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世界を知っているかは、大きな違いになる

 世界を知っているかどうかは、生きる上で大きな違いになるだろう。

 例えば、僕たちは日本の財閥は解体したと思っている。なぜならば教科書にそう書いてあるからだ。

 だが、実際には街中を見ても買い物をしても、三菱、安田と財閥の名はいくらでも目に入る。

 「財閥は解体した」と言われたから、解体したんだ、と思っているが、現実には何も解体していない。

 人間は情報の世界に生きている。認識の世界は情報から作られる。

 情報と実際の体験、どちらを優先して認識の世界を作っているかは、生きる上で大きな違いになる。

 心理的に健康な人は現実を直視しやすい。

 自己実現している人は、現実を直視している。故に、殆どの人より厳しいことを言っているように聞こえるが、現実はそのくらい厳しいということだ。

 現実と認識の一致度が高ければ、当然現実におかしいと思えることは少なくなる。

 「財閥は解体したが、その名はよく見るから昔の財閥の名残だ」と思う人は多いだろう。

 だが、現実には「財閥」という名を無くしたが、存在そのものはそのまま残っている、が正しい。

 ナッツ姫、のことで話題になった韓国財閥について、多くの日本人は「韓国は財閥が国を仕切っている」と思ったかもしれない。実際、韓国の人々はその存在に世界を左右されている。だが日本はどうだろうか?

 よくよく調べていけば、「え!この企業もなの?」と驚くほど、根っこのところで繋がっているのが財閥だ。

 「忖度」が話題になり、「こんなことをしているなんて!」と批難する人はいるだろうが、そもそも今までそれが無かったと思い込んでいるから、猛烈に批難したくなるのだ。

 最初からそういうものだ、と思っていれば、驚きはしない。

 そして表面で叩けば叩くほど、一般の目に入らないよう「工夫」が成されるだけであるのは、これまでも同様だ。

 「いけないんだぞ!」と叩けば直してくれると思い込む。正にナルシスト、神経症的発想だ。

 「いけないんだぞ!」と猛烈に叩けば、新たに策を考えるだろう。

 そんなことよりも、我々が現実に何が起きているのか把握して生きていることの方が重要だ。

 本当のことは教えてもらえないから、自分で考えるものなのだ、という当然の事実を学ばねばならない。

 

 明治維新は嘘だった、と聞けば、どう思うだろうか?

 僕たちが学んできた歴史には嘘が多い。

 だがそれも、勝てば官軍と言われるように、歴史とは勝者の歴史なのだ。

 僕たちは多くのメディアから歴史を知った気になる。

 脳内に訴えてくる感情的な盛り上がりが、あたかもそれが真実であったかのように思わせてくる。

 奥ゆかしい女性や、処女の価値などというものは明治以降に入ってきた考え方であって、それ以前の日本には「それこそ最高」という概念はなかった。

 全て異国の思想だ。

 恥の概念が日本とは違う。僕たちには無い思想が入ってきた。

 明日の講座、一時間目で説明する内容には、廃仏毀釈が入っている。

 もし、この150年が嘘だと言われても、もし何かの本でそれを読んでも、まず信じないのではないだろうか?

 なぜならば、歴史にまつわる「~は存在しなかった!」「本当の~!」のような本は沢山出ているからだ。

 まず自分には関係のない、趣味の範囲の話だと思うのではないだろうか?

 だが、僕はこれについて現実の体験から疑問を持ち、実際に聞き、見てきたことから調べだしたどり着いた。

 疑う余地もないと言いきれるのは、実際に僕自身が古い家の人間だからだろう。記憶を遡り、せめて戦前あたりまでの何かが無いものかと家を探した。

 僕自身、一応心理の専門家をしている。故に、代々を遡りその人格や行動の内容から、社会の動きを分析した。

 そして何よりも今。ここにある現実である。

 

 もし、自分たちが正しいと思い込んできたことが、全部嘘でしたとなったらどう思うだろうか?

 これまで「良い」と思って信じていたことが、作られたことであり、「いつまでやったらいいの」どころか、そんなことはしなくてもいい上に、すればするほど自分の首を絞めるようなことであったならば。

 大勢が言えば、それが正しいと思うのはなぜだろうか?

 日本人にはステレオタイプは多い。だがそれらの思考は殆どメディアから来ており、全体に流せば全体がそう言いだすことは当然の結果だ。別に体験して考えて、自分として結論を出したわけでなくとも。

 持ってもいない、経験もしていない、そして結果良いと体験したわけでもない。

 それでも「これがいいと思う!」と堂々と言う。

 なぜか?

 このように、メディアの力で存在しないものが存在すると思わせて、存在しない世界を思うように生きさせることは、一般的に「洗脳」と呼ぶ。

 実際に会ったこともない誰かを憎ませることもできるし、実際に危害を加えられたことのない人に攻撃もさせられる。

 その反動として返ってくる波は、当然実行した本人に向かう。

 操作した人には何も返ってこない。なぜならば、強制したわけではないから。やったのはその人だから。言った人ではなくやった人の責任だ。

 本人が勝手に思い込んでやったことだから、やった本人の責任だ。何かを理由にはできない。言ったのもやったのも本人だ。

 我慢して良いことを続けていたら、体験しているのは苦痛である。

 だが苦痛を選んで我慢していると、「安心する」という現象が起きる。

 「~せねばならない」という恐怖や不安を植え付けるだけで良い。

 それにより、やりたいことも親しい人も顧みず、何かわからないものに従順に従う奴隷が生まれることだろう。

 「ねばならない」の奴隷となった人は、不安から強烈に従属する。

 従属することに安心や力を感じ、我慢して従った自分は誰かに言うことを聞かせて良いのだとすら錯覚する。

 従わない人間は、罰して良いと思い込む。

 そして大切な人、知らない人、自分にとって害のない人に平気で攻撃できるだけの苛烈な兵士が生まれる。

 恐れから来る不安感は、強い攻撃性に置き換えられる。

 沖縄戦に少年兵として徴兵された老人は、「死ぬのは怖くなかった」と話す。

 ただ、その状態が早く終わって欲しいとだけ思っていたのだと言う。

 「はやく終わってくれ」

 それは、「我慢して言うことを聞かねばならない」と思い込んでいる人たちも同じだ。

 言うことは聞かなくていい。我慢もしなくていい。

 しなくても何も起きないが、そうしなくては何かが起きると思い込んでいるだけなのだ。

 この150年で、日本人の多くが自分のアイデンティティを失った。

 自分がどこの誰なのかわからなくなったら、何をしていればいいのかもわからない。

 どこに行けばいいのかもわからないから、「どうしたらいいの?」と人に聞き始める。

 そして、大勢が向かう方に行けば、大丈夫に「違いない」と思う。

 どこに行くのかは知らないが、「こっちに行けばいい」と言われるから、「そうなんだ」と思って進む。

 その先に何があるのかは知らないが、そうすれば大丈夫だと「言われた」から「そうなのだな」と思う。

 体験から来た決断ではない。だから常に不安は付きまとっている。

 

 この状態に全体を陥らせるまで、かなりの期間がかかっている。

 元々が九割農民層の国だ。政治については誰も考えたことがない。

 そういうことは「偉い人たちがしてくれる」と思っていた人たちが殆どなのだ。参政権を与えられても、どうしたらいいのかわからない。

 そして「どうしたらいいの?」が始まり、よくわからないがぞろぞろと選挙に向かうという構図が生まれた。明治時代の話であるが、今もほとんど変わってはいない。

 

 アメリカは、沖縄の捕虜たちに教育を施すプログラムを作っていた。

 「彼らは将来アメリカ兵を守ってくれるのだから、今の投資はアメリカのためなのだ」と母国アメリカでのプロパガンダで放送している。

 そしてGHQも日本人の教育を施した。

 以前より、言いづらい言いづらいと言いつつ、講座で「日本は敗戦国だということを、忘れている」と言ったことがある。

 アメリカは敗戦国だったドイツに、多額の賠償金を請求した国である。戦争商人がいる。

 そのアメリカに負けて、日本が解放されて平和にしてもらえたかのように「思い込んでいる」ところがもうおかしい。

 資本主義とカトリックの教えこそが日本を救うなど、日本人側が思うことではない。

 日本人の「被害に遭いながら謝る卑屈な姿勢」は敗戦から始まったものだと僕は考えている。

 原爆を落とされて被害に遭ったのは日本なのに、自分たちが過ちを二度と起こさないなどという決意を碑に残す。おかしな話だ。

 母国は日本のはずなのに、日本の一部の人々のせいだったということにして、アメリカは良い国だ、彼らはいい人だというイメージを「持たされている」のだ。

 別に僕はアメリカが嫌いなわけではないし、ことアメリカ人は結構好きだ。僕の相棒も今はアメリカにいる。

 だが別に中国も嫌いではないし、韓国も嫌いではない。どちらの友人もいる。

 アメリカが今叩いているメキシコにも友人がいるし、どの国の人にも僕は何もされていないから嫌いにはならない。

 僕が言いたいのは、「自分たちの持つイメージがどこから来たのか」を知っているかどうかという話だ。

 実際の体験に基づいたイメージは現実をおかしくしない。

 「何々でなくてはならない」の通りに生きている人は、自分がそれを守っているのに守ってくれない人がおかしいのだと思い込む。

 だが、そうしない人が存在している時点で、別にしなくてもいいんだ、という認識が正しい。

 ねばならない、はそうでなくてはならないという意味だ。

 そうでなくても平気だから、そうでない人がいるのだ。

 それなのに、我慢している人は自分が何かに怯えているから、現実を見て自分の勘違いを解くことなく、やっていない人に強要するという真似をする。

 

 これを諸所で勝手に行ってくれれば、同じ思想が広がっていくだろう。別にやりたいわけでなくともだ。

 やりたくてやっているわけではないから、常に「次はどうしたらいいの」という姿勢で生きることになる。つまりは指示待ち人間の群れとなる。

 そしてわからないことがあると、「皆が知っていること」と「すぐに確認できる何か」を探すだろう。だからそのループから脱せないのだ、と気づかないまま。

 

 そもそも明治維新は薩長を中心として行われた。だから今の政府の元は幕府ではない。

 源流をたどれば、何が起きていて今あるものがどうしてそうなっているのかはわかる。

 そしてそれを知らずして、親が自分にした仕打ちさえなぜなのか解き明かしていくことはできないだろう。

 己には成すべきことがあるとわからないだろう。

 親は確かに子を無視していた。だが、それには当然理由がある。

 そして親を奪っていった何かを突き止め、自分が何を成すべきなのか知る必要があるのだ。

 日本人は全体が、生き方を見失った。

 だが、これを「見失った」と呼んでいいものかと疑問に感じる。

 「これで正しい」のではないだろうか?

 勿論僕たちにとってではない。

 生き方を指示したのは、何が正しいかを決めたのは僕たちではない。

 だから僕たちはやはり真面目に従っているから「正しい」のだ。

 このままでいれば、きちんと儲けたい人が儲かるようにできている。

 僕たちは人生を犠牲にし、愛し合うこともせず、誰にも見てもらえないまま「次はどうしたらいいの?」「いつまでやっていればいいの」と言い続けて我慢の努力を続ければいい、というわけだ。

 そして言うことを聞かない人間がいたら、親も教師も知らない他人まで出てきて、叩いて服従させればいいのだ。

 従っている人は、従わない人に言うことを聞かせることで「自分は正しい良いことをした」と満足する。

 そして思う。「これでいいんだよね」と。

 誰か知らない人が指示しているからやったのだから。

 どこで教えられたのかもわからない。なぜ正しいと言われるのかもわからない。

 だが皆が言うからこれでいいんだ。

 という、非常に漠然とした思考。

 

 明日、否、もう今日だが、秋葉原でそのようなことについても触れる。

 だが僕はまず疑問に思う。

 僕は別に優秀で高学歴な人でもないし、立派な家に暮らすお金持ちでもない。

 そして歴史学者でも経済学者でもない。

 僕は生きる上で必要になり、最低限を知っただけだ。

 子供の頃に「もう侍はいない、幕府はもうないのだ」と気づきショックを受けた。

 「なぜ、江戸城が皇居になっているのだ!」と驚いたからだ。

 皇居は江戸城とは違うものだと思っていたのだ。

 なぜだ。

 これからの侍はどうやって生きていけばいいんだ。と悩んだ。

 士族がなくなった時から、恐らく僕の一族は生き方を考えられずにいた。

 同じ教育を続け何も考えずに江戸時代を続けた結果、僕が考え始めるに至った。

 今は理解して納得もしているが、僕はついていけないと思えてよかったのだ。

 ついていけるわけがない。自分に根拠のないものに。

 全てが嫌になるほど繋がっている。

 この謎解きに成功した人は各分野にいるが、それぞれが戦っている。

 

 親を見捨て、従属に徹した人は、いつまで頑張ればいいのかと我慢しながら、「こんなにしてるんだから!」と誰かを奴隷にすることを考えている。

 もっともっと、根本的なことが間違っているのだと気づかないまま。

 

 母を求める子供の愛は、子供の人生を救う。

 自分を見てもらいたいと望む心が強ければ、折れて我慢しない。

 自分を無視する親の行動の裏に続く道に、一体何があるのかを考える。

 「嫌だけど、嫌じゃないふりをする」

 親より先に死んだ子供は、同じことを繰り返す。

 自分を見ずにいる親が、いつになったら自分を見てくれるだろうと期待して。

 「お母さん、どうしてこっちを向いてくれないの?」

 と疑問に思えば、その向こうにあるものを探し始めるだろうに。

 

 うまくできている。本当に。

 小麦を消費しない国に小麦の需要を生むには、給食として強制的に使わせればいい。

 この策を知った時、なんて気の長い、そして周到な計画だろうと思った。

 米なら自力で賄える国。基本が米の国。

 その国にいる「子供たち」をパン食にしてしまえば、それがやめられなくなる。長い長い計画。だが、一国の計画としてはそこまで長くもない。

 どうせ、従わせる国の極一部の話なのだから。

 

 なぜ、教育の残った家の人間はこれを言わない、と思ったが、それもそのはずだ。

 気づけるからどころか、「知っている」からどうという問題ではないのだ。

 権力と金にほど近いところにいればいるほど、自分たちは困らないからどうでもいい。それどころか、このままでいいのだから。

 自分たちさえ良ければ、いいのだから。

 

 そして僕たち底辺の人間は、そのままわからずに生きていけばいい。

 生きていけば、というよりも、既に生きて死んで、人生を終えた人もいるのだから。

 あれから四代目にして、僕は漸く気づいた。

 だからこそ、武士の教育を残し、武士の生き様を残し、そして仏教の教えを残してくれた曽祖父に感謝している。

 150年だ。大した時間ではない。

 自分の家の中でも遡ることは可能だ。随分と歴史をかき消す努力がなされたようだが、文書をどれだけ消しても魂は死なない。

 日本は世界でも類を見ないほど古い歴史がある国だ。継続しているという点において、類を見ない。

 300年も続かない国に何を押し付けられても、簡単に魂は死なない。

 民族意識を消すために何をしても、侍の魂は死なない。

 数百年は続く家が沢山あるのだから。

 

 そして現実を知っても、もう親すらどうでもいいから自分の保身しか考えないと言う人は、ただ知らない何かに従って、「良い子にして助かろう」とするのだろう。

 だから「良い子にして助かる」なんて世界はこの世に無い、と言っても、「じゃあどうしたらいいの」となるのだろう。

 そのくらい、情けないことになっている。

 もうやるしかない。

 もう自分の意志で生きるしかないのだ。

 自分の生まれ育った過去を思い出せば、それらの思い出は全て元を辿ればひとつになっていくのだから。

 「そんなはずない」と言い張って無くなる現実はない。

 そして現実にそうであるから、全部納得がいく結果となっているのだ。

 

 「どうすればいいの」を続け、「なんでこんなことになったんだ」という結果に至る。

 都合の良いことを思い込んで、自分一人安心すればそれが現実になる。

 この世は自分を中心に回っているのだから。

 というナルシストを山ほど作り出したことが、既に彼らの成功なのだ。

 他人を自分だと思い込んでしまう人たちが大勢いてくれるからこそ、メディアで簡単に動かせるのだから。

 いくらでも嘘を信じ込んで。

 安心させてもらうためならば、自分の人格も自由も何もかも捨てる。

 

 親を肯定して嫌だという事実さえ無視した人の家は、そこで魂が絶えるだろう。

 そこが、一族滅亡の日なのだ。

 

 そして人格は他者に取り込まれ。生きた証は消滅する。

 弱肉強食。戦わねば、魂は生き残れないのだ。