まだ見ぬ友人へ

慈悲 ~人間であるにも拘わらず~

まだ見ぬ友人へ

 君は僕をどう思うか知らないが、僕も時々は友人に相談する。

 相談とは、相手に救いを求めるものではない。
 自分を救うのは自分だけだ。

 自分を救わねばならないので、そのために意見を聞く。
 「今これこれな事情で、僕はこのように思うのだが、お前はどう思う?」
 これが相談だ。そして
 「これこれのために、このように力を貸してもらいたいのだが?お願いできるだろうか?」
 これが協力のお願いだ。

 あくまでも、自分の問題は自分で解決することが前提だ。
 それで友人とも友人でい続けられる。

 僕は正直、己の考えが甘かったと思っている。

 僕は他の人が思うより無慈悲であることを知らなかった。

 人間を受け入れることを拒否しているのだ。
 自分を「人間だ」と受け入れていないから。

 愛ある親は、我が子が悪いことをしてしまうとこう思う。
 「うちの良い子がこんな悪いことをしてしまうなんて!一体何があったんだ!」

 「私たちの子」は「良い子」に決まっている。
 自分の子は自分たちにとってはいつだって「良い子」である。
 愛し合う夫婦にとって、我が子は存在そのものが「良い」ものなのだ。

 それが、受け入れられてきた子というものだ。

 ところが、人間を拒否する親はこうだ。
 「この子がこんな悪い子だったなんて!知らなかった!」
 そしてこうなる。
 「こんな子に育てた覚えはありません。」

 良いことをすれば良い子。悪いことをしたら悪い子として拒絶される。
 それが「人間であることを許されない子」だ。

 僕の相談相手は、かつて付き合っていた人が多い。
 縁を続けることができる人は非常に少ない。
 思い通りになっていたら付き合い続け、そうでなくなったらいらない、という人が多いからだ。人間であることを受け入れない。

 かつてのストーカー女子はだいぶマシになった。
 僕を少しでも受け入れたからだ。
 人を受け入れるには、自分を受け入れねばならない。
 思い通りにならない僕を、思い通りにしようとしなくなった。
 つまり、思い通りにならない僕のままで付き合いを続けている。だから関係が続いている。何かいいことをしてくれるわけでもないが、協力はしてくれる。
 それが友人だ。最低限必要なことはそれだ。

 何もしなくてもしてもらえなくても平気。
 散々しつこくしてきた時期があったが、彼女は「この人は自由を奪われたくないだけなんだ」と気づいたと言う。
 だから僕に何か期待して親切にすることもない。
 すると大層何もしなくなったが、別に何もしてくれなくても関係は続く。
 そもそも、友人にそんな大それた要求を持っていない。

 普通に、当たり前のことでいい。
 特別に何か必要とはしていない。

 特別何か求めない、してこない。
 そういう人の方が少ないのだから、特別でない人が特別になるのだ。

 彼女は付き合いが長いので、少なくとも僕をそれなりに知ってはいる。
 そして僕は彼女に「僕は誤解していたのだ。」という話をした。

 僕も確かにお前のようにすごい人に出会うことがあるし、ここまで迷惑をかけていなくなるとはと思える人には何度も出会っている。だが、それにしても「悪いことをした人」に対して、何か僕とはだいぶみな違う対応をするらしい。

 自分がやらないことは発想できないから、どうにも思いつくことさえできない。

 基本、人を憎む人は人に話す時に自分がしたことを言わない。
 正確に言わない。それでは正確な判断ができないが、それはそれ、心理の問題だから認識の世界について話しているのでまた別だ。

 それにしても、僕自身がやらないことは思いもつかない。

 かつてのストーカー女子としても、当時は僕が最後に怒り狂うようなことを期待していただろう。
 公家の娘はそうだった。そういうタイプはいる。
 大人しそうに見えるのだが、そのパターンは決まっている。

 「自分はものすごく綺麗な人間だ」と思っている。

 つまり、喜怒哀楽がない。
 最終的に、自分が自分の中から排除したいものを相手に投影して切り捨てる。

 この繰り返しをする。

 人間が人間を排除するのだ。

 人は都合よく「自分にはあんな部分はない」と思いたがる。それが傲慢だ。

 人間であるにも拘わらず。

 僕は自分を理想化してくる人に出会うと、「俺はそんないい人間じゃない。最低な男だ。」と繰り返す。

 かつてのストーカー女子がまともになったのは、ここを理解したからだ。
 「過去の私ほどのことをされたら、さすがに雄基でも殴りたくなる。」

 実際ぶん殴ったことはない。
 頬を叩いたことは数回ある。
 あまりにも口汚い呪いを吐いていたからだ。
 「そんなことを言っていると、心が悪魔になるぞ!」
 と泣いて引っぱたいたことがある。

 恨み憎しみで言葉を吐くなど、恐ろしい。
 思ってもいないことを言い続ければ、悪魔に魂を乗っ取られてしまう。

 メンズの相談を聞いていると、「それはさすがに殴りたくもなる。」という話を聞く。
 だが、もしそんなことをしたら自分の方が罪になるからダメだよ、と話す。

 ダメだと止めたのに…と、止まらずに人を攻撃してまんまと排除されてしまった人のことを思い出す。

 まあ、人は本人が決めた通りにしか動かない。

 人には善も悪も、あらゆる感情が発生する。
 それを「ある」と受け入れている人が、バランスを保っている人だ。

 「ない」と思い込んでいる人は、バランスを保てない。

 「ある」と自覚できる人は、行動に移さない。
 「ない」と思い込んでいる人は、代わりに他人を排除する。

 「何をしても怒らない人が好き」と言う人がいる。
 そんな人はいない。人間ではない。だが、そんなことを言いだす人は、本人が怒りを我慢する。その分、人を悪者にするといういじめをする。

 わからないではない。完璧を求める人は「私は我慢するから、あなたも我慢して」になるのだ。だが、それでは泥沼のいじめ合いになることは必然だ。

 怒れないのは愛がないからなのだ。

 味方同士であれば、怒っても平気だ。
 昔恋人によく叱られたし、彼女は怒ることもよくあった。

 「そんなのダメよ!」と叱られた。
 「どうしてわかってくれないの?!」と怒った。
 だが、味方だから平気なのだ。恋人同士なのだから。
 僕の行動の何かについて怒る。僕は理由を説明するが彼女はそれを受け入れない。
 「あなたのことが好きだから不安になっちゃうの!私のこと好きじゃないの?!」
 と彼女は泣きそうになりながら言う。
 そして僕は
 「そんなわけあるか!」
と即否定し「すまなかった。どうして欲しい?」と聞く。
 そこで折り合いのつく解決策を二人で見出す。
 喧嘩をすれば愛は更に深まる。

 それが当たり前だと僕は思っていた。
 だから意味がわからない女がいる、と思ったのだ。

 喧嘩を売ってくる。
 「私のこと嫌いなんだよね?」
 「どうせ他の人の方がいいんだよね?」
 嫌なことを嫌だと言うと「それはあなたの方でしょ!」と更に喧嘩を売る。

 こういう人が「好きです!」と言ってやってくる。
 僕は起きていることをそのままに理解するので、「いじめられそうな男を探して彷徨っている女」だと思った。

 味方同士は愛し合っている。だから怒ってもそこには愛がある。

 敵同士は普段からいがみ合っている。
 スパイ同士は味方のふりをして敵であると隠しているわけだから、怒りを出すと戦いになる。

 スパイ女子は、気に入らないところがあると疑う。
 そして僕のことを「悪い人」「嫌な人」と決めつけ、改善させようとする。
 「悪いところを直して良い人間にしよう」としてくる。

 つまり、「悪いところがあったら許さない」人だ。
 そしてその悪いところは誰が決めるのかと言えば、相手なのだ。

 自分で自分の良し悪しを決めてはならない、他人が自分のことを決めるものだ、と彼女たちは思っていた。
 「相手に気に入られるために、自分を変えるのが愛」だからだ。

 それを愛し合える人は愛と呼ばない。
 愛はただ与え、受け入れるものだ。

 そして相手が味方だから、素直になるものだ。

 自分はそれができないけど、あなたはやって!と求めたら、愛ある人がただいじめられるだけになる。
 だが、実際には愛ある人はいじめられ続けない。

 道理の通った人は、二重束縛の矛盾につかまらない。
 矛盾した行動を取らないからだ。

 だからまず自分の矛盾を正すことなのだ。
 自分が矛盾したまま誰に出会っても、相手を縋りどころにするだけだ。

 他人のAさんと他人のBさんを見て
 「Aさんは悪い人、でもBさんは良い人」
 と二者を比較する。
 これが毒親のやっている「比較してくる」だ。
 そして、両者に対して自分がどうあるかではなく、Aさんを良い人にしようとしたり、または良い人にならないと排除する。勿論、Aさんは悪者だ。
 そして比較対象として、Bさんに完璧な理想を求める。
 しかしこの関係性において、かつてはAさんも理想の人として扱われたのだが、関係性が進むと矛盾した関係に陥り、新たにBさんを理想の対象にする、とう繰り返しを行う場合が殆どだ。

 その「悪いAさん」は、親からスタートしている。
 だから永遠に終わらないのだ。

 僕はこの関係性において「理想の対象Bさん」にされることが多い。
 「僕はそんなに良い人じゃない」と自己申告しても、「そんなことはない」と決めつけられる。
 そうでなくてはならないのだ。僕は理想の人でなくてはならない。

 だから嫌なのだ。

 僕は人間だ。至って普通だ。

 僕は優等生であり、不良でもあった。
 若い頃は血を見る喧嘩もした。決して自分から殴りかかることはなく正当防衛しかしないが、それでも相手にケガをさせたこともあった。
 本当にまだ若い頃だ。そういう経験は若い頃にした方がいい。
 小競り合いで済むうちに、程度をわきまえられるようになった方がいい。
 子供同士で喧嘩して、段々程度をわきまえていくのだから。

 僕は仲間の中では「口から毒を吐く」と言われたほど、口から出てくる言葉は辛辣だった。僕は頭脳で戦う方なので、乱暴は好きではない。何よりも疲れる。
 相棒が猪突猛進タイプだったので、二人でバランスを取っていた。

 そんな経験があり、僕は社会では劣等の位置にいる人たちが結構好きだ。

 彼らは早くに「自分たちには無理」と諦めたが、劣等感は持つものの、競争社会からはみ出してしまった故に仲間意識が強いところがある。
 案外みな優しい。決して表面上で見えるような人柄とは限らないのだ。

 みな人間だ。

 そしてただ人間であることが、最も難しいのだ。

 当たり前に人間であるということを受け入れて、傲慢さはそぎ落とされ、謙虚になれる。

 人は外側に嫌なものを見ると「自分はあれとは違う!」と思いたがる。
 嫌悪したからだ。
 僕も昔母に対して思った。
 だが、嫌悪すればするほど自分は母に似てきていて、「結局は親子なんだ」と受け入れざるを得なかった。

 だが、僕は嫌だったから、自分は人に同じことをするのはやめようと思った。

 人は失敗して学ぶのだ。
 だから今の社会のように「絶対に失敗しないように」と育てれば、子供たちはおかしくなっていく。

 子供を受け入れられない親は、「悪いことをしてしまったうちの子」を「悪い子」としてしか見ない。
 「この子はいつだって良い子!」と思えない。
 何をしたって「私たちの子」だから、「私たちだけは」良い子だと思う、それが親の愛だ。他人はその限りではない。他人だから。

 怒り憎しみを我慢し続けた人が、自分でも嫌になるようなことをしてしまうことがある。
 そこで人を憎んだらおしまいなのだ。
 自分にはそのような部分があるのだ、と受け入れることだ。

 自分を知ることで、人間がどのような生き物か知るのだ。

 僕は昔、人に良くしてもらった。
 だから僕は自分がしてもらったように、人が来て安心できる場所を作り続けている。
 僕には居場所がない。
 最初から自分以外いない。だから自分の居場所を居心地よくすることで、僕が昔入り浸らせてもらったように、人を招く。

 僕はそんな場があって、家での苦痛に耐えながら生きられた。
 そこを「僕を救うための場」にはしなかったからこそ、良い関係が続いた。

 そこにいる仲間として、当たり前にいさせてもらった。

 皆と平等に扱われながら。

 そこでもし僕が「自分だけ」をやっていたら、周りに気を使わせていたら、きっとそこでどんなに良くしてもらっても僕は孤独だっただろう。

 母との戦いは親子の戦い。他は関係ない。
 そして家族なのだから、僕は家族として戦うのだ。
 敵ではなく、家族としてだ。

 愛されないから誰も愛さないもんね!

 という意地は、自分にとって損にしかならない。
 どうせ何をしても気に入らない人は気に入らないと言う。人間が気に入らないのだから。

 僕はかつて迫害された。
 だから僕はどんな人間を見ても、その行いが悪いものであっても、人間そのものを悪として排除する人になりたくはない。

 だからこそ、人に嫌悪するたびに「自分には無いと思いたがっているのだ」と認識する。
 ともすれば、相手の状況になれば、僕も同じになるかもしれない。
 僕も人間だから。
 そして僕は僕ができることをするのだ。
 「それは外から見たら、こちらから見たら悪事になりますよ。」と。

 相手のことを考えない人は、自分にとってどうかしか考えないから。
 相手の側にはそれがどういう意味に映るか、わからないから。

 だからこそ、「良いこと」ばかりしているつもりで良くないことをし続けている人もいるのだ。自分の側からだけ見ているから。

 人間を受け入れない人は、子供も受け入れない。

 優しく受け入れないか、厳しく受け入れないかの違いはあっても、受け入れはしない。

 人は、自分に都合の悪いことに対して、随分無慈悲なものだ、と思った。

 恨みが溜まるとそうなるのだろう。

 その根源は我慢であり、自己執着だ。

 とはいえ、何も選べる他人とまでみな争わなくても良いのにと思う。
 選んで生きられる時間に争い、憎んでいたら、人生などあっという間に後ろを向いたまま終わりが来るのだ。

 僕は同じ酷い目に会っても、他の人ほど憎しみや怒りを持たない。
 怒りは意志あって出すのだから、相手に許されることを一切考えない。
 後から許してもらえると安心しきって怒りをぶつけるのが「八つ当たり」であり、「いじめ」なのだ。
 嫌がることをしても、許してくれる人が好き。
 嫌がることをしちゃう自分をわかって欲しい。
 何を?
 悪い子じゃないって。

 僕は昔そうした都合のいいことを考えていたが、そんなことは無理だとすぐにわかった。

 相手にとって嬉しくはないとわかることをする時に、相手に好かれたいとは思っていない。

 そんなことは不可能だから。

 僕が人を排除せずに済んできたのは、自分がそんなにいい人間じゃないとわかっているからだ。
 そんなに美しいものばかり発生しない。
 チラッとでも、何か欲や、執着の感情が出てくる。

 それにすぐ気づいて、戒めているだけだ。
 そしてそれは僕がやりたくてやっているだけで、他人が何をしていても気にはしない。僕に関わりなないから。

 何かしてもらいたいから、相手にああなってこうなってと言うのが子供であり、何かしてあげなくてはならないから、こうしなさい、ああしなさい、と指導するのが親だ。

 そして他人には義務がないから、そのどちらも存在しないのだ。

 「反時計回り」

 ランガー教授の著書のタイトルを知り、

 「この時間軸を逆に向いているという事実は、人類が乗り越えねばならない課題なのだ。」

 と改めて事の大きさを痛感した。

 今、書いているものがある。
 準備しているものがあるから、君よ、いましばし待たれい。

最上 雄基