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いい女と、愛されない女

 今回は僕の視点からの説明なので、女子は男女反対にして考えてほしい。

 いい女とはどんな女か。

 数だけは沢山付き合ってきて思うことがある。

 いい女は恋愛相手を対象に、被害者にならない。

 被害者になるということは、相手を加害者にするということだ。

 いい女は謙虚なので、相手が嫌なことをしてしまったら嫌われると思っている。

 愛されない女は、相手が嫌がったら嫌がることは酷いことだと罵る。

 いい女と愛されない女は、違いはあっても差がない。

 同じレールにいない。

 いい女は相手をべた褒めしない。鬱陶しい女にならない。

 いい女は過去を聞かない。相手のしていることを真似しない。

 相手を好きなままでいられる女は、相手と違うことをする。

 違いがないと好きになれないと知っているから。

 相手に好きになってほしいから、違いがあるままにしている。

 愛されない女は同化する。相手と同じことを知って同じことを経験する。

 魅力がどんどん無くなり、どんどん母親に近づいていく。

 愛されない女は過干渉の母親に似ている。

 過去や生活の細かいことまで知っているから、異性としてはときめかない。


 いい女は情報を沢山知って、同じ経験を多く持っているだけで親密になったと誤解しない。

 何もしなくても、人は人を好きになると知っている。

 いい女は、「好き」とは条件つきではないと知っている。

 いい女は、正しい方が好かれると思っていない。

 自分と一緒にいて楽しい、うれしい、癒される、安心する。そんな時間を過ごすことが大切だと知っている。

 いい女は、過去は消せないと知っている。

 いい女は、「これが嫌「だった」」と言われたら、過去はもう取り返しがつかないことを知っている。

 愛されない女は、すでに自分が選ばれた架け替えのない存在としてしか相手と接したくない。

 だから「これが嫌だった」と言われたら、「じゃあこれから直す」と言い出す。

 それでは誰が相手でも後から言って直せばいいことになる。

 いい女は、最初から相手が好きになる人でなくては好かれないと知っている。

 あとから別人に変わって好かれることがあると思っていない。

 自分以外にも女はいるから、「どうなれば好きになる?」と注文を聞いて好きになってもらうものではないと知っている。

 たった一人の自分という人間が、好かれるかどうかは選べないと知っている。

 だからこそ、自分にとって最高の自分でいることを心掛けている。

 この自分を好きになってくれる人がいたらいいな、と思っている。

 それは願望なので、「だったらいいな」と夢見るだけのものだと知っている。

 愛されない女は、最初はダメでもあとから変われば「認められて」愛されると思っている。

 愛されない女は、恋人とは「こんな人になってほしい」という願望をかなえてあげる、またもらえるものだと思っている。

 愛されない女は、今の自分などどうでもよいと思っている。

 今の自分が嫌がられたら、これから好きな人に変われば良いと思っている。

 いい女は、引く、ということができる。

 愛されない女は、引くことがない。

 いい女は、相手の世界を受け入れる。

 だから相手に気づくと「ここは進んではだめだ」と考え直す。

 愛されない女は、相手に傷つく拒否して進む。思い通りになったら自分がうれしい。

 自分一人の世界を広げるために、相手を外に外に追い出していく。


 例えば、僕はやたら褒められるのが嫌いだ。

 愛される女は、愛されたいので嫌なのだと知ったらやめる。

 愛されない女は、嫌だと聞いたら「これを嫌がることはおかしい」と嫌なことを続ける。

 「これが如何に良いことか」と自分が良いと思う理由を話し、「これがわからないなんて」と嫌がる僕を排除して一人の世界を拡大する。


 いい女とともに居続けるには、特に何もせずに自然にしていればよい。

 いい女は何かあるたびに、相手に気づく。

 何もないと思ったところに何かがあったと気づくと、そこを通らないようにする。

 愛されない女とともに居続けるには、「この人はこういう人」と面白キャラに変換して恋愛対象から外せばよい。

 それは決して不幸ではなく、自分の中で人を「悪い人間」にしないため、自分から変化して相手を取り入れるのだ。
 好き嫌い以外の「面白い何か」にすれば気にならなくなる。

 恋愛対象にしてしまえば、どうしても好き嫌いが出てくる。
 恋愛対象から外せば、面白いキャラにもなる。


 いい女は、好きになるなんてことは自然なことであり、もめて話し合って説得して、どちらが正しいかまとまったら「恋人としてやっていきましょう」と決めてなるものではないと知っている。

 愛されない女は、現実の恋愛ではなく恋愛ごっこしかできない。

 今、起きたことが気に入らないと、説明と話し合いで「良いこと」になるまで食い下がる。

 「嫌われないため」なのだ。正しい人間は嫌われないからだ。

 彼女たちの常識では、正しいものを選び、間違っているものを捨てるのは当然のことなのだ。

 全員がすでに知っている「正しい恋人や夫婦の形」を覚えた通りに実行する。

 上手に決められた形を実行すれば、共に努力することで「あの理想の形の夫婦」になれる。

 気持ではなく、形で動くのは常識なのだ。

 我慢して正しいことをすることが、立派な人間なのだ。


 愛されない女は、人間は誰でも同じだと思っている。

 あとからいくらでも言われたとおりに変われば、誰でもいいのだと思っている。

 だから、自分が相手に気に入られるように「表面の行動」だけ変えればいいと思っている。

 相手が自分に気に入られるように、表面の行動だけ変えてくれれば喜ぶ。

 相手好みの人間に七変化して、相手を満足させることが「好かれる」だと思っている。

 人間は誰でも構わないので、より理想の形にいくらでも変われる人がいいのだ。

 「実際のところ、素ではどうなの?」はない。

 本物、つまり「素の状態」は見せない。

 いい女は「素の状態」で生きている。

 素の自分を、育てている。だから成長していく。


 嫌なことを我慢して言われたとおりにすると、愛されない女は上機嫌になる。

 愛されない女ほど、図々しい。

 だから相手が自分に執着していると勘違いする。

 相手には自分しか見えていないと思っているから、相手がいつも自分のことを考えて他人に噂話していると思い込む。

 本当にモテる女は、告白されても異性に付きまとわれても、話さない。
 実際に起きているときには気が重いと思っている。

 もうすっかり過ぎ去ったころに話を聞き「そんなことがあったの!知らなかった!」と周囲は驚く。自分で解決している。

 愛されない女は、どんな男から告白されても嬉しい。

 好きになれない男に告白されても人に言える。

 いい女は、恋愛ごとでゴタゴタしていることを恥に思う。

 人に言える話ではないと思っている。

 いい女は、恋愛は一対一でするものだと考えている。

 愛されない女は、みんなで一緒に恋愛して周りの評価や判定を聞きながら、周囲が認めてくれて一緒になるものだと思っている。

 いい女は、もし周囲が自分の恋愛に悪い意見をしてきたら、自分が嫌な気分になるから人に話さない。
 もし周囲の人が自分の恋人に悪い印象を持ったら、相手と続けていけなくなると知っている。

 「私の周囲の人があなたを嫌っている」

 と言ったら、相手は自分のもとを去っていくと知っている。
 私の周囲や私に気に入られるために、相手は変わらない。

 それは「悪いけど付き合っていけないわ」という意味だとわかっている。
 相手を素敵だと思うから付き合うのであって、そう思えないなら「付き合わないで」という意味になる。

 互いに相手がそのままで良いと思えないならば、付き合いなど続かないと知っている。

 「好きだけどこれが気に入らないから変わって」なんてことを望むとき、それは「この人が好きではない」ということだと知っている。

 自然に、何もせずに、そのままいつも通りのその人を好きになることが「人を好きになる」だと知っている。

 愛されない女は、「この人に恋人役をさせよう!」と勝手に決める。
 人を好きになるのではなく「やってほしいことをやってくれそうな人」を探している。

 ごっこ遊びなので、相手の背景や事情をより多く知り、それを自分の人生の中に組み込んでしまおうとする。人の人生を自分の人生の計算に入れてしまう。

 人には出会う前から全員に生きる目的があるとわかっていない。

 自分が持っているように、誰もが何かの目的や欲求を「持ったまま登場する」とわかっていない。

 自分の目的に、他人を計算に入れてはいけないとわかっていないのだ。

 一人で実行できること以外は「願望」と呼び、現実には自分一人で実行可能な部分だけを決めて目指すものだと知らない。

 愛されない女は目立ちたがりなので、相手の過去を聞くと過去のために何か目立ったことをしようとする。
 他人の人生に主人公として目立ちに行く。

 愛されない人は自分に必要とされていない。

 だから他人の人生で必要な人になるために、他人の人生に出しゃばっていく。

 いい女は、慎ましい。

 口が堅い。

 愛されない女は、あれこれ理由をつけては人にしゃべる。黙っていられない。

 みんなに恋愛を見てほしい。ほめてほしい。

 いい女は自分のために恋愛する。

 愛されない女は、みんなのために恋愛する。

 いい女は自分が幸せになろうとする。

 愛されない女は、みんなに幸せだと思ってもらえればいい。


 いい女は、優しい。

 愛されない女は、冷酷だ。


 いい女は、人の心を気遣う。

 愛されない女は、自分の心を気遣えと求める。


 いい女は普通にしているだけで人が寄ってくる。自分の目的のために自分が頭を下げる。

 愛されない女は、自分から自分の過去や他での話をして、人の人生に目立って出ていく。
 自分の目的のために、人に頭を下げさせる。


 いい女は、平等に人に優しい。恋人以外の異性にも優しい。

 愛されない女は、恋人の前で他の異性の悪口を平気で言う。

 愛されない女は、いちいち比較してくる。

 比較して褒めてくる。つまり誰かをいつも貶す。

 褒められているとは思われず、人を貶していると思われる。

 本当の目的は人を貶すことにある。人を恨んでいるからどこかに現れる。


 いい女は、潔い。

 愛されない女は、諦めが悪い。


 いい女は、人を人として扱う。

 愛されない女は、人を役目でしか見ない。だから思い通りにならないとすぐに縁を切る。

 愛されない女には、道具とならない人間は必要ない。


 いい女といると、騒ぎが起きない。いつも通りの日常が続く。

 愛されない女は、いつも暗い。もめ事と困りごとを背負っていないことはない。


 いい女は自分がいい女だと思っていない。それが普通だと思っていて、自分の欠点も沢山知っている。

 それでも、自分だけは自分を好きだと満足している。

 愛されない女は、自分が正しい性格の良い、または可哀想で誰も知らないけれど本当はこんな人間ではないと思っている。

 自分はこんなに素晴らしいのに、誰も認めてくれないから周囲の人たちがおかしいのだと信じている。


 いい女は、出てきた結果に愚図らない。

 愛されない女は、出てきた結果に不満を唱え、結果を変えさせる。

 結果を変えさせるために、人を罵る。


 いい女は、恋愛は心でするものだと思っている。

 形を作っても心がないなら意味がないと知っている。

 愛されない女は、形があればどうでもいい。

 心があるかないかを口に出して聞く。言われたことしかわからない。

 愛されない女は、心の存在に気づいていない。

 好きも嫌いも、言われなくてはわからない。

 だから嫌われていても、「あなたのために」と言われれば「そうなんだ」と思い込む。

 形あるものがなくては、人に見せられない。噂話で自慢できない。

 だから言われたこと、されたこと、形あるものを無理やり作る。

 今そこではなく、他で自慢するためにすべての関係を作っている。

 今この関係に満足しているものは、ただのひとつもない。


 いい女は、相手を特別扱いすると嫌がられると思っている。

 愛されない女は、自分が特別な存在になりたいので相手も特別な存在として扱う。


 いい女はいい男としか一緒に居続けられない。

 愛されない女は言うことを聞く男としか一緒にいられない。


 いい女は心で恋愛をする。

 愛されない女は打ち合わせで恋愛をする。

 どうやって仲良くしていくかを、打ち合わせて話を進めようとする。

 この時点で、目的が一致している必要があるとわかっていない。

 だから同じような人としか一緒に居続けられない。


 いい女は形などどうでもよい。そこに愛があれば。

 愛されない女は形こそ全て。そこに愛なんてあってもなくてもどうせ見えないからどうでもいい。

 思い込むだけで幸せなのだから、実際のところはどうでもいい。

 形だけきちんとしてくれれば、どうでもいい。


 恋愛は恋愛感情でするものだと知っているのがいい女だ。

 感情は目に見えないから、口に出さずとも察していくものだ。

 いい女は、言ったことはただの言葉であり、沢山の行動や表情から相手の心を読み取るものだと知っている。

 愛されない女は、言葉がすべてであり、沢山の行動は気にいるようにしていればそれでいい。


 いい女は時間の流れの中を生きている。

 今を生きている。

 だから結果が覆せないと知っている。

 知っているから、小さなことを大事にしないためにもすぐに引く。


 愛されない女は、結果が出たらあとで自分が正しいことになれば「うまくいく」と思っている。


 愛されない女は愛されようとしていない。


 愛されない女は、愛されたいと言いながら「思い通りに人を動かしたい」と思っている。


 目に見えたものは目に見えないものが形になって作られたもの。


 形だけ動けばいい人は、「思い通りに言ったりやったり」をしていれば心なんてどうでもいい。

 心の世界と不一致なことをさせ続ければ、心の世界はどんどん荒れていくとわかっていない。

 目に見える世界だけ考えているから、愛されない女の心の世界はいつも荒んでいる。


 愛されない女は人の心を見ようとしない。


 自分の心を見ようとしない。


 いい女は心根を大事にしている。自分の心の中を確認し、心の中を育てていく。

 愛されない女は心根より見せかけ。他人の心根も気にしないが、言ったりやったりの目に見えたところだけは気にする。


 愛されない女の一生は、見せかけをうまく作るためにある。

 いい女の一生は、見せかけがどうであっても心から幸せだと感じるためにある。


 愛されない女は、自分なんてと自分を捨てた。

 自分の人生に自分が必要なくなったので、他人の人生で必要としてもらいに行く。

 だが、他人の人生には必ずすでに主人公がいる。

 主人公を待っている他人はどこにもいない。

 すべての人が自分を主体に自分を主人公に生きる。

 だから行く当てがない。どこに行っても邪魔になる。


 そこで、生まれた子供の人生で主役になる。

 子供だけは主人公の座を譲ってくれるから。我慢してわき役をやってくれるから。

 そして、自分の人生で自分を必要としなくなったその子供は、親と同じように探し求める。


 わき役の私を主人公として扱ってくれる「私のわき役」を。


 生きながらにして、自分の人生でわき役をやっている誰かを求めている。

 突然現れた他人のわき役として、親が子供をあやすように人生を生き続けてくれる誰かを求める。

 つまり、親に既に主人公の座を奪われた「私よりわき役になりそうな誰か」を求めている。

 より人に譲ってしまいそうな誰かを求めている。

 人の人生で主役を張るために。


 しかし、やはり他人の人生は自分の存在すら知らずに作られたものばかりで、主役の空きはない。

 すべての人が、自分が幸せになりたい。

 すべての人が、自分だけは自分を主人公にして生きていきたい。

 だからまた、子供の主役になりにいく。


 自分のわがままで子供を振り回し、「お母さんが幸せなら子供も幸せ」と自分の行動を正当化し、子供が不満を言えば「それはあなたが悪いんでしょ!」と酷い子のように扱い、あたかも自分が子供に被害に合わされたように振る舞い、子供の罪悪感を煽り子供の自信を失わせる。

 子供の主体性を失わせ、自分を持てないまま大人になったら今度は「自分の人生くらい自分で決めなさい!」と見捨てる。

 「大人になったんだから」と。

 育ててもらえずに大人になり、大人になったら「大人になったのに」と迷惑をかけられているような顔をする親。

 子供は親に主役の座を奪われた。

 子供なのに自分を卑下して代わりに親を立派な存在として認識する。


 冷酷で愛もない親が子供の人生で立派な主人公になるためには、子供が罪悪感を持って悪者だと思い込んでくれなくてはならない。

 愛も優しさもない人は、他人の人生で愛や優しさのある人だと「扱われたい」。

 実際にそうならば黙っていてもそう扱われるが、実際にはそうでないから扱いをしてもらうためには現実を曲げてもらわねばならない。

 人の自然な反応を拒否して、「もっと良い感情を私に持たないなんておかしい!」と批難する。

 自分に望ましくない人が如何におかしいか、悪いか、批難すればするほど、「私が素晴らしい人だ」と証明されると思っている。
 心優しくないという人がいれば「私を心優しくない人だと思うお前がおかしい!大体お前はいつも…」と罵倒する。それにより、私が「優しい人だ」と証明されると思っている。

 たった今行っているその行為が、心優しくない人のすることだとわかっていない。

 口先だけの評価で現実を都合よく一人で思い込んで生きている。それがナルシストだ。

 だから「口先だけの評価」ほど大切なものはないのだ。思い込むためには形あるものが必要だから。

 あらゆるものを「きっとこうに違いない!」と勝手に決めつける。
 実際のところは誰を黙らせてもやり込めても、すでに起きたことなのだから変わらない。

 何も変わらないが、「そうではない」と言わせなくては「私の思い込み世界」が壊れてしまう。

 一人で作り上げた思い込みの世界に、現実が入ってきてしまう。
 全部自由に思い込んでいたいのに、現実の他人とかかわらなくてはならなくなる。
 そうなったら一貫の終わり。

 自分が自由にできる世界がなくなってしまうから。
 周囲は黙って「そうであること」にし続けてくれれば良いのだ。
 見えないものはどうせわからないから、現実にどうであるなんて全く興味はない。

 子供が実際どうなのか、自分を好きか嫌いか、不満かどうかなんてどうでもいい。

 「お母さんありがとう、感謝してます」と口に出しさえすればよい。
 あとは自分の邪魔にならないように勝手に生きていてくれればいい。

 優しい子供は自分が冷酷だったことにして、悪いのは子供でお母さんは優しいことにして「あげなくては」ならないのだ。

 実際にはそうではないから、理屈でなんとか「そういうことにしてやる」必要がある。

 我慢して「ごめんなさい、私が悪かったです、お母さんは正しいです」と言ってあげると

 「それでいい、わかってくれたのね!私の気持ちを!」と母親は喜んで泣く。

 私が如何に正しくて優しいかをわかってくれたのね!

 お前のためなのよ!ダメなのはお前なの!

 そんなダメなお前のために、こんなにお母さんは尽くしてる!

 いいのよ、だって親子じゃない!

 この茶番に一生かけて付き合うために、子供は本当に「私がいけないんだ」という人生を生きる。


 そしてその行為自体が、正に冷酷。愛も情けもない。

 現実を使った妄想の世界。

 ナルシスト母ワールドだ。

 これが代々、呪いのように繰り返されるのだ。

 誰かがこの茶番劇を脱して、「ああつらい、なんてつらい」をやめてしまえばよい。

 誰かが素に戻り「都合のいいことばっか、付き合ってるの阿保らしい」とやめればよい。

 「そんなにひどくもないし、特別すごくもない。普通だよ。」と。


 冷酷な人の見分け方は簡単だ。

 「お前は冷たい」と言ってみればよい。

 冷酷な人は「お前は冷たい」と本当のことを言われれば、怒り狂って「それはあなたでしょ!」とか「こんなにしてあげてるのに酷い人だ!」とか「私は傷ついた!そんなことを言うなんてあなたは冷酷だ!」とか言い出す。

 実際、僕は多く見てきた。冷酷極まりない、人の心を失った外道。


 そして優しい女はこう言う。

 「私、何か傷つけることしちゃったかしら?」

 優しい女は、心優しいからすぐ人の心配をする。

 冷酷だと言われたのだから、相手がそう思えるだけ何か傷ついたと考える。
 そんなことをするつもりはないから、心外と同時に心配する。

 悲しそうな顔をする。心配している。

 「私を悪く言ったな!」と怒らない。

 相手のことが大切だから。


 冷酷な女は、自分が冷酷であることすら気づいていない。


 優しい人は、心が優しいのだと知らないから。

 いかに自分が優しいかを説明する人が、冷酷なのだ。

 優しい人は現に優しいのだから、何をしていても何に反応しても、心優しい。


 冷酷な人は、現に冷酷なのだから、何をしていても何に反応しても、冷たい。

 冷酷な人の言う「素敵な優しい人」は、社会的理想とされることをきっちりやっている万人に認められる人だ。

 「この人は優秀です」と。

 社会に認められる人と、社会に認められる人生が欲しい。

 社会的に賛辞されたい。社会的に望ましくないことはやりたくない。

 人に望まれることならば、なんでもやりたい。

 自分に望まれたわけではないが、「あんな風になれればいいな」という理想があれば、自分がそれになって人に賛辞されたい。

 だから皆が憧れる存在になるために、人の目を気にしている。

 社会に認められることで、その力を背景に人を思い通りにしようとする。

 理想の存在になれれば、誰もが賛辞すると信じている。

 社会の理想となった自分は、無敵だ。

 社会の理想であることを盾に取れば、どんな人もその理想のもとに裁き、させたいことをやらせることができる。

 その理想を誰が作ったのかは知らない。

 それになるとなんなのかは知らない。

 ただ、そうなると皆が羨ましいと思うことは知っている。

 皆の認める自分なら、皆が自分のために動いてくれる。

 他人に認められれば、自分が他人の力を使える。言うことを聞かせられる。

 人を思い通りに操るために、たったひとつをあきらめればいい。

 自分の生きたい人生を諦めるというたったひとつの条件で、人を思い通りにして私以外のものを私の代わりに理想通りにするという道が開ける。

 他人はみなその理想を目指すから、ライバルは多い。

 競争に打ち勝ち、他人を蹴落とし、より理想的になって周りを望む反応に次々変えなくてはならない。

 周囲から望む反応を得るためならば、どんな手段も厭わない。

 私が、「素敵なみんな」を見たいのであって、みんなに「素敵な私」を見せてあげる人生になどしたくはないのだ。



 本物の人間関係は、もし地位や名誉、金や物がなくなっても消えない。

 偽物はもし失業してしまったり、金が無くなったり、または何か大きな失敗でもしたら一瞬にして消える。


 金がなければ誰も寄ってこない人。

 地位がなければ誰も寄ってこない人。

 偽物を得ていた人は、ある時一瞬でそれを無くす。


 転職して貧しくなるなど、普通にあることだ。

 だが、もしそうなったら友達さえいなくなる人がいる。

 「あの人はとってもいい人」と言っている誰かが、金が無くなったらみないなくなる。

 相手にもされなくなる。

 そんな人は、「そんなことはない」と言い張るために、形あるものにしがみつく。

 それを失ったら、自分の周囲から人が消えていくという恐怖を感じている。

 縋りついているものがなくなったら、人格に人がついてくると思えない。

 だから人格以外のものを失わないように、人格は捨てる。


 偽物を本物だと思い込むために、形あるものを失えない。

 思い込みに実感などない。

 心はいつも乾いている。

 だが

 なんとしてでも形の維持を続けなくてはならないのだ。


 人生は本物だと知らないから。

 冷酷な人の人生は

 「最後まで自分は幸せでうまくやっていると思い込むために、形あるものを失わない努力をし続けた人生」

 になる。


 思い込むために努力などしなくても、黙っていてもちゃんとあるべきものは残る。


 身の程にふさわしいものは必ず残るし、そうでないものは無くなる。


 「成功だと世間一般で言われている人生の形を、頑張って真似した人生」

 それが勝ち組と呼ばれる人たちだ。

 人の羨望を得るためには、一番手っ取り早い。

 最初から「あれがいい」とわかっているものを真似するのが一番早い。

 自分がやりたいことをして生きたら、羨望を得られるかどうかはわからない。

 人の羨望を浴びたいのに、そんな不確かなものは選べない。


 しかし、社会の理想とされる勝ち組は程度が低い。

 そんなものは我慢して努力すれば、誰でもできるという程度の内容だ。

 自分の人生を捨てて真似までしたのに、その内容は「ふうん」で終わる程度の内容。

 我慢して頑張っているのに、取り立ててすごくもなんともない。

 すごいけど、社会には沢山いるよね。程度。普通。ごく普通。

 へー、偉いね。という一言を得るために、人生を捨てる。

 そして何より、自分が不満。


 そんな人生を、愛されない女は望む。


 いい女は、ただ日常を大事に生きている。

 なんでもない日常を。


 人生はうまくできているので、本当は何も心配いらない。


 自分の心根に見合ったことが起きるようにできている。


 真似をしてうまくいくのはお芝居だけ。

 現実の世界なのだから、ふりをしている冷酷な人は不幸になっている。

 当たり前にそうなっただけなのに、自分は優しい素敵な人だと思い込んで生きるために「あの人は酷い人」と嘆き続ける。


 少なくとも、本当に心優しい人たちの中に冷酷な人は存在しない。

 出会っても存在しない。

 実際のその人は「心優しい人たちの予想の範囲外」で空想上の生き物だ。

 彼らが想像できる範囲の悪いことは、どうあっても良い方に偏っている。


 冷酷な人は「相手を傷つける酷いことを言ったりやったりしたら嫌われる」と知らない。

 もしそうなりそうになったら、理由をつければ大丈夫だと思っている。

 正しくさえなれば、責められない。

 人が傷ついたかどうかは関係ない。大切なのは私が正しいとされることであって、人に好かれることでもなければ人が癒されることでもなんでもない。

 「誰が正しいのか」が人生の題材であって、嬉しいとか悲しいとか、苦痛だとかそんなものはどうでもいいのだ。
 どんなに我慢して数十年を過ごしても、「あなたが正しい」と判定されればうれしいのだ。

 つまらない人生を我慢して生きた甲斐あって、「私が正しい」となったのだから。

 心から幸せと感じることを捨てて、「正しいと認められる人生」を送っているのだから、死ぬまでそれは続く。

 最後まで生きなくてはわからない。
 死んだ後に何を言わるかもわからない。

 なんとかして、死んだ後まで自分が正しいと認められる人生を送らなくてはならない。

 正しいものが変わりそうになったら、変わらないように社会を叩かなくてはならない。

 これまでの生き方が正しいことになるために、破綻した相手もなんとしてでも悪者にしなくてはならない。
 余裕などない。過去のすべてを見張って見張って、周りを監視し続けなくてはならない。

 他人が自分の望まない動きをしないように、死ぬまで見張り続けなくてはならない。

 破綻した相手がいたら、遠く離れてもなんとか自分が正しいことになるために、死ぬまで相手を悪く言い続けて自分が正しくなるよう仕向けなくてはならない。

 気を抜ける時間などない。

 出会ったすべての人が、今後も好き勝手なことをしないように、見張り続けなくてはならない。

 評判を保ち続けなくてはならない。

 人生が長くなるほどに、苦労が増える。

 知らない人が自分にとっては否定的な意見を言っていたら、見ず知らずの人だろうが叩いて悪者にしなくてはならない。
 今までの自分が間違っていると思われないために。

 たった今、まだ出会っていない人たちが自分にとって否定的かもしれないから、知らない人たちが何を言っているのかできるだけ多く確認しなくてはならない。

 自分以外の人たちも、自分のことを正しいと思ってくれそうかどうか、見張り続けなくてはならない。

 なんとかして自分は「素晴らしい、正しい」と思ってもらえるように、自分以外の全人類を見張らなくてはならない。

 死んだ後のことまで気にして生きなくてはならない。

 死んだ後に好き勝手されたら困る。

 もし、もうすべての人たちの評判を良くすることができないと思える事態になったならば、死ぬしかない。
 もう人生はおしまいだ。

 「私がどんな風に頑張ってきたかも知らずに、周りの連中が好き勝手な評価ばかりして、ちっともわかってくれない」

 のだ。

 好き勝手なことばかり言って、私の苦労をわかってくれない。
 私の努力に相応の評価をしない。

 そんな親がいて、子供もそっくりになる。

 誰だって苦労はあるし、自分が知らない世界を生きているのだ。
 誰だって人生があって、自分の思い通りにしてくれないにも何か理由があるのだ。

 それを知らない。知らないから、ない。
 私の人生しかないし、他人の人生はちゃんと考えて「良い風に決めてやっている」のだから。

 「この人はこうすれば幸せになる」とちゃんと考えて決めてあげて、助けてもあげている。
 それなのに感謝しないのだ。

 そんな人の母親は、その人と同じように優しい。
 「この子はこうすれば幸せになる」と考えて、助けもいくらでもくれている。

 それなのに、母親に感謝しないのだ。好き勝手なことばかり言って、せっかくお母さんが人生を幸せにするために未来を決めてくれているのに、文句ばかりなのだ。

 ちっとも母親の苦労をわかってあげない、思いやりもない子供なのだ。

 そして「こんなに頑張っているのに思いやりがない子だ」と評価してきた母親が、その人にとって恨みの対象第一号。
 そして「どれだけ私が頑張っていて偉いのか」をわかってもらうために、人生をスタートさせるのだ。

 他人はみな同じ。知らない人だから。世界にいるのは私とお母さんの二人だけ。

 まずは、お母さんが認めてくれないと人生が始まらない。

 お母さんにまず認めてもらうために、「これだけちゃんとやっている」と見てわかる人生を送るしかない。
 社会人になっても、結婚しても、子供ができても、まだわかってくれない母親。

 どこまでやればわかってくれるのか。
 これでは人生が終わってしまう。

 私が正しいと認めさせる前に、人生が終わってしまう。


 私がもう、できることも残り少なくなっている。

 早くしないと、母親が死んでしまう。


「お母さん、あなたもこの家に生まれたからには、辛いことが沢山あったと思う。
 だが、僕も決して恵まれてはいなかった。皆同じだ。
 代々同じことを繰り返してはいけない。
 あなたは僕をクズだクズだと罵るが、僕はクズじゃない。
 他で何があったにせよ、僕に当たらないでくれ。苦労しているのは誰だって同じだ。
 つらいのは自分だけじゃないんだ。

 クズだと言いたいなら好きにすればいい。
 だがあなたに合わせてクズだと言いながら生きる気はない。

 僕はクズではない。天才だ。
 あなたがクズだから、自分の子が天才だとわからないだけだ。」

 僕は母にそのように伝え、「お前が天才か!おかしくて涙が出る!」と笑い続ける母を見捨てた。

 しかし、母親が最高に完璧だと信じる人たちは、いつまで経っても母をあきらめない。

 僕は自分の母が、そこまで優れていると思っていない。

 三歳児が何かができなくとも、深刻にならない。寧ろ母はよく頑張ってくれた方だ。

 僕と母は苦労の内容も違うし、出来も違う。母はあれで十分だ。

 母は母であって、僕ではない。

 母が望んだように感謝などできないが、そのためにクズと言うならばしょうがない。

 あれを素晴らしいと思い込むために、人生を棒にふるわけにはいかない。


 だが、それでいいのだ。


 優しくもないのに優しい人だと思われたら困る。

 心の中で考えていることにふさわしい、実際の自分と同じ自分に認識してもらえなくては困る。


 本当の人格をそのままに認識してもらえないと、自分が存在できない。

 優しい母ではないと知っているから、僕の中に母は存在する。

 母は僕をクズだと思っているが、実際にはそうでないので母の中に僕はいない。

 僕は僕がクズでないと思っているから、僕の中に僕が存在できる。

 実在の自分と一致した自分に認識されないならば、相手の心の中に存在することができない。


 自分勝手に人を決めつけていたら、誰も心の中に存在できない。

 架空の自分と、架空の他人。

 そして架空の母。

 現実とは違う母を心に存在させなくてはならなかったから、自分は誰の中にも存在しない。

 母の思い込みの世界を一緒に思い込んであげる、架空の世界の物語だ。

 現実の命を使った、架空の世界の物語。

 その世界は親子の中にだけ、存在している。実体験を完全に無視しながら。


 思わせただけの自分を相手の認識の中に生み出しても、実際に存在しないのに結果など出せない。

 思わせただけの架空の存在のふりをするため、自作自演の作業をしなくてはならなくなる。


 そんなことはしなくていい。


 そんな面倒で苦痛なことは。


 いいじゃないか。

 それが自分なのだから。


 自分にだけは理由がわかっているのだから。


 今、実際にここにいる自分。

 その自分の心の中に見合った、本物だと知ってもらえれば安心だ。


 良く思ってもらえるよりも、実際の存在を受け入れてもらうことのほうが、ずっと幸せだ。

 相手の中に理想の存在を生み出しても、本当の自分は誰も見ていないのだから。


 冷酷な女は、自分が相手を恋愛対象に決めると決してあきらめない。

 相手の気持ちを無視し、冷酷なだけに思い通りにすることしか考えない。

 目的を変えることはない。

 自分の人生を生きていない人は、どんなに面倒なことになっても我慢することになっても、もうその目的を変えることができないのだ。


 「自分はこの世界で特別な存在になどなりえない」


 この事実を受け入れられない人は、自分の人生を生きないのだ。


 まだ特別でありたいから。

 特別ではないが、そうだと思い込みたいから。


 あたかもそうであるかのように生きて、不満を持って、人を悪いものにして、それでも「自分は特別」だと思って生きたいのだ。

 特別な人に仲間はいない。


 だから孤独なのだ。


 一体感より孤独を選んだ。

 特別な存在になるために。



 最初から自分はそこにいる。

 出会った時からそこにいる。


 その自分が得られそうな結果だけ得れば、それでいいのだ。

 過ぎたものを得たら身を滅ぼす。


 自然にしていれば、必要なものは手に入るようにできている。


 過ぎたものは必要ないのだ。


 いい女は、特に何もない。

 自分があるだけで、特に何も持たない。

 特別なことは何もない。


 だから、いい女なのだ。



 愛されない女の中には、実在の人間がいない。

 架空の母と、架空の私。

 そこを揺るがすことのないように勝手に思い込んでいく、架空の他人や世界。

 私は守る。

 母が不安にならないように、誰と戦っても架空の母と私の不満で安心な関係を守る。


 母と離れないように。

 私が実在の母を見てはならない。

 私が実在の私を見せてはならない。


 本物の人生を、生きてはならない。

 死ぬまでの辛抱。

 母が死んだら、私が死ぬまでの辛抱。


 勿論、実在の母は私が思うような人ではないし、私も私が言い張っているような人間ではない。

 それは架空の話であって、素の私たちではないのだから。


 最後の時まで、なんとか思い込んで生きるのだ。


 素で生きている人と、現実離れして生きる人。

 それぞれが選ぶ、たった一度の人生だ。

 たった一度の人生だ。


 自分の人生を作りたかった僕の人生にも価値はあるが、母を大事にするために現実を捨てた人生にも美しい親子の価値がある。

 体感していないのだから、絶対にどこかでおかしいと感じているはずなのに、それでも母親の作ってくれた世界を守りとおす人たちが、僕は羨ましい。

 知らない人を攻撃することがあっても、母には甘えて絡むだけ。

 母親が傷ついて絶望することは決してしない。

 振り向いてくれるかも、といつまでも期待してあげる。

 いつまでも求めてあげる。

 母親以外ならば、いくらでも戦うことができる。

 それが恋人でも伴侶でも、我が子でも捨てられる。

 母親さえ受け入れてくれれば、と望み続けるその姿勢。


 母は偉大だ。

 何をしてでも求めてもらえるのだから。


 僕は母の愛を知らない。

 どう考えても都合がいいだけの子供の人生を勝手に使う母親なのに、そこまでしたくなるのが子供の愛なのかと不思議に思う。

 それも無意識にやっているのだから、人間の母への愛着はすさまじい。

 望まない進学、望まない就職、望まない結婚。

 だが、望まれた人生。


 見せてあげるために生きた、道化の人生だ。

 母が死んだあとは、ショーの残りを消化するだけ。

 子供の人生は、母に夢を見せてやるためのショーだ。


 僕はやらない。

 やらされたことがあるからこそ、もうやらない。


 人間は結局自分が大事。
 いかに母親が満足しようが、冗談じゃない。

 僕は僕が満足して納得していないと、気が済まないのだ。

 どうせ苦労は僕がするのだから。

 他人が喜んで自分が満足しないのでは、僕は気が済まないのだ。

 だが世間ではそれを「我儘」と呼ぶ。

 納得しない人生を送り、人に認めてもらうことを「良い人生」と呼ぶ。


 このバカげた社会に終止符を。

 これ以上自分を失ったら、この国は完全に消える。


 侍の国を残すため、自分を捨てたこの社会を終わりにしなくてはならない。