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親に存在を無視された人

 親に存在を無視された人は、親にいつまでも見て欲しがるものだ

 今日、生徒にいつも通り色々な話をした

 今日は仏教的な説明をした

 お茶を点てて、「心を鎮める鍛錬」について説明し、その場でどうするものなのか一緒にやってみた

 心は自分の鍛錬によって安定していくものである

 それ以外に方法はない

 親に役目があるように、子にも役目がある

 子は親を超えるという役目がある

 子は親がどうして自分の方を見てくれないのか、精神世界にいる親を発見して親の乗り越えられなかった問題を乗り越えていかねばならない

 親の言っていることを、そのまま言葉通りに受け取っていたらいつまでも親を発見できないだろう

 僕は子供の頃に親を発見した

 精神世界にいる親に気づき、その理由についても気づき、自分は何をすべきか気づいた

 「もっと可愛がって欲しかった、もっと優しくしてほしかった」

 これを諦めていく、この苦を受け入れていくことは、人生を始める第一段階だろう

 その先はまだまだ長い

 もし、子供がいつまでも「親なんだからもっとこうしてよ!」と親と同じことを言っているようならば、親も孤立、子も孤立という状態になるだろう

 親に無関心で、親に愛を求めなかった子

 憎しみと怒りばかりで、親を求めなかった子

 親を好きではなかった子、と言えるだろう

 他人ならば無理だろう

 自分の親だからできることだ

 自分の親だから求められるものだ

 「この人しか自分の親はいない、この人に関心を持ってもらえなかったら、他人は何をしたって見てくれるとは限らないのだ」

 という事実を前に、親の前でふんぞり返ってしまった人は、罰が当たるのだろう

 親より先に死んだ親不孝者とは、そのことを指すからだ

 嫌な目に会うから、子は旅立っていける

 相手が親だから、子供は憎んでも諦めていける

 子供はまだ未来があるから、外の世界にある新しいものに目を向けて、親に背を向け外に手を伸ばして走っていける

 「自分は必要ない存在である」という出発から、脱していない

 「必要なのは自分の方であった」ということに気づいていない

 困ったなあ

 と思った

 他人に特別扱いを求める人は、自分が必要ないという気持ちが強くなるだろう

 必要なのは他人であって、自分ではないのだから

 言っていることと考えていることが逆転しているという事実になぜ気づかないのかはわからないが、とにかく実際と逆のことを言っていることに本人が気づかない

 こんなにも時間がかかるものなのか、と驚くが、長い長い、代々続く話だ

 自分の教室に通う生徒たちは、連続して長く教えられるので僕は助かっている

 こと仏教の説明で済むときは、最も簡単に教えられる

 起きていることを説明するに、こんなに楽な方法はない

 言葉などどれでもいいのだ

 事実は変わらない

 そして目的が果たせればなんでもいい

 今日、生徒と話していて、もう三年になるのか、と振り返った

 みな以前より心穏やかになり、少しずつ苦悩から脱していく

 仏教的な説明をするならば、人はみな菩薩として修業している

 凡夫と呼ばれる時期は、苦悩ばかりで幸せを知らない

 聖者の四界と呼ばれる段階に入り、落ちついた精神で過ごせるようになる

 聖者の段階に入っても、仏の悟りへの道が続く

 そしてこの段階を経ていくことを、心理学では「心理的成長」と呼んでいる

 どう呼んでも起きていることは変わらない

 人は生まれながらに守護仏が決まってる

 僕はそれを子供の頃から知っているが、気付けば確かに、気にもしていないのにいつしか守護する菩薩の誓いは守って生きている

 不思議なものだと思うが、それは不思議ではないのだ

 現実を無視して情報の世界に生きる人には、「社会的に立派な何かの言葉」を使わねば理解されない

 というか、偏見で分類されることだろう

 現にうまくいっていれば良いのではなく、現にうまくいかなくとも情報と言葉の世界で辻褄が合っていればそれでよし、というのが「神経症」と呼ばれる人だからだ

 何も悪くないのに、皆のせいで不幸

 という信じられない現実が脳内の情報世界では成り立つ

 何も悪くない自分になるためだけに、他人とは一切うまくいかない

 言葉でだけ「良いこと」になれば満足という不思議な人になる

 自分なんかそんなに良い人ではないのに、それでも皆が慕ってくれて、愛してくれる人もいて幸せ

 これでは、神経症者的には不幸なのだ

 「そんなに良い人ではない」ならば、好かれようがどうなろうが幸せではないのが神経症だ

 「自我イメージを守る」ことが最優先

 それも他人との比較で自分が決まると思っている

 他人が悪いと言ったら悪いことになるし、だから自分を批難する人がいたらなんとしてでもその人を悪者にしなくては自分が生きていけない

 だから親に反省させるための人生を生きているのだ

 友人との楽しい青春を捨てた

 やりたい遊びも勉強も仕事も全部捨てた

 恋人も結婚も諦めた

 「見返すための形」だけを作り、人生を全部投げ打った

 親に求められた自分になったと思っているのは間違いで、それは自分が求めた親になってもらったことに気づいていない

 親を変えようとした罰なのだろう

 後から生まれた者が、自分を生み出した存在を消そうとした

 つまり自分自身が消えていくことになる

 その存在があったから、自分がいるのだから

 親を消そうとすることは、自分を消そうとする行為だ

 今のところ心理学の中ではそういったことは説明されていないので、僕は自分の生徒たちにだけ「こういうものなんだ」と仏教を用いて教える

 面倒な世の中は、「こうしなくてはならない」が決まっている

 決まっているからそれしかできない

 自由な場では、既に答えがわかっているならば、別の方法を取る

 自分自身が不思議なことを口走っていることに、案外人は気づかない

 「あなたはどうしたい?」と聞かれれば

 「家族仲良くするのが良いことだと思う」と答える

 不可思議だと思えるだろうか?

 意志とはこうだ

 「私は、この夫と仲良くしていきたい」

 「私は、この家族が好きだからいつまでも一緒にいたい」

 家族が仲良くしているのがいいことなのは言うまでもない誰でも知っていることだ

 ただ、そのためには伴侶を心から愛している必要があり

 相手も心から自分を愛している必要がある

 だから家族仲良くするのが良いと思っている人は、手間を惜しまずしっかりと心をつないでから結婚するだろう

 家族仲良く、は結果であって、それに必要な材料がそろうかどうかで「結果そうなるかどうか」が決まるのだから

 そのためには何が必要だろう?と考えるだろう

 そしてそこを目指すならば、ひとつひとつを丁寧に積み上げるだろう

 つまりそうしていない理由は

 「それは目的でもなんでもない」

 ということだ

 長くなりすぎるので、この辺にしておく