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ナルシストは面白い人

 自分の気に入る気に入らないで考えたら、嫌う人は多くなります。

 ナルシストは面白いと思えば、そういうキャラとして見られます。

 僕が最も面白いなと思うのは、自信過剰なところです。

 自分が満足するために何かをさせるときに、怒りながらさせようとするでしょう?

 自分が望んでいることを、怒ってやらせるんですよ。

 すごくないですか?

 自分の望みを相手が叶えたい、自分が傷ついた、求めているならば、ぜひしたいと思ってくれると確信できているわけですよ。

 羨ましいじゃないですか。

 愛されすぎだと僕は思います。

 逆じゃない?って僕は思うんですよね。

 僕が珍しいのだと言われても、やっぱり自分はこれが当然だと思っていますから、逆じゃない?と思えます。

 「私の納得いく説明をして!」

 と要求する人。つまり自分に納得してもらいたい、あなたにわかってもらいたい、そうでないと辛い、と思われる存在だと思えているんですよ。

 人は相談も人を選んでするでしょう?

 わかってもらいたい人と、そうでない人がいるでしょう?

 押しかけ女房なんて人もいます。

 食事を作ってくれるにしても、誰でもいいわけではないです。

 そこまで好かれている自信がある、それで喜んでもらえる自信がある、それだけの存在に「すでに相手の中でなっている自信がある」からこその行為です。

 こういう時、気を使いますね。

 自分の中で思うより、はるかに相手が自分に愛されていると思われてしまった。

 愛されすぎの人です。

 いとも簡単に人に愛されてこなくては、そんなことは信じられません。

 相手が好意的に何かしてくれても、「まさか自分なんかに」と思ってしまうものです。自信がないならばです。

 「これは私に好意があるのね!」と簡単に思える人は、それだけモテモテの人です。またはどこかで可愛がられまくりの人です。

 そんなに簡単に、特別好意を持たれたと思いませんよ。

 現実に自分がそこまで好意を持たれるほどのことをしていない、そこまでの人間ではない、と思っていればです。

 だから羨ましいですよね。

 僕に好意があるのではなく、僕が相手に好意があると誤解されることがよくありました。

 人間ひとりひとりに、博愛のような愛を持とうと努力して生きていると、そんなことが起きます。

 愛されすぎた人はよく勘違いするなと思います。

 「これこれをしてあげる!」も、自分がしてもらいたい相手に選ばれて意味があるのです。

 「私がこんなにつらいのに!」も、自分がそこまで大事にしたいほどの相手に選ばれているから意味があるのです。

 しかし、堂々とそのような態度で来られた時、やはり困りますね。

 そんなに特別だと思っていないんだけど…。

 これをもし言ったとしても、愛されすぎの人は信じませんからね。

 別に僕がひどいと言われようがなんだろうが、好きでもなんでもないなら気にもなりません。

 嫌いな人なら好かれたくないと思うでしょう。

 嫌ならばひどいと思われていいのです。

 つまり、「私を好きに間違いない!」と思っているからこそです。

 思い通りにしてもらおう、も、それだけしてあげたい相手であり、そこまでしても恨まれることがない大切な存在だと思えていなくてはなりません。

 自分が怒っている

 自分が悲しんでいる

 自分が不安になっている

 そんな相手の気持ちをなんとかしてあげたい

 気持ちの面倒を見てあげたい、つまり母の愛です。

 他人はそんなことしませんよ?恋人でもしませんよ。

 恋人なら、好きな人に嫌われたくないのでこう伝えてきます。

 「ごめんなさい、できればもう少しこうしてもらえないかな…。」

 批難したと傷つけたくない、傷ついたら私を嫌いになるかもしれない。

 何かをさせたいのは私の我がままなんだから、この人は前からこうなんだから、気を悪くしないでほしい。

 嫌われたくないからこその優しさです。

 こういう恋人が実際、付き合った中にいました。

 嬉しいですよね。自分に対して気遣いがあることが嬉しいのです。

 その様子が違うのです。

 嫌われないか気にしている様子。「気を悪くしないで」と全身から伝わってきます。

 この優しさと愛に、人は無意識に反応します。

 

 今込めている感情に相手は反応しますから、本当に好きな人には嫌われないんですよ。

 本当に好きな人には好意がありますから。

 全身から伝えるものが、愛や優しさなのです。

 心の中にこみあげているものに相応のものが返ってくる。

 嬉しいですね。

 好きになったら確実に好かれますよ。

 特別になれなくても、好かれはしますよ。

 全身から愛がにじみ出ていますから。

 

 面白い人は、気持ちはどうでもいいんですよ。

 形です。

 形しかわからないんですよ。言葉しか。

 自分がもし怒りをぶつけていても

 「今そんなこと言ってません!」

 と小学生みたいな喧嘩をします。

 「あなただって同じようなこと言ったよね!なのに私だけ文句言われるんだ!ひどーいひどーい!」

 みたいなことを言います。

 これ、先日ラッキーに「こんな人もいるんだよ」と話していました。

 見ていて恥ずかしいと言うんでしょうか。

 小学生しかこんなこと言わないと思うじゃないですか。

 「お前だって!」

 これに返したくないよね、という話をしていました。

 同レベルになれない。

 本人は怒っているつもりなんですよ。

 中身が本当に小学生のようです。

 だから子供同士の会話しかできないのです。

 それについて返答できないのではなく、「え!この年で小学生の喧嘩みたいなことするの恥ずかしいんだけど!」という気持ちです。

 相手は本気ですからね。こっちもそれで本気になると思うんですよ。

 笑うと怒られますよ。

 「ひどいよねー!」

 って小学生女子がよく言いましたよね。大人になってもまだ変わらない人もいますよ。

 僕は30歳を過ぎているのにこれをやった人に出会った時、正直めまいがしましたね。

 嘘…この人本当はこんな小学生みたいな人だったんだ…。

 この姿に幻滅というか、ドン引きです。

 大人の女性じゃないの?!

 その時の、顔。

 いたいた、小学生の時、と思いますが、もしそれを言ったらまた小学生のような反応しかされません。

 「見たくない。この人見たくない。」

 ずっと機嫌よくしていてほしいんですよね。

 見たくないから。見苦しいから。

 大人の女性は怒っても感情的にわけのわからないことはしませんよ。

 なんというか、もっとカッコいいです。

 同レベルになりたい人としか付き合わないものです。

 更に、ちょっと想像するじゃないですか。

 「この人家って、まさか全員こんなん…?」

 そして、そうなんですよ。

 だから関わりたくないと思うんですよ。

 子供なので、まだ共通の話ができません。

 自分が体験した過去の話ばかりです。

 つまり相手にとってそれが共通性のある話題かどうか、選べないのです。

 「私が!」でしか考えません。

 職場の会議で自分の恋愛を話しません。

 それと同じくらい、相手と自分にとって共通の話題にならないことは出しません。

 話して理解可能な話、それも面白い話ならいいですがね。

 つまんないんですよ。

 (・Θ・)ちゅまんない。

 正しいとか悪いじゃなくて、つまんないんですよね。

 それを「つまらなくないふり」でいなくてはならない。

 相手のすることに不満を持っているなんてバレたら、どんな目に会わされるか…。

 絶対に嫌われない自信がなかったら、または嫌われてもどうでもいいと思えていなくてはそんなことできないですよ。

 好きとか嫌いとか、本心は「この人にならなんでも言える」と安心されていなくては言ってもらえません。

 それだけ自分が安心できる、本心を語られる相手に選ばれていないと、相手に本当のことを言ってもらえると思いません。

 例えば、答えによって機嫌が変わるとわかっている面倒な人がいたとしたら。

 本心なんて絶対に言いませんよね。

 「怖いんだよ」

 なんて言ったら、そのあとどれだけネチネチ責められるか。

 自分に対して最高の評価が当然、という自信がある人は、「この私にそんなことを言うなんて」という見下し方をします。

 自信ありますからねえ。

 不当に思えるんですよ。

 最高の評価ができないのはお前が問題なのだ。

 そして「そんな評価をされて私がどんなに傷ついたと思うか」と反省もさせようとします。

 羨ましいですね。

 こういう人は、なんというか眺めているのは楽しいですよ。

 そんなこと流石にどれだけモテてもなかなかやりません。

 普通の、ただの異性として出会ったらそんなことはしませんよ。

 言えませんよ!

 怖い!恥ずかしい!

 こういう時、すごくいたたまれないのでどうしようかと悩みますよね。

 僕の母もそんな感じでしたよ。

 こっちは本人が当然だと思うほど、好きじゃないんですよ。

 でも勝手に怒って勝手に泣いて、勝手な理由をつけて勝手に人を悪者にしたら

 「ごめんなさい!お母さん!」

 と泣いて息子はすがってくると信じて、一人で先に始めちゃうんですよ。

 

 この恥ずかしい状況を、こっちはどうしたらいいのかわかりません。

 適当にあしらっても、続きます。

 やめないんですよね。

 僕の反応を勝手にまたさっきの話にくっつけて、まだ続けるんですよ。

 疲れますよね。

 最後には「一人でやってて」と出ていくのです。

 そしてそこを離れると、自由!

 あー楽だ。

 楽だ!

 責められた!疑われた!なんてことはどうでもいいんですよ。

 こっちが嫌気がさしたら終わりですよ。

 でもね、いいんですよ。

 こういうのがあるからこそ、なんでもない関係のなんでもない楽しい時間が、すごくすごく幸せに感じられるのです。

 ただいつも通りにする、なんでもないことをする。

 すごいことなんて何も起きない。

 ただ楽しい。

 冗談を言って、お互いにコントみたいなことをして、一緒に話して感動したり、新しいネタがそこで生まれたり。

 他人に話しても絶対に何が面白いのか、現場にいないとわからない面白さです。

 翌日腹筋が筋肉痛になるくらい笑います。

 「あなたが悪いからでしょう!」

 なんて言う人がいますよ、本当に。

 だったら親に責められても「私が悪いから仕方ない」と思うしかないですね。

 でも誰が正しいかで気持ちが生まれるわけではないのです。

 今、そこにいてその人がどんな人か、評価ではありません。

 一緒にいると、楽しくなる。気分がいい。楽、落ち着く、癒される。

 説明ではありません。

 今ここにいる自分。

 その自分の表現が、人の心に何を生み出したか。

 今だけでいいのです。

 だから楽なのです。

 本当に嫌われた人は、「嫌い」なんて言ってもらえないんですよ。

 嫌いと言ってもらえるのは、まだ自分に期待があるうちだけ。

 どうでもいい、に変わった時、嫌がったり怒ったりしていた相手もなんともなくなるでしょうね。

 これを「わかってくれた!」と勘違いするうちの母。

 「諦められた」

 本当の捨てられたとは、そういうことです。

 怒る気も起きない。

 そこまで期待すらしていない。

 何をしても許してくれる、怒りもしない相手とは、完全に自分を見捨ててしまった相手です。

 頑張って嫌なことをし続ければ、きっと見捨ててもらえます。

 「もういいやこの人」

 となった時、何をしても許される、完全に見捨てられた存在になれるのです。

 他人と親は逆の存在。

 他人に母を求めた人は、完全に逆の結果を得ては「不幸だ」と嘆くのです。

 

 言いたいことを言わせない。

 言ったら文句を言う、黙らせる。

 とにかく非難する。

 責めていたらやっとわかってくれて、「悪いと反省して」優しくなってくれた…。

 じゃあ責めたら人は愛が生まれるのか?

 違います。

 完全にどうでもいい存在になったのです。

 

 人はそもそも人間に対してどう扱うかが違います。

 自分を低く扱っている人は、人に対して基本親切な人の好意も「特別」と思います。

 僕も責められることが何度もありました。

 勝手に特別にされてしまうからです。

 でも大丈夫なのです。

 こっちでもめている時、あっちではいつも通りにしながら、ちゃんと良い関係が築けていますから。

 悪い関係あっての良い関係。

 苦があるから楽がある。

 責め立ててくる人は、それでいいよと言ってくれる人の価値をより上げてくれるのです。

 最近、本当に心温まる関係が少しずつ育まれていて、嬉しさをかみしめることがあります。

 辛いことがある時こそ、そこはどうでもよく。

 その辛い関係の人と会った後の、良い関係の幸せ度が上がります。

 喉が渇ききった時の水のように、よりおいしく感じられます。

 そんなおいしい水の人は、「別に特別なことなんてしていないのに」と思うのです。

 だからいい。

 特別になろうとしていないところが、最高にいい。

 ただ普通に、なんでもない、ただ自然に。

 自由に、自然に。

 なんでもないことを。

 当たり前の優しさと思いやりを。

 ありがとう、と感謝するのです。

 本当に大切なものって、どうしたら気づくか知っていますか?

 苦しいことがある時です。

 当たり前にそこにあったものが、如何にありがたいものであるか。

 失わないうちに気づけることが幸せです。

 いつもはなんでもないことなのに。

 今は心に染み入る。

 そんな風に、大切なものに気づかせるため、苦は時々やってくるのです。

 親子関係を苦で諦められない人は、いつか良くなると信じ、そして他での関係が相手にとって「苦で始まる」ことをよくするのです。

 意図しないのに嬉しいことをしてくれた人がいたら?

 「この人なら」と意図的に何かを要求する。

 この最初から求めた始まりで、相手にとっては苦の関係になります。

 嬉しかったのは自分だけ。

 相手は優しかっただけ。

 僕も過去にこの過ちを犯し、すぐに気づきました。

 このままでは、相手にとって負担になってしまう。

 そして黙りました。みんなと同じ、普通のことだけにするように。

 それでも親切な人は親切です。

 その親切が、母に虐げられていた僕には身に沁みました。

 

 あんまり自信過剰な人は、自分の存在が相手にとってそこまで嬉しい相手で始まったかどうかわからないのです。

 どういう背景にいたかも考えていないからです。

 自分がどう思ったか、の世界につき合わせます。

 ごっこ遊びです。

 言っておきますが、ごっこ遊びですよ?

 

 自然な関係は全部意図せずに起きるから、いちいち驚いて喜べるのです。

 意図して動かそうなんて思いません。

 子供はすぐに欲しいものに手を伸ばしますが、こと人間相手ならばそんなことはしてはいけません。

 あれは人形じゃないの、意志ある人間だから、動かそうとしちゃだめ。

 でもあの人が

 でも普通は

 うんうん、それは自分が思うことだからね

 怒っても仕方ないの

 あなただって、他人の思い通りになんて動けないんだから

 

 こういう当たり前のことを教えていく必要がありますね。

 ただ、親が子供を思い通りにしたい場合は、それでよいという世界に生きさせますね。

 それでも親を離れた後の行動は全部本人の責任です。

 愛されるも愛されないも、本人の責任です。

 原因は親にあっても、本人の責任です。

 自分で考えて動いているのですから。

 間違っていると思ったらやめますよ。

 そして行動したらもう遅いですから、結果起きたものは全部受け入れるしかないのです。

 「こう思われた」

 という現実は。

 起きたことが気に入らないから、なんとか結果を変えようとして人は後ろ向きになります。

 自己実現のエネルギーを使い果たして。

 良かった。

 僕は最初に気づいて、と思います。よく思います。

 全部お釈迦様のお陰だなと。

 絶対の道徳性は、やはり幸せになるために必要なのだと思いました。

 「こういう人がいてもいいと思う!」と怒る人もいますが、いてもいいに決まっていますよ。

 いるんですから。

 ただ、本人が「望んだ扱いをしてくれてもいいじゃないか」という欲求を持っているとわかっていません。

 「これでいいなら、望んだものがもらえるよね!」

 ということです。

 僕はあなたが好きではないけど、あなたはその自分が好きなんだからいいじゃないか。

 これでいいのです。

 好きな自分になる自由があるのだから、人にもその人を好きになるかどうか自由なのです。

 ただ、本人が満足していると見ていて嫌な気持ちはしませんよね。

 面白い人だなあと思いますよね。

 苦を苦として受け入れ、苦を苦のままで持ち続ける。

 それにより、幸せというものがはっきりわかるようになるのです。