。
 あんなに精神弱いままだと、大人になって辛い。

 責められたくない精神を持ったまま、目立つことを選んだら辛くてしょうがない。

 責められたくない人は、優越しようとしない。
 つまり有能であろうとか、優秀であろうとか、人より良い子になろうとかすれば、当然責められることも多くなる。

 責任をより多く抱えるからだ。

 「僕は〇〇ができます!」と有能さをアピールすれば、何かを任されることも多くなるだろうが、その分期待がかけられているのだから他の人なら許されることも許されなくなってくる。

 それが賛辞される立場に課せられるリスクだ。

 つまんない争い、と思った。

 最初から内容がつまんない問題は、どこまで行ってもつまらんものだ。

 夫婦喧嘩は犬も食わないというように、そこだけでやっていた方がいい問題なのだなと思った。

 こんなものを流しているうちに、参院選は終わった。

 山本太郎、あれほど男気溢れる賢い男はなかなかいない、と僕はそちらに関心を向けつつ、僕のやるべきことをやる。

 皆も自分の生活、家族をまず大切にして、他人のことはどうでもいいので自分自身の人生を大切にしてほしい。

 自分自身の人生とは、他人が一切登場しない、ただ自分が何をしてきたかの人生のことなので、誤解なきよう。