祖母が亡くなり、僕はやっとやるべきことが終わった、という気持ちです。
子供の頃から祖母の面倒はどうするのだろうかと心配でした。
母は祖母は一人で平気だと言い張っていましたし、自分も一人で大丈夫だと言っていました。
しかし、大丈夫かどうかという問題ではないです。
人間は年を取れば若い頃のようにはいきません。
親の面倒を見るのは当たり前のことです。
いつか僕が故郷に戻らねばと思っていましたが、東京での「母の人生」に引きずられていきました。
母は結局、自分がちゃんとできているという姿を見てくれる人が欲しかったのです。
母はどこの誰でもない人でした。誰の子にもならず、一人で生きていました。
自分一人で生きている人は、誰の子でもないのです。
僕は生まれた家の子でした。
祖母の介護が終わり、母は既に亡くなっていたので本当にもうこれで終わったのだなと思いました。
気に入る気に入らないで相手を選べないのが親子というものです。
好きか嫌いか、何をしたかどうかもどうでもいいのです。
それが「選べない」ということです。
しかし、選べないものは選ぼうとしない方がいいのです。
最初から親の面倒を見ることになると考えて生きていなければ、親の老後になって「そんなこといきなり言われても困る」と言い出すような人生になっているでしょう。
そして、「いきなり」ではないのに、あたり前のことを計算に入れずに進んできた人生は、自分の道ではない、続きのない人生です。
僕はたまたま人より早い方でした。
母の方が先に亡くなりました。
祖母には、もっと良くしてあげればよかったと後悔することもありますが、最後に足しげく通ったお陰でそれなりに納得できる見送り方ができました。
葬儀が終わると、リュックに遺骨を入れて祖母と一緒に幼い頃歩いた街を廻りました。
これで一緒に連れて帰れる、と安心しました。
今は核家族化が進み、祖父母と共に育たない人も多いです。
しかし、祖父母と共に育つ方が子供のためにはなります。
親の親という存在がいて、子供は過去から今に至る経緯を想像できるようになります。
母は傍若無人でわがまま放題の人でしたが、祖母は忍耐強い人でした。
ヒステリーを起こすこともなかったです。
僕は母が嫌いでしたが、それでも親の面倒を見るのはやはりしょうがないことだと思っていました。
「一人で大丈夫!」
これを「えらい、立派」だと思っているのは、成熟していない証拠です。
一人でなんでもできないから、仕事に逃げて子供を放置し、なんでも子供のせいにして自分は関係ないかのような顔をするのです。
子供がどう育ったかが自分のせいではない、という親。
よくいますが、「私はこの子を育てていない」と言っているのと同じです。
「私はちゃんとやってきたのに、この子は特別最初からおかしかった」
そんなことを言う親もいます。
生きるにおいて当たり前のことから逃げると、本当にろくな人生にならないのです。
僕は社会的には偉くなった人たちでも、親のことをほったらかしにして生きている人は尊敬しません。
ご先祖様を忘れて生きている人が如何に成功したとしても、どこの誰がなんのためにそんなことをしたのか、疑問に思います。
社会的に立派なことをして、家庭の中では家族を大事にしない父親は大勢います。
そんな人を尊敬はしません。
腹立たしいことばかりだった親の老後の面倒を見るには、親を超えるしかありません。
客観的に親を見て、いつまでも子供の視点でいない。
「この人も人間なんだ、思ったより子供だったんだ。」
と諦められるようになれば、致し方なしと思えるでしょう。
それが苦痛であるかもしれませんが、それが人生の苦というものです。
子育てが苦痛で苦痛でしょうがなかった親の面倒を見るのは、苦痛です。
しかし、生まれる時も死ぬ時も、人間は周りの人に大いに迷惑をかけなくてはならないものですから、それが与えられた運命なのだと諦めるしかないのです。
僕もやっと肩の荷が下りた気分です。
まだまだやらねばならないことは残っていますが、それでも子供の頃から心配していたことは、これで終わりました。
人生など、不自由なものです。
なんでもかんでも自由にできません。
最初からそうなのだから、運命を受け入れて可能な範囲でできる限り懸命に生きた方が、現実的な幸せを手に入れられます。
「自分だけ」の願望のために生きた人は、どこまで他人に依存して夢を叶えてもらっても、不安しかありません。
しかし、人間が漠然と思い込んでいる通りに年をとっても内面的に成熟はしないものですから、それもまた人間なのだと受け入れるしかありません。
物質的なものばかり、形に見えるものばかりに気を取られて生きていた人は、精神面は疎かになってしまうのです。
皆さんが親の面倒を見ることを考えていないならば、現実的に考えて誰かがやらなくてはならないわけで、赤の他人に押し付けることなど考えず、これが運命なのだと受け入れて生きた方がいいです。
長い目で見て未来の安心を手に入れるためには、自然の摂理に抗わず生きた方がいいです。
どんなに威張り腐って強気に生きてきた人でも、いざ死にそうになれば驚くほど弱腰になるものです。