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まだ見ぬ友人へ ~せめて〇〇さえあれば、という生き方~

まだ見ぬ友人へ

 せめて、〇〇さえあれば…

 そんなことを思ったことがあるだろうか?

 それとも今、君はそう思っているだろうか?

 その生き方がどんなものか、知っているだろうか?

 「せめて〇〇さえあれば」

 それは、自分が既に自分の道から撤退してしまった人の抱く願望だ。

 何かに屈して、自分の道を進まずに歩いてきた人の思うことだ。

 

 自分の道を生きる、という生き方をどう思う?

 多くの不幸な人には、自分の道を生き、好きなことをしていられる人生は楽しく問題のないものに違いない、と思えているようだ。

 しかし、実際には違う。

 自分の道を進む生き方は、戦うべきものと戦い続ける生き方だ。

 休む暇はない。

 「何かいいことないかなー」などと空想に浸る余裕はない。

 

 少しずつ少しずつ、戦って前に進んでいくのが自分の道を生きるという生き方だ。

 戦って生きていない人は、他人と戦ってやっつけて、自分の平和を得ようとする。

 既に屈して奴隷化しているから、それが人生だと思っている。

 その人生の中で、面白いことやいいことが起き続ける、また今不満があるものが無くなり、なんの問題もない人生になればいいと思っている。

 それが、幼児の幸せだ。

 怖いことは何もなく、問題も特になく、不安のない日々を過ごし、毎日同じようなことをしていれば、少しずつ何かがうまくいって、次々欲しいものが手に入る。

 一般的に幸せと呼べそうな形に少しずつ近づく。

 それが幸せだと思っている。

 しかし、そんなものになる日は来ない。

 だから、今の不満や苦労は我慢するが、せめて〇〇さえあれば、の願望になってしまうのだ。

 

 ちなみに僕は戦って生きている。

 だからこそ、休みたくても休めない。

 殆どの人にとって、辛いことは仕事だけである。

 休みたいけど休めないのは仕事だけ。

 それ以外、つまり仕事以外は得に何もやらねばならないことがない。

 勿論、子育て、というものもある。

 だがそれらは全て日常のことであり、自分の人生特有の問題ではない。

 課題、と言った方がいいだろう。

 人生は問題を消していくものではなく、次々現れる課題を解決していくものだ。

 人生の課題は、常に正解を知らない。

 何をどうすればいいのかわからない。

 その課題をクリアし続けるのだ。

 

 僕も時々嫌になったり、休みたくなったりする。

 しかし、一度でも道を脱線してしまうと、その先には何もないと既に知っている。

 だから逃げるわけにはいかない。

 毎日毎日似たようなことをして、未来のことも「とりあえず今のようにしていれば生きてはいけるけど」と思っている。

 その「とりあえず安心安全を生み出している今」の状況が、既に地獄のものである。

 なんの問題もない。

 特にどうしても乗り越えなくてはならない課題がない。

 つまり、既に自分の人生の道を外れているのだ。

 

 自分の道を進んでいれば、次の課題が必ず出てくる。

 自分の意思で進んでいるから、「とりあえずこれでいいか」と落ち着いて止まる時間などない。

 「どうすればいいのか、わからない」

 それが最も恐ろしいことなのに、目に見えて問題がないから気づくことがない。

 形になった地獄を見るまでは。

 

 しかし、戦っていればある意味常に地獄だ。

 僕も時々休む暇くらい欲しいと思う。

 考えずにいられたら、教えられた通りにしているだけで生きていけるならば、そんなに楽なことはない。

 「楽ができる。」

 一生楽ができる。

 未来に進むために考えなくてはならない、不安を乗り越えなくてはならない。

 それらを免除してもらえる。

 考えずとも、安心して未来に進んでいける。

 年を取っていける。

 死ぬまで。

 それが自分を捨てた人たちが選んだ、「幸福」である。

 

 僕はそんな幸福はいらない。

 心から喜びも湧いてこないような、形だけの幸せもいらない。

 どうせ最後には死ぬのに、何が起きるか怖いからという理由でなんとなく他人に合わせて他人と同化して、その中で他人と似たり寄ったりのくせに「自分だけを特別に思ってくれる人」というあり得ない矛盾した願いなど持ちたくない。

 他人と同化して誰から見てもわかるような似たり寄ったりの人間が、口先で如何に自分について説明しようが「特別な人」になれているわけがない。

 本当に特別だと思ってくれる誰かが欲しいならば、自分が他人と同じであってはならない。

 他人と似たり寄ったりなのに「特別な人」だと言ってくる人は、逆に怪しい。そんなわけがないのに。

 

 君よ、誤解するな。

 人生を生きながら、安住の地で問題なく生きられるならば既に死んでいるのだ。

 問題なく、今のままで生きて行ける。

 他人をやっつければ幸せになれる。

 あれさえあれば、あれさえなければ。

 その願望は自分を失っている証拠なのだ。

 

せめて〇〇さえあれば…

 

 では、それがないままならどうなのだ?

 今幸せではないならば、それは不幸と呼ぶものだ。

 今が不幸であると気づける人だけが、幸福になれる、と精神分析学者のウルフは言った。

 

 今、あなたは幸せか?

 そう問われて、幸せじゃない、と不満を述べたとして

 何々が無いから

 あの人が~だから幸せじゃない

 何かのせいで不幸、という人々だ。

 更に

 「自分は問題ないけどあの人たちが…」

 問題を人のものにすり替えてしまう人。

 そして最上級は

 「幸せ」

 という嘘。

 わかるだろうか?

 「自分は幸福です。」

 と本人が言い切ってしまったら、もう出口はひとつもなくなるのだ。

 

 自分で自分の首を絞めるのだ。

 本当は乗り越えなくてはならない課題があるのに、問題がないものとした。

 だから、もう解決するべきものすらなくなり、どこにも出口のない世界で

 「特に問題ない」

 と言い張り続けるのだ。

 自分には関係ない、幸せになるためになんの必要もない何かに時間と労力を使い続けながら。

 

 どうだ?

 恐ろしくないか?

 もしそう思うならば、解決しなくてはならない本当の課題から目を逸らしてはならない。

 やってもやらなくてもいい、義務でもない、強制されるわけでもない。

 放置しても明日も今まで通りに生きて行ける「問題」から、逃げてはならない。

 いいか、君よ。

 友人として言っておく。

 てめえの命を使いながら生きているならば、その命が自分だけの力で今そこにあるのではないと自覚して、てめえの課題から逃げるんじゃねえ。

 君の命を生かすために使われた沢山の力が、命が、今の君を支えていることを、支えてきたことを、忘れるな。

 考えたこともないならば、思い出せ。そして気づけ。

 その責任の重さに見合った生き方をすれば、自ずと幸せになるだろう。

 そのようにできている。

 全ては自然のままに。

 

 では、僕も乗り越えるべき課題に向き合って生きていくから、君も逃げずに進んでくれ。

 そうすれば、いつかどこかの道中で出会うこともあるだろう。

 

まだ見ぬ君の友人

 最上 雄基