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一縷の望みを託している

 僕の書く内容は、簡単なときはよくある話であり、心理的側面から考えれば耳の痛い人も多いだろう。

 だが社会的なことを絡めていくと、また仏教のこと、直接的でない話を書いていくと、その内容は難しく、遠い世界のことのように思えるだろう。

 おそらくは、大多数の人にとってそうなのだろう。

 加藤諦三先生の、2008年最終講義の映像が、YouTubeにアップされている。

 彼は、「非社会的心理的引きこもり」という表現を用い、反社会的ではないが人と心から関わることをしない非社会的人間たちによって、この日本は駄目になっていっていると話していた。

 ここまでズバリ言ったか…。

 僕は彼がこの最終講義にどれほどの魂を込めたのか想像すると、胸の痛む思いであった。

 社会に関わっているようでいて、人とは関われていない。
 それがなぜ「この日本を駄目にしていくのか」は、なかなか理解できないのだろう。
 ちゃんと言うことを聞いているから「悪くない」と思う人が多い。

 つまり、根拠なく最初から「悪い」と思っているわけであり、だからこそ「悪くない」と言われるために生きているのだ。

 僕はあれこれと、理解の難しいことを書く。
 その内容がなんなのか、馬鹿な話にも聞こえるだろうし、意味不明な妄想のようにも聞こえるだろうし、悪質な見方をする人には、人生をかけて神経症の人に嫌がらせをするために、この仕事をしていると思えるらしい。

 そんな暇な人間がいるのかと思うが、つまりそこまで自分のために何かをみんながしていると思えるのだ。
 「自分に対して何かをするためにみんなが生きている」と思うのがナルシストだからだ。
 自分が反応したものは、すべて自分を狙ってやっている。

 「みんなが自分を狙ってる」

 と思う。被害妄想の激しい人なのだ。
 そんな暇人がいるかと思うが、誰からも知られていない自分が、最初からみんなに知られている存在だと「本当に思い込めている」のだ。

 そんなわけないよ。がまともな思考だ。
 だが、自分がそう思ったのだから、そのためにやっているに違いない。
 私が嫌だと思ったのだから、私に嫌がらせをするために違いない。

 この世のすべては私が決める。
 私がどう思うかが人間たちが何をしたがっているかなのだ。

 と思っている人間が、大多数であるこの日本社会だ。

 どうなるだろうか?

 「俺だけが」「私だけが」が山ほどいるということだ。

 表面では口にしない。
 だが、何も言わない同僚、友人、みな心の中では自分と似たようなことを思っているのだ。
 もちろん表面では「いい人にしなくてはならない」から、決められたとおりの行動を取る。だからそれぞれが気づかない。

 自分も相手と同じに見えているというのに、自分だけはと全員が考えている状態なのだ。

 この状態で、「他人が存在していることすら気づいていない」と言われるのは当然なのだ。
 互いに相手のことなど一切想像しないから、互いに「相手は平気」「自分だけが思ってる」と思い込んでいるのだ。

 心の中では似たり寄ったり。表面上も似たり寄ったり。
 このナルシシズムの集団化により、日本社会は危機である。

 僕は難しいと思われる問題について書くとき、一縷の望みを託している。

 僕の時と同じように。

 どういうことだ?と真剣に考える、人より思考能力が高い人の目に留まらないかと期待している。

 一人気づく、理解することは、千人の価値より高い。

 そしてそうした人は「社会からはみ出ているまたは落ちこぼれている可能性の方が高い」ので、僕は今もここで書いている。

 大多数が、超富裕層の味方になってしまった。
 この日本は、昔と変わらない。
 独立運動で立ち上がった国ではない。

 今も、従順に言うことを聞くのみ。
 自分で成し遂げるより、人に褒められることにこそ価値を感じる。

 一人で何かができるより、自分の期待に応えるより、他人にちやほやされることの方がよほどうれしいのだ。

 自分の価値は他人の反応が決めるから、人目を気にせずにいられない。

 「他人を人間扱いしていない」

 そのような人は、馬鹿にすることだけではなく「偉い人は自分とは違う」と考える。

 全員人間だ。

 自分自身が、ひょんなことで権力や金を手に入れたら、黙っていれば、隠していれば、自分は得することができるとしたら…。

 そんな時に「もしそうだったら」と実際にはないから安心して想像するようなことが、現実に起きているだけなのだ。

 

 全員人間だ。

 全員が、ただの人間なのだ。

 

 全員、たかが人間なのだ。