無料記事

何として生まれたか、何として生きるか

 目安箱への投稿から、身の回りで起きている人間関係について連続で解説しました。

 結構なショックだと思いますが、ひとつひとつ丁寧に積み上げていないと、いつの間にか思うものとは全く違う世界に生きていることになります。

 何として生まれたかで自分を決める人が多いです。

 親にどんな扱いを受けたかで、自分がなんなのか決めてしまう。つまり親に自分がなんなのか決めてもらっているのです。

 自分が「どんな扱いを受けた」かは親からの扱いで体験するものですが、「自分が何として生きるか」は自分で決めるものです。

 根拠なくではなく、自分のアイデンティティーを確立していきましょう。

 僕は親からは酷い扱いを受け、家畜以下と罵られていました。

 僕自身は、「それはあんたが思うだけ、僕は家畜以下ではない」と思っていました。

 そして、「何として生きるか」は自分で決めました。

 今の日本人は、自分たちのアイデンティティーを失っています。

 それについては長くなるのでここには書きませんが、僕は自分のアイデンティティーをどう生きるべきか考えた時に確認しています。

 自分はどこから来た誰なのか。それを確認しましょう。

 親などたった一代のことです。長い長い流れの中のどこに生まれたのか、後ろを振り返り確認しましょう。

 そしてどうすべきか、どうしたいのか、何として生きたいのか考えていきましょう。

 人生は自分で何として生きるかを「決めて生き始めてから始まる」ものです。

 状況を把握し、この現状の中からスタートするのです。

 どんなに大変でもどんなに理想的でなくとも、今、この現状からスタートするのが人生です。

 何十年経ってもどこから始めるとしても、必ず「この今」から始めるものです。

 投稿してくださった某さんは、悲しいでしょう。

 悲しむことを避け、自分を馬鹿にすることで悲しみを怒りに変えて生きてきたから、今があるのです。

 悲しみは悲しみとして、困難は困難として、ありのまま受け止めて苦しむことで、再生していくでしょう。

 極端に女性らしい人を見ると引け目を感じ、また憧れたのは、「自分自身の中にある女性らしい部分」を否定するからです。

 いけないもののように、恥ずかしいことのように感じ、他人はともかく「自分の中にそれがある」ことを受け入れていません。

 極端に乙女チックな友人より、あなたの方が女らしいんですよ。

 自然なものは自然なまま受け入れて、恥ずかしがらずに自分のものとしていきましょう。