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日本全体が間違っている

 これについては、はっきりと確認し自覚しなくてはならない全体の問題だ。

 日本は全体が間違った方向に進んでいることに、気づかなくてはならない。

 僕自身も様々な確認をしつつ、事態の把握に努めてきた。

 僕が個人として持ち合わせている材料は、まず旧家に生まれ武士の教育を受けてきたこと。近代社会に似つかわしくない「昔のまま」の環境で育ったこと。そしてレジリエンスパーソナリティと呼ばれる自己の成長が大変早い人格であること。現実の認識能力が高いと一言で言っていいのではないかと思う。

 これらの材料を使い、先人が残す知恵や知識から学び、また見分して考察を続けている。

 最上塾オンラインに投稿した動画で、僕の育った環境を写真つきで解説した。どこから来たのかで、同じ現実に直面した時に違うことを思うのだ、と説明するためだ。
 僕のように極端な例は、例としては参考になる。

 この日本は、諸外国から見ると「個ではなく集合体として生きる民族」とされるが、それ自体に全く気付いていないのが集合体である我々日本人ではないだろうか?
 生まれた時から当たり前になっているので、自分自身が集合体の一部として生きることになんの疑問も持っていない。

 この中で、かつてサムライと呼ばれた人たちだけは、意思があり個として生きていたと江戸時代に日本を見分して周った外国人が書き残したと言う。

 僕はこの違いがどこから発生したのか、それについてここ数年調査見分している。
 そして侍の末裔は自分たちだけが受けた「個となる教育」があることに気づき、早くそれを世のために生かしてほしいと願っている。

 一族の教育が確立していた家では、家の教育が外に出ないことが当然となっているので、比較すらせずそれに気づくことが困難であると僕は考えている。

 順番として、家族という集団の自立、その後個としての自立なのだろう。
 今なお続く上流階級の人々は、今ある集団の維持に大変な苦痛を強いられているが、それもまた得るものの大きさが成せることだ。

 多くの人が、『侍の考え方』と聞くと、大日本帝国時代のそれを思い浮かべるかもしれないが、全くの逆であると断言しておく。
 かの時代における優秀劣等により価値を決める考え方は、武士のそれとは真逆である。精神の向上を目指す侍の考え方とは相反するものだ。

 しかしながら現代日本が完全に劣化版大日本帝国になり、優劣により人が人を排除する動きを作り上げていることを僕は問題視している。
 そして大衆が忘れてはならないのは、この考え方の元にある『最も優れた存在』が血によって成り立つ人間である、ということだ。
 つまり優秀な血とは家柄の良い人間のことであり、九割以上の人はどこまで頑張っても手に入れられないものである。

 この考え方を押し上げているのが、我先にと認められたがる大衆である。
 血筋や家柄だけは、後から努力して得ることができない。
 どんなに優秀になってもそれは有能な兵隊を意味するのだと忘れてはならないのだ。

 そして劣等感に苦しみ、優秀とされる人々に嫉妬する人もまたこの価値観を不動のものにする援護をしている。

 先日久方ぶりに僕の元に来てくださった方が、師である加藤諦三先生の文章が難しいということを教えてくれた。
 この率直で屈託の無い意見こそ、大変貴重である。
 そして彼は決して理解力が低いのではなく、理解力が高いから「難しい」ということが「わかる」のである。

 真の無知、仏教における「無明に覆われた人」とは、「自分が理解できていないことを理解できない」人のことだからだ。
 「知らないことを知った気になっている」これはあるアメリカの心理学者の表現である。

 彼は「理解」とは何かを理解していた。
 理解とは、体験を伴うものである。
 つまり体験していないうちは、「そうなんだ」と知るだけで、情報を得て理解はしていない状態なのだ。

 彼は前回僕の元に来た後、今までにない行動により新たな経験を増やしてきた。そして、以前は気づかなかったことに自力で気づいた。
 自己を改革し、発展させてきたのだ。

 なんという方だろうと、初対面の時にも驚いたが感服した。

 魂は教育によって受け継がれる。
 武士とその他における違いについて考えながら悶々とした日々を送っていた僕は、彼がやはりその血族だと知り感激した。

 我々日本人はまだ未発達であったかもしれないが、我々なりに独自の成長を目指し、精神を鍛える方法を考え続けた。
 そこで生まれたのが、武士の生き方だ。
 精神の鍛練方法として、武士道や茶の湯を好み、また学びたいという外国人も多くいる。

 僕はこの現代社会を見るにつけ、もう日本の魂は消えゆくしかない運命なのかと思うこともある。
 我々の成長というものがあり、そこから外国を取り込んで発展していかねば我々の国にならない。

 日本人は集団として存在したがるため、集団からの離脱を「離反」のようにとらえるが、そうではない。

 母子が子を自然なままにして一体化することで、子供の精神が安定し人格の基盤を作ることが理想的だ。
 しかし、実際には集団の一部と化した母が、子に対して自分との一体化を求める。母が子に安心させてもらうために、同じ考え方や同意を求めるのである。

 子が同意してくれることで安心する、親子逆転劇である。

 他者に対して自分への一体化を要求する、個別化できない人。
 その要求の代償となっているのが、我慢の行為である。

 目的は、他者に対して不安定な人格の基盤の補助をさせることであり、自我の確立から遠のいていく行為である。

 まず集団から離れ個として存在することが先で、自分探しや自我の確立などその遠く先の話である。

 集団から離れ、独自の発想で生き始めてからが自分の人生の始まりだ。

 ところが、集団と一体化する満足感を得ていない人、つまり母子の一体化で安定した基盤を得ていない人は、他人との同化を目指してしまう。
 言われたことを言われた通りに行い、有能だと認められれば満足が得られると勘違いしている。

 これこそ、母に対して親子逆転してきた人がなんの疑問も持たずに繰り返している行為である。

 母親を喜ばせ続けることで、いつか満足と安心が得られると思ったのだ。
 しかし実際には、喜ばせ続けることで不満がたまるだけなのだ。

 「何かを得るためにやっている」と思い込んでいるが、実際には「母がこれからどう出るか不安なので、自分が安心するためにやっている」のだ。
 母をあやしてやることで、自分が不安を取り除けたのだ。 

 母のみならず、父もだ。親のヒステリーによって育った子供は、人格が不安定だ。
 ヒステリーを起こしたかと思ったら、態度が変わって優しくなる。
 子供はまだひとつの顔しか持たないので、親の豹変ぶりについていけない。無意識の中には大きな不安を抱える。

 子供は自分が現在持っている顔以外のものは、恐ろしく感じる。
 何よりも幼児から見た大人は想像もつかない生き物だ。親がそれを忘れている。子供も自分も同じだと思っている。

 子供にとっては大変な精神的苦痛である。

 ヒステリーを起こし、後から説明しても優しくしても既に手遅れなのである。それでも、子供がこれから問題を起こさないか更に不安になる親は、またしても自分の安心のために子供にあれこれと教育を施し更に子供を欲求不満にしていく。

 自分が起こした事態の結果を受け入れる覚悟ができない親なのである。
 未来が安心安全なものだと子供に安心させてもらいたい。
 何よりも「うまくいっている子供」以外は見たくないのである。
 現実に何が起きても対処する覚悟をしない。
 悪いことが起きませんように、と自分が安心するために常に誰かを操作する動機で生きる。親子関係から続く、癖である。

 現実に直面する覚悟ができるまで終わらない。

 「良い面以外は見たくない」

 自分の理想的ではない面を、受け入れることに失敗した親。
 自己肯定できない人は、自己肯定のために他人を否定する。
 そして肯定できないものを排除する。
 否定されたら肯定「してもらえる」ように変わろうとする。意思がない。

 楽は受け入れ、苦は排除。
 人間として個になれない人である。

 敢えて、このような表現をさせてもらう。

 僕から見た昔で言うところの「庶民風情」は精神的に弱すぎる。
 自己鍛錬をせず、常に甘やかしや楽なことばかり追い求め、欲に弱く他人を尊敬できない。

 実は、これは僕が小学生の頃に思ったことである。
 「でも今はみんな同じだし、それは差別的な考えだから。」と口には出さなかった。

 人を理解しなくては、と友人たちの背景や気持ちを知る努力をしたとき、まず最初に思った。
 「なんて精神的に弱く、忍耐力の無い甘えた子たちなのだろう。当たり前のことにこんなに弱音を吐くなんて。」

 脳裏に下賤の者という聞きなれた言葉が思い浮かんだが、それは差別だと自分を制した。そして差別的な言葉が自然に思い浮かぶ自分を恥じて、人を平等に扱い、それぞれに尊敬できる部分を見つける努力をした。

 彼らの優れた部分、自分にない部分を見つけ、尊敬した。

 彼らは勉強ができることを、「褒めてもらえること」と考えている。だから有能さをアピールしたい。

 それは、「当たり前のこと」だと思っていない。
 勉強は後に使うから、「覚えていかねばならない必要なこと」だと知らない。点数で上か下か決まるのは、他人と争うためではない。
 自分の出来具合を確認するためである。

 かつて「町民風情に負けるんじゃんないぞ」と言われた意味を、おそらく誤解して受け取る人がいるだろう。

 その意味は「我々は今までも当たり前にやってきたのだから、今初めてやるような人たちより劣ることがあれば恥だぞ。」という意味なのだ。
 おそらくそれすら、学ぶことを全くしてこなかった人たちは誤解して「馬鹿にした!」と解釈するのだろう。

 自我ある国の人々の競争と、今我々日本人がやっている蹴落としあいは全く違う。
 日本人は同化したがっているので、「自分もできてます!」と認めてもらえれば一体化させてもらえると思っている。
 「できてます!」=既に経験があり、これから同じように独自の能力を発揮していけます、という宣言になるとわかっていない。

 「じゃああなたも仲間だね」となると思っているのだろう。

 「じゃあ早くやって」と要求されるだけなのだから、安全どころか危険である。

 この逆転世界の考え方が、「できていると褒めてもらえる」と勘違いした人たちなのだろう。

 ただ、僕は多くの人がこのままの生き方を続ければ、破綻していくであろうと思っている。

 金持ち喧嘩せずと言うが、それなりのものを既に維持して体制が継続に入っていた人々は、「体制を維持する方法」を知っている。
 これらは家の教育だ。他人に教えない。一族を守るためにあるからだ。

 恐らく、家庭内の教育が無い家が多いと思われる。
 そのための他人とのやり取りを知らず、すべての人と敵になる方法しかとらない。上下関係を作り出すからだ。

 心理的にだ。

 心理的に上下関係が生まれたとき、戦いは始まる。
 物理的に上下があっても争いにはならない。

 まず我々が学んでいかねばならないのは、「人を尊敬する」ということではないだろうか。

 他人と比較して優越したい人は、嫉妬して敵意だけはいくらでも持つ。
 しかし、人を心から尊敬しない。

 嫉妬した人は、人を馬鹿にするか卑屈になるかのどちらかである。

 この姿勢が、ある程度の位置をキープしていた人々には無い。今後の危険を生むと知っているからだ。

 この方法を学ばないことは、多くの庶民層にとって今後も困窮していくだけの大きなマイナスになるだろう。

 僕も意志ある人などほぼ見ないが、まず集団から脱することだ。
 自分で考えて決めることを訓練しなくてはならないだろう。

 アメリカ人の子供は、当たり前にそれをやっている。いきなり大人になってできたわけではない。

 明治維新後、初めての選挙が行われたとき人々はなんの考えも持たずただ人に倣って投票したという。

 意志ある人たちのその時の落胆ぶりは、如何ほどだっただろうと想像する。

 僕は自身が坂本龍馬と同じブレインタイプだと指摘され、少し調べたりドラマを見たりした。確かに、自分と考え方が似ていると思った。

 当時、彼らは戦った。
 なんのために戦ったのかよくわかるが、あの時流された血はなんだったのだろうかと辛い気持ちになる。

 早すぎたのだ。
 考えて意思を持つ。それが当然だと思っていた一部士族の人々は、権利さえ渡せば日本人もアメリカ人と同じようになれると思ったのではないだろうか?

 あんな風にできれば、とは思うだろう。
 しかし、あれは自我がありそれぞれ独自の意見を持っても、成り立つだけの民族の基盤あってのものだ。

 「これで自由になれるよ」と権利を渡せば誰もが喜んで使うわけではない。
 まだ個として存在できていない人にとっては、集合体からの離脱の方が恐ろしい。

 なんだかわからないけど、怖いから今まで通りでいい。となるだろう。

 日本を動かすのはそんなに難しいことではない。
 外から力を加えれば、極端な話、意のままに操れるだろう。全体が意思のない集合体だ。外からの力に応じて簡単に動く。

 集合体から離脱し、個として存在するにはどうしても考えなくてはならない。個が独立し意思を持った集団とならねば、外からの力で簡単に押し流される。

 これまでの知識、経験、そして自分の内から起きる感覚。
 それらを総動員し、まだ見ぬ未来に向かう強い意志を生み出すのだ。

 「葛藤する」ということから逃げて、精神の自立など到底無理なのだから。

 全員で同じものを目指し、同じような目的で学校を選び、就職をし、同じような人間になり、同じような結婚や人生を「作る」。

 言われた通りに作った創作物。

 そこに個人の意思はない。

 だからこそ、この集合体が今、何によって動いているのかという根源の追及を僕は重視している。

 細かく説明すればキリがないが、「何かおかしい」と疑問を持っている人々は、憶することなく集団の意思から離れ、自分の考えで生きろ。

 僕たちの国は僕たちの意思で作らねば、もう日本ではないのだ。