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同じ意見にならなくとも良いのだ

 自分が正しいと思うことに人が賛同してくれるかといえば

 そんなことはない

 それは仕方ないことなのだ

 賛同してくれない人がいる代わりに、賛同してくれる人がいるのだから

 悩んでいる人は、自分に賛同しない人を賛同する人に変えようとする

 だが、そこを頑張るのは程々にした方がいい

 考え方は本人の目的あってのもの

 何を目的に生きているのかによって違う

 僕は加藤諦三という先生の考えに賛同した

 僕もそう思う!僕も同じ志の元に頑張る!

 と意欲を燃やした

 みんなが幸せになるためなのだから、それが一番良い、と思ったし、殆どの人はそうなるだろうと思った

 ところが、現実は違った

 僕はまず研究者とぶつかった

 「誰が偉いとか正しいなんてどうでもいい!みんなが助かるならばそのほうがいい!」

 という考え方は、それぞれ言葉では同意でも却下だった

 張り合っているのだと知った

 その時初めて、教授が著書に書いていた「心理学者でありながら、自分の論文のほうが優れているかどうかなんてことを…」的なくだりを思い出し、納得した

 僕は成金層なんて呼ぶが、上から下に転落したような僕と違い、彼らは元々庶民として生まれた人たちだから、自分たちの仲間を思い、きっと弱い人たちの助けになろうとするはず、と思った

 現実は違った

 得れば得るほど、上はいると知る

 より上を指して「あの人たちがやればいい」と自分たちの下は無視するものなのだと知った

 そして、似たような生まれ育ちで生き続けた人

 ここが僕にとっては一番の戦いどころだったかもしれない

 あなたは私たちと同じ、あの人たちとは違う、と言われた

 僕はそんなことない、と否定した

 相手は強烈なナルシズム世界真っただ中、ここまで酷い馬騰をする人を見たことがなかったし、ここまで強烈な人も見たことがなかった

 「てめえには俺のところに相談に来る人たちがどんな生活をしているのか、お前にとっての「たかが」八千円を握りしめて知らない人のところに悩みを話しに来なくてはならなかった人たちの気持ちがわかるか!その八千円の価値が!庶民にとってどの程度の大きさか!わかるか!」

 そう怒鳴りつけたが、いま思うとわかるはずもないのに僕も感情的になってしまったと思う。

 貧しいって体験がないから知らないのに、責めた

 と僕が悪者にされただけだった

 労働者階級、という言葉をあっさり使う人に出会ったお陰で、僕も「何かおかしい」と気づくきっかけになった
 だから感謝している

 この人が、気づきの瞬間を迎えたであろうことが、救いだ

 死ぬかと思った
 何度死にたくなったかと思う

 解決したならばそれでいい

 僕もかつては、「学校で教えてもらっていることは絶対に正しい」と信じ込んでいた

 ただ、僕は小学生の頃の先生に大いに感謝しなくてはならないのだと気づいた

 僕は天才児だった

 学校の勉強に苦しんだ

 イライラするからだ

 「さあ、できましたかー」なんてちんたらやっていることに、いつもイライラしていた

 超反抗的なのに成績だけは良い僕を呼び出し、先生はよく説教した

 そして言った

 「今は我慢するんだ、大人になったら、勉強だけしていればいい仕事だってあるんだぞ!いつかそれになれば、勉強を毎日していたっていいんだ!それが仕事なんだから!」

 「そんな仕事があるの?大人なのに勉強してればいいの?」

 「学者や研究者という人たちがいて、お前たちの教科書だって、その人たちが作ってるんだ。それも仕事のひとつなんだよ。」

 その時、僕は「教科書はどこかの大人が、誰かの親が作っているのだ」と知った。

 つまりうちの親の職業とは違い、教科書を作るような仕事をしている人がいて、その内容も誰かが「勉強して」考えているのだと知った。

 おそらくそれから、いちいち教科書に書いてあることを確認するようになったのだと思う。
 この先生は人望厚く、後に校長になった。とても感謝している。

 あの一時で生徒の人生に必要なものを与えた、偉大な先生だった。

 正直、僕も自信がない。

 自分では正しいと思うが、人にまで言うことだろうかと思ってしまう。

 最近は、こと「休憩所」や「少数精鋭」のみんなとうまくやっているので、そこで満足してしまっている。
 名古屋の講座も行ってよかった。

 身近ですっかり満足してまったりしているような日々に、これではいかんと思った。

 最近、以前から考えていた階級制度のことについて、やはり既に気づいていて、そこから始まった問題について本を出している歴史方向の先生方がいると知った。

 皆さんの知識をお借りするため、より幅広く知識を得なくてはと改めて思った。
 昔のものだけではなく、今現行のものを得続ける必要がある。
 教科書の内容も、数十年前とはだいぶ変わっている。

 僕は子供の教科書を全部見せてもらっている。
 知らないところは教えてもらっている。
 なので、だいぶ変わっていることは知っていた。
 歴史もだいぶ変わっている。

 過去のことなのに、歴史も変わっている。

 変な話だが、そうなのだ。

 僕はいやらしい性格をしていて、大衆より「秘密の仲間」みたいな関係が好きだ。

 こんなに多く人がいたら、自分が特別という関係はなかなかできない。

 そんな仲間たちもなかなかできない。

 だが、そうした関係は本当にあるし、僕の過去の仲間たちについても仲間以外の人たちは知らない。

 自分たちだけの「とっておき」があることは、人生において最高の幸せだと思う。

 そこで、少数精鋭がある。
 勿論、生徒たちはブログで書くことより遥かに色々教わっている。

 全体に配信するためには、どうしてもそれなりに形を作る時間が必要だ。
 目の前にいれば、僕が持っている資料やデータも即見せて説明できる。

 僕の手抜きでもあるかもしれない。

 個人のことと同時に、社会について知っていくことで視野は広がっていく。

 両方から知る必要がある。

 そして僕たちは特に、外から見た自分について考えねばならないだろう。

 今自分がどこの誰なのか知らないのだから。

 どんな流れの中でなんのために生まれたのか、知らないまま生きているのだから。

 例えば、家の中で嫌な臭いがすると思った。

 嫌な臭いだから、誰かなんとかしてよ!と人を探していたらいつどうできるかわからない。

 だが、外側からの事実を確認して「家が燃えている!」と気づいたら、自分で即火を消しにかかるだろう。

 事実の認識が変われば、行動は勝手に変えたくなる。

 自分自身の理由を変えなくてもいいのだが、外側の新たな事実を知れば本人が勝手に行動を変えたくなる。
 それが自発的、と呼ぶ行動だ。

 自分について見てほしい、他人に自分を認めてほしい人は、外側の人たちは「単に外から見える事実」しか言えないことに気づかない。

 気づいていないから、自分の過去や内面について言われたと受け取る。

 そんなこと、やりたくても誰にもできない。

 他人の過去や内面なんて、本人にしか確認できないところなのだから。

 せいぜい情報から推測しているに過ぎない。

 実際のところは本人にしかわからないから、なんとも言えない。

 「こうじゃないの?」がせいぜいだ。

 という話はさておき、自分に肯定的な人ばかりでなくともいいのだ。

 例えば目的が一致していても、意見が対立することはある。

 治療者研究者の集まりにいくと、こと思う。

 ここでの討論は活気なのだ。

 広く大勢を対象とする人と、僕のように一点を掘り下げる「係」に分かれている。

 どちらも同じ目的でやっているが、係が違うので意見は対立する。

 そこで話し合いがあり、互いに譲歩するのだ。

 互いのバランスを崩さないように、同じ目的のために考えていくのだ。

 こういう討論をしているのを見ているだけで、僕はなんだか嬉しい。

 しかしこれが、もっと幅広い領域の枠になるほどに、目的が一致しなかったり考え方が食い違ったりして、まとまるのは難しくなってくる。
 それでも、それぞれが自分の立場から努力していくしかないのだ。

 互いを知りながらも、自分の立場から努力していくしかないのだ。

 僕は、悩んでいる人たちは仲間がいないのだなと思った。

 いつも通う場所を用意したのはそのためだ。

 もうひとつ、継続して聞いていかないと、なかなか全体が把握できないだろうと思った。

 頑張り屋さんの人も、目の前の一点だけ見続けてしまったのだ。

 そこが間違っているのか正しいのかに集中している。

 「相手がおかしいのか!自分がおかしいのか!」という議論になっている。

 そんなものは一目瞭然で、相手がおかしいときは相手がおかしい。

 相手の言っていることにいちいちまともに答えて「会話を成り立たせよう」とするから、巻き込まれる人はどんどん巻き込まれる。

 全体像を見て「面白くないからって適当なこと言いだした」くらいで捉えてよい。
 事実そうなのならば。そうでしかないのだから。

 遠方の人のために、ネット配信をしようと思った。

 遠くから来てくれる方々もいるが、なかなかそれは難しい。

 並みに考えるならば、東京、名古屋、大阪、加えて福岡を渡り歩く程度になるだろうが、実際には宮城、神戸という人が講座にはやってくる。

 東京の人を相手に教えるならば、僕は「東京の人たちは世界をどう認識しているか」が大体わかっているので、そこを軸に説明する。

 だが、実際には外側にいる人には別の説明でなくてはならないのはわかっている。

 わかっているが、視点はそれぞれひとつなので、それぞれ別の説明をしなくてはならないだろう。

 何よりも、僕が現地に行かなくてはならないだろう。

 僕はそれでも、一番強い力があるところにテコ入れするのが一番効果的だと考えている。

 上流階級に一本でも楔を打ち込みたかったのも、そのためだ。

 その一本のでかさを知っているから、そこになんとしてでも打ち込まなくてはならない。

 それなりの犠牲は払っても打ち込まねばならない。

 僕は教授に叱られながら教える方に転じたものの、最近はこと良かったと思うことが多い。

 僕だってずっと教えられている立場でいられるならば、その方が楽だ。その方がいい。

 だが、実際やってみて、少しずつ違う立場の良さもわかってきた。

 相談に来る人たちもそう。

 一度顔見知りになれば、親しみはわいてくる。

 子供を育てるときの「かわいさ」ではなく、生徒に対する「かわいさ」というものを知った。

 人間は心理的に成長すると、「育てる」ということに欲求が変わるのだと言う。

 確かに、僕は動物や植物を育てているのも好きだ。

 育っていく姿を見るのが幸せになっていくのだなと思う。

 成長が止まった人は、成長ではなく「まず許せなかった恨みを晴らす」ことに集中している。

 そこは傷ついて乗り越えていくしかない。

 ホームページ会員の方々には、本当に申し訳ないと思っている。

 どうしてこうも、次々と…と思うほど、人生は困難の連続で予定通りにちっともいかない。

 もうそれも終わってくれると信じている。

 楔は打ち込めた、と信じる。

 長く意図せずにメンテナンス状態になっていたので、有料会員についてはお知らせに記載したものの申し訳ないことをしてしまった。

 単に、トラブルに見舞われていた。

 今日もまた、僕は気づけば五時間過ぎている。
 自分でもこれだけはなんとかならないかと思うことがあるが、仕方ない。

 この自分で生きていくしかないのだから。

 僕たちに配布されるものの全ては、誰かが考えて誰かが作っている。

 僕たちが仕事をするように、誰かが考えて議論し、許可をもらい、方法を決め、とにかく仕事なのですべて流れがあって、手元に届く。

 すべて自分たちと同じく人間がやっている。

 そして「あの人たちは特別!」なんて人間は、どこにもいないのだ。

 いないのだから、自分がやっているかのように、失敗も間違いもあると考えなくてはならない。

 「~なんだから間違うなんてあってはならない!」では、権威主義の親父と同じだ。

 他人に完璧なんて求めていたら、その仕事をやる人が減るだけだ。

 「あなたがやってください」になるだけだ。

 誰だって頑張っている。

 頑張らないから失敗しているわけではない。

 失敗している人は、頑張った人なのだから。

 仕事だけではなく、人生においても。

 頑張ったから、失敗したのだ。