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意欲も連鎖している

 僕は意欲が低下して苦しんでいるときに、師の本を読むことにしている。

 尊敬する人たちの本を読むことにしている。

 考えている人の本を読むと、連鎖が起きる。

 閃きのシステムだ。考えが進む。

 彼らの意欲ある言葉に僕が意欲を増し、またその言葉を他に伝えていく。

 僕の意欲が低下しているとき、師の本を読んだ誰かが僕のもとにそれを届けてくれる。

 不思議なもので、以前から「この人は一門の人物」と思う人がそれを届けてくれる。

 僕のことが書いてある、と教えられ、その本を読んだ。

 書いてあった。

 名は書いてないが、僕のことだった。

 教授…

 多くは語らないが、やはり汲み取ってくれているんだと涙が浮かんだ。

 以前、仏教の教えを伝える先生にもそんなようなことを言われたな、と思い出した。

 真の道理を通した人々が、道理を理解してくれる。

 道理を通す筈の世界で通らない理不尽を見た人たちが、それぞれに道理を説いてくれる。

 何も語らなくとも、気持ちを理解している人がいる。

 何があったのか語らなくとも、その気持ちを理解し、想像できる人がいる。

 尋問のように「事情を説明しろ」と求める人がいる。

 「わかるように説明しろ」「私が納得できるように話をしろ」

 尋問だ。犯罪者扱い。

 人の話を聞くにあたり、基本とされることを守らずに生きている。

 人は話したくないことを聞かれたくない。

 辛いことや苦しいことは、話したくなるまで話さない。

 話したくないこともある。

 話したくない相手もいる。

 過干渉の親は、子供の何もかもを知ろうとする。

 人の心の世界を破壊して回り、安心する。

 背景や事情を全部知りたがる。

 自分のことは隠したい。自分のことを隠しながら、都合のいい部分だけ見せる人は人の背景や事情を知りたがる。

 知りたいのは自分が安心したいから。

 知られたくないとわからない。

 「今ここにいるだけでよい」

 という人が受け入れてくれる人。

 「どういうことか説明しろ」

 と求めてくる人が、形で付き合いたい人。

 「あなたを知りたい」という理由が、裁判をして相手が正しいか悪いか決めるためである人がいる。

 お前はおかしい!社会的に間違っている!立派な人になっていない!

 それを認めさせると、相手が社会的に理想の人に変わらなくてはならないと思っている。

 そんなことを他人にしている自分が、どれほど心無い人かわかっていない。

 昔で言うところの「教育ママ」だ。

 マザコンが好きだ。

 「お前がいけないんだぞ!」とそれがいかに間違っているのか、人にとって酷いことなのか説明すると「相手は自分にとって都合の良い人になる」と考えている。

 軍人だと思えばいい。

 その人の軍に入りたくないならば、拒否すればいい。

 人は最初から何かに属している。

 相手の属するものの仲間になりたいならばともかく、そうでないならばやめればいい。

 相手の周囲にいる人たち。

 話を聞いて「素敵だなあ、仲間に入れてほしいなあ」と思うかどうか。

 本人の周囲にいる仲間たちが、その人の人格を示している。

 仲間同士で醜い争いをしている人もいるし、どう考えても許されないことを「しょうがない」と見過ごしてなあなあにしている人たちもいる。

 相手の人格は、周囲の人でわかる。

 相手が話してくる人たちがどんな人か。

 特に、家族がどんな人か。

 愛ある家族に生まれた人と、仲間になったほうがいい。

 もしそうではない家に生まれたならば、愛ある家族の元に指導され自分も変わったほうがいい。

 自分を受け入れて!と親や家族を引き連れて行っても他人は拒否するだろう。

 自分に都合のいいことも、相手には都合の悪いことがある。

 面倒ごとを引き連れてやってくる人は、安心して付き合えない。

 目的は付き合いそのものではなく、どうにもならなくなった関係の後始末なのだから。

 無抵抗に流されて生きる人は、いつも人の言うなりになっている。

 言うなりとは命令されたわけではなく、ただ相手の発言を自分に「指示されたことにして」行動しているということだ。

 自分が話すことで、相手が自分の行動を決めてくれると期待して聞いている。

 だからただの感想さえ、自分に対する指示だと受け取る。

 自分に指示してくれる相手など、そうそういないのに図々しいのだ。

 「そんなことしていたら、あなたが困るよ?」と言われれば

 「これじゃダメって言われた」と受け取る。

 だから会話もできない。

 「自分はどうなのか」がどこにもない。

 「確かに、これでは私は困る」とか「いいえ、私はこのままでいいんだ、なぜならば…」とか

 自分の理由がどこにもない。

 意思なく生きていると、周囲の反応に合わせているだけなので自分には不都合なことがいくらでも生じる。それを人のせいだと思い込む。

 自分の意思がないことが原因だ。

 自分の意思を生み出すのは自分でしかない。

 本当に過去に感じていたこと、思っていたことを自覚するしかない。

 独立した存在になるのが不安な人は、自分の行動に必ず人を絡めている。

 「あの人がこうしたから、自分はこうする」

 連動している。

 他人のせいではなく、自分の意思なく生きていることが問題なのだ。

 自分の意思を代わりにまとめてくれる親はもういない。というか、最初からいない。

 いないから無理だ!ではなく、いなくても自分で生み出すしかない。

 自分が注目されるために頑張ってきた人は、実は自分でやろうと思えばもうできる。

 もうできるのだが、ここまで我慢して頑張ってきたら望んだことが起きるまで待ちたい。

 損をすると思うから、より損をすることになる。

 何よりも、他人を簡単に使ってしまう。

 自分が何をしてほしいにせよ、それをする側になんの利があるのかと考えるのが正常だ。

 なんの利にもならないことは、しなくて当然だ。

 「してほしい」ではなく「したい理由」が相手にあるかどうかを考える。

 やりたくないことをさせなくてはならないならば、自分はいないほうがいい人になってしまう。

 もし自分が相手と一緒にいたいならば、相手がやりたくないことを求めないようにするものだ。

 「自分のことをわかってくれて、自分だけだと言ってくれる人がいてくれたならば…」

 と望む人は、この壮大な望みに「せめて」とつける。

 そんな言葉をつけても、都合がいい望みであることに変わりはない。

 「誰に」の部分が最も大切だ。他人だからだ。

 そこをカットできないのが、他人だ。

 他人の世の中に出て「自分は特別なんだ」と思いたいのが家から出られない人だ。

 心理的にはまだ母親と一緒にいる。

 他人の世の中に出て、「特別になったら嫌だな」と思うものだ。

 特別じゃないほうがいい。

 そして誰から見ても特別にはならない。

 特別な存在ではない。

 ナルシストは、自分がみんなにどう思われているのか気になる。

 昔付き合っていた彼女がよく聞いてきた。

 「私のことどう好きなのか教えて」

 「私のどこがよくて付き合ったのか教えて」

 説明し辛いことだった。

 好きで付き合ったわけではなく、根負けして付き合った人だった。

 だが彼女は「付き合ったんだから、好きだったんでしょ」ということにしていた。

 「好きじゃないなら付き合わないから」だ。

 好きじゃないと言っても、脅してくる人もいる。

 誤解させた!と大騒ぎする人は、異性にモテない。

 ちょっと優しくすると勘違いする人もいる。

 「勘違いさせた責任を取れ」と求められて仕方なく付き合ったことは何度となくある。

 年を取った人ほど、強烈になる。若い女子はそこまでしない。

 大学生くらいまでならば、わりとあっさり諦める。

 自尊心が高い女になると

 「やだ!勘違いしちゃった!」と恥ずかしがる。

 「私がそうであってほしかったからなのね。」と即自覚する。

 更には「ごめんなさいね」と謝ってくる。

 そして僕は「なんて素敵な人だろう」と尊敬し、魅力を感じる。

 責任を取らせたい人にも、それなりの過去があるのだ。

 根拠なくそこまでのことはしない。

 僕には無関係なところで、何かがあったのだ。

 知らない誰かにとって都合のいい女になるために頑張った人なのだ。

 僕にとっては魅力的ではないが、過去の誰かにとっては魅力的な人だったのだろう。

 そう見せていることで、そう思い込んでくれる人だったのだろう。

 無関心な人に好かれるための努力をしたのだから、そうなっても仕方ない。

 そして僕が好きになることはなくても、別に構わないのだ。

 好きになるなんてことは、努力してもどうにもできないから。

 我慢した人は、少しでもいい目に会いたい。

 我慢した分だけどこからか褒美をもらいたい。

 誰でもいいから褒美をくれ!になっていく。

 普通なら許せないことに、黙って耐えてくれる人を求めている。

 罵っても貶しても、いくら責めてもやってくれない人はやってくれない。

 そんな方法をとるのに、と思うが、選り好みまでする。

 「この人にやってもらいたい」と勝手に決める。

 「私が決めたのに、どうしてやらないの!」と怒る。

 「この私が選んでやったのよ?嬉しいでしょ」と言った人がいた。

 こういう傲慢な人ほど、向こうから好きですとやってくる。

 こっちから言い寄りたい人は、自分が特別好かれていると思わない。

 本当に謙虚だからだ。特別なことはしていないからだ。

 特別なことをせず、いつも通りでいても魅力的な人が、好かれる人だ。

 こうして書きながら記憶が蘇るだけで、気分がいいのが好きになった人だ。

 最近は春に近づき、いろいろなところで良い話を聞く。

 もちろん、そうでない人もいるだろう。

 良い話を聞くなと思うのは、僕自身の調子が良くなってきたからなのだ。

 教授が本に、僕の過去の経験は「想像を絶する」と書いていた。

 想像を絶する。

 確かに想像を絶する体験だった。

 だからこそ、人に話したくないし、話す必要もないと思う。

 ただ、そういうことがあるのだと知っていればいい。

 口に出さずとも経験してきたから、人の優しさに感謝できるのだ。

 僕は自分の親の体験も、想像を絶するものだと思っている。

 だからこそ、自分だけではないのだから、甘えてはいられないと思う。

 僕だけではない。

 比較するのは赤の他人ではなく、親のことだ。

 親より恵まれた環境下にいて、親が自分の年にやっていたこともできないようならば、それは現実の劣等だ。

 親を超えていけないようでは、生きている意味もない。

 僕はそう考えている。

 代を重ねるほどに、一族はより強くならねば生き残っていけないのだから。

 物理的なことではなく、心理的に自分が一族に所属できていない人は、進むべき道もわからないのだ。

 「この家に生まれた人間だ」と自覚し

 「この家の人間として、今生を始める」と覚悟する。

 覚悟してもしなくても

 もう始まっているのだから。