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私をわかってくれる人、はいない

 私の気持ちをわかってくれる人、を求める人は多いが、自分が何を求めているのかわかっていない

 私の気持ちに同意してくれる人は沢山いるのだから、だったらもう解決しているはずである。

 私をわかってくれる人、を求める人々は、結局「私の答えを私の代わりに言ってくれる人」を求めている。

 状況を把握し、考え、気づき、そして結論を出す。

 この一人でやらなくてはならない思考を、他人にやらせようとしているのだ。

 状況と自分の感情を訴え、そして他人に考えさせて気づいてもらって、結論を出してもらいたい。

 滅茶苦茶な話である。しかし求めているのはそれなのだ。

 みな救われるために、社会的信頼度が高そうな誰かに縋る。

 しかし、一般に人気の成功者や、またエリートである誰々のような人々の話が正しいと思うのは間違いである。

 人がどうしても避けたいらしいことがある。

 それが解脱である。

 解脱とは、例えば男尊女卑で権威主義の夫が、今まで暴力を振るい言うことを聞かせてきた妻の気持ちを理解するために達しなくてはならない境地である。

 「今まで自分が罪だと思ってもいなかったことを、罪だと認めなくてはならない」

 ここを乗り越える人はまずいないのだ。

 人間は、物質界において自分が守られる立場になると、弱い者を間違っていることにして助かろうとするのだ。

 それが親子であっても伴侶であってもだ。

 そして、多くの人が「正しい答え」をもらおうとしている人々は、少なくとも生活に苦労しなければならない家の人ではないし、寧ろ最初から安心安全なレールを全て敷いてもらえたような人たちである。

 最初から優位に立つ枠の中に生まれた人々だから、親の力に守ってもらえるという安心感を持っている。

 本人は無自覚であっても、最初からあちこちに伝手がある。

 しかし一般人はそんなものを持たない。

 貧しい庶民のことを理解できない人々が言う「こうすればいい」をみな自分のことを言っているのだと思って聞いている。

 想像がつくわけがないのだ。

 例えば、大学に行くために奨学金を得る人がいる。

 それを「決まった分だけ返せばいいのだから、なんてことはない」と考える。

 数字の上での話である。心理的な側面を無視している。

 体験したことがなければ、数字ではじき出して「これなら可能」という判断しかしない。

 しかし体験している人々の気持ちが同じことをしていても全く違うのだ、と想像ができない人たちの話を自分の答えにしようとしている。

 他人の話を聞いて、気持ちを想像するなんてことが簡単なことだと思わない方がいい。

 100人に1人もそんなことはできない。

 わかるのは、ただ「困ってるんだな」「不安になっているんだな」程度である。

 本当の意味で共感できるほど、想像してくれる他人がいると思わない方がいい。

 僕自身も、そんな人に出会ったことは一度もない。

 僕は最初から諦めているから不満がないだけで、人間は物質的な損得でばかり動くのが当たり前なのだと思っている。

 他人は冷たいと思うかもしれない。

 だが、そんなものなのだ。

 自分の身になって、体験してきたかのように想像してくれる人はまずいない。

 人の気持ちを理解するには、相手になってみる必要がある。

 しかし、例えば暴力を振るっていた夫が妻のことを想像したら、今までの自分を否定しなくてはならなくなる。

 「今まで自分は間違っていた」と自覚しなくてはならなくなる。

 絶対に正しいと信じてやってきたのに、自分が妻に対して悪いことをし続けていたことになる。

 妻がわかってくれないのではなく、自分の方がわかっていなかったのだと認めなくてはならなくなる。

 ちょっとした勘違いでも人はそれを恥ずかしいと思い、慌てたり人を攻撃したりするものである。

 それが「今まで絶対に正しいと思っていたこと」であり、自分の存在意義を支えていたような内容を根底から覆さなくてはならないのだから、認めるわけにはいかないのだ。

 「今まで自分の人生は間違っていた」と認めなくては、妻の気持ちを理解して心から詫びることなどまず不可能だ。

 しかし、夫自身も今まで外に出て頑張ってきた。我慢して社会で働いてきた。

 その自分を立派だと認めてこそ欲しくても、その行いが間違っていたなどと認められない。

 
 「これからの時代はこうしなくては」

 そんな意見をあちこちで見る。

 しかし、往々にしてそれは庶民とは言えない層の人々の出した結論であり、彼らの体験してきた人生は現在の日本の多くの人々とは異なる。

 自分たちが体験もしない世界を生きて、それが世界だと思って考えている「自分たちを遠くから見ているだけの人々」の考えを自分のものかのように解釈してみな従おうとする。

 自分の身のことを言っているわけではないのだから、そんなことをしていたら破滅である。

 僕は、大衆がせめて自分の近しい立場、また状況の人たちと当たり前に力を貸しあっていければ良いのにと思っている。

 身近な人々とは破綻して、遠くにいる自分とは身分違いの人々の意見に正しさを求める。

 崇拝である。

 どこまで行っても、みな学歴崇拝をするなと思う。

 かくいう僕は、貧しい貧しいド底辺の人間である。

 今も悩みは一般庶民と似たり寄ったり内容である。

 ただ、僕の場合は明治維新負け組側にいた家の人間であり、その後詐欺に遭ってド底辺と言える状況に落ちてきたから、持てる人たちのことも想像がつくだけである。

 勝ち組に居続けながら反対側の人々のことを考えている苫米地博士のような人もいる。

 だが、彼とてやはり物質的に将来が不安になるような人々の気持ちは想像がつかない。

 人間は結局自分の身をかわいがる。

 だから守られた枠から出ないままで生きようとする。

 それが悪いと言っているわけではない、だからこそ加藤諦三先生など守られる側にいた人々の中に存在する良心のような存在は必要だ。

 苫米地博士は「江戸時代の方が優れた社会であったのは言うまでもない」と断言していた。

 確かに、それは言うまでもない。

 言うまでもないが、その後「勝ち組」にのし上った明治崇拝をする人々は、更に状況を悪化させる帝国主義のやり方に今も陶酔している。

 学歴崇拝というのは案外恐ろしいもので、「自分は正しい、相手は間違っている」というナルシシズムをより加速させる効果がある。

 より難しいことを知っているから、自分たちは正しい。

 それは例えば妻が何を言っても、夫は「こいつは社会を知らないから何もわかってない!」と憤慨し、妻の状況など想像すらしないような場面に現れてくる。

 だから、子供は当然の如く蔑ろにされる。

 仏教において「天人」と呼ばれる人がいる。

 解脱することはできない。

 人間界に生まれなくては解脱はできない、とされる。

 それなりに幸せな家に生まれ、守られ、そしてそれなりに楽しみもある日々を過ごすので、解脱しなくてはならないほどの苦痛を味わうことがないのだ。

 要は「そこまで困る試しがない」のだ。

 良心ある人々も、自分たちがしていることが間違っているとは全く思わない。

 より優れた知識があり、経験があるから、間違っていない、と考える。

 しかし、他人になってみたことがないのだから、それは確実に正しいなどと言えないことなのだ。

 物質界において、見えないほど遠くのものを目指して生きるのは、不幸の始まりである。

 借金してまで大学に行き出した大衆は、もう末期に入っていたと思う。

 親にそこまでの力がないならばないで、それでも幸せに生きていくことはできただろう。

 家族仲良く力を合わせて生きていければ、それだけでよかっただろう。

 僕の母はそれを言葉には出せる人であったが、実行はしなかった。

 「そして困っている母を子供が助けて生きようと思えば、それだけで家族は幸せになれる」

 だから、お前は早く私を助けろ、と強要する人であった。

 愛がなければ、何もかも失われていくのだ。

 そしてこの社会は庶民が作ったわけではない。

 教育も何もかも、社会が用意していたものだ。

 それが間違っていたからと言って、更に庶民に努力を強いて、自分たちの力で勝手になんとかしろと要求するのはお門違いである。

 だから僕は、「皆は今いる場所で幸せになることだけを考えたほうがいい」と考えている。

 「いつかは俺もあれになる」と見えない先を目指すより、今ここに愛や幸せがあるかどうかをよく考えた方がいい。

 もっとすごいものになって助かろうとしてはならない。

 自分は今の自分のままで幸せにならねば、死ぬまでなれもしない他人を追いかけなくてはならなくなる。

 弱い立場にありながら、他人に攻撃的、というのが最悪な人である。

 そして庶民の手が届くところにあるものがみな間違っていると言われたら、誰も何もできなくなる。

 何が正しいのかと他人に教わらなくてもいい。

 何を自分は欲しているのかを考えるのだ。

 僕は、愛が欲しかった。

 だから自分が優れているなどと認められ、ちやほやされ特別扱いされるなんてことは求めなかった。

 今まで自分は全て間違っていた、と小学生の頃に認めた。

 だから人を恐れて生きていないし、自分だけがこんなに辛いと思っていない。

 「私の気持ちをわかってくれ」と要求してくる人は、相手を孤独にする。

 僕自身が母にやられてそれをよく知っていた。

 だから早くにそこを脱した。

 多くの人が物質的な幸せを求めて、「自分より持っている人」の話を聞き、それに倣う。

 「より持てる人」になろうなろうとする。

 しかし、たった今他人と協力して生きてもいけない人間に、そんなことはできない。

 金沢に戻り、仲良くなってくれた方と話していた。彼はこう言った。

 「要は金なんですよ。皆結局は金。」

 当たっている。

 そして彼は、東京に行き大学を出たが、金沢に戻ったという。

 金沢は海も山もある。好きな釣りもいつだってできる。東京にいれば何をするにも金。故郷ならタダでできることさえ金がいる。そして滅多にできなくなる。

 うちの人間は、そこでみな東京を選んだ。自慢できる方を選んでいった。

 叔父のひとりは官僚になった。今自己啓発書を書く成功者たちならば、間違いなくその叔父を一番立派だと言うだろう。

 だが、そのために残された両親は弟が一人で面倒を見た。

 金にならない人の世話は、弟が一人でやらなくてはならなくなった。

 その恩恵は、どこに戻ってくるのか?兄は東京に定住し家族を持ち、戻っては来ない。

 弟は離婚し、子供とも険悪になりバラバラに暮らしている。

 仕事が忙しいという理由で娘を放置してしまい、娘は出て行った。

 弱い者を見てやらなくなった。だが叔父は叔父で、兄に押し付けられたものを全部なんとかしていた。

 叔父一人でどうにかできるわけではない。そして末子は早くに自殺した。

 下から順に切り捨てて行ったのだ。

 弱い者から犠牲にして生き延びている家族なのだ。それでも長男は官僚になれば一人だけ社会で認められて生きてはいける。

 故郷も生まれた家の家族もみなバラバラにして、一人で偉くなっている。

 僕も「切り捨てられた人間」である。

 切り捨てられた者同士ならば協力してやっていけるのかと思っていたが、そんなこともなかった。

 「全部なんとかしてくれる誰か」を求める人はいても、弱い者同士力を合わせていこうとする人はいなかった。

 僕が頑張っていたならば、「この人になんとかさせよう」と気に入られに来るのだ。

 それが友人であっても、そんな真似をするのだ。

 誰も彼もが「権威」という神を崇拝している。人間なのに。

 誰かが自分の答えをくれると信じて、救いを求めている。

 今そこにあるものを見ない。今そこにいる我が子を見ない。

 そして「いつか今よりすごい人」になるために生きている。

 今ここで幸せになる、という生き方を選ばない。

 故郷に戻れば苦がないわけではない。

 どこにいても苦はある。

 だが、釣り好きの彼はよくそこで金沢を選んだなと思った。

 聞いていれば理由はわかる。

 子供の頃から故郷の友達との楽しい思い出があるのだ。

 外からの力が街を崩壊させていることに、強い抵抗がある。

 共同体感覚は残っているのだ。

 僕は本当にどうしようもないド底辺の人間で、親に助けてもらって生きられたことなどない。

 虐待はあっても、守ってもらえた試しなどない。

 殆どの人は「憧れる人たち」の言うことを聞こうとする。

 自分の人生など想像もつかない、気持ちなどわかるわけもない人を選ぼうとする。

 しかし、どんなに守られた生活を与えられても、自分を無視され自分の気持ちが想像もできない人といるのは苦痛なのだとわかっていない。

 人間は自分にとって都合のいい「嘘」は本当であることにしてしまうものだ。

 人間がみな平等であるなどと口では言っても、自分だけ優遇された枠に入れてもらえるならば、それを正しいとして間違った人生を生きたがるものだ。

 裕福で守られた枠に生まれた人たちも、生まれたところで幸せになるしかない。

 だから貧しい暮らしをして生きてきた人たちも、そこで幸せになるしかないのだ。

 貧しさが不幸なのではない。

 貧しいから不幸だと思ってる自分の解釈が、不幸な人格の人のものなのだ。

 加藤諦三先生は、大変珍しい人なのだとよくわかった。

 物質的に成功していれば、それは成功者だと誰もが思う。

 しかし彼は、見た目には成功しているように見えて、本当は心の中で絶望している人がいる、と知っている。

 誰から見ても成功している羨ましい人なのに、それでも心の中では

 「自分に絶望している」

 などと、誰がわかるだろうか。

 僕はまだ経験不足だが、僕もわかる。

 だから僕に「滅多にいない」と言ったのだろう。

 彼がそう言うのだから、彼のこの人生の中で、滅多に出会わないのだろう。

 然しながら、やっと「男尊女卑の夫婦」が理解できたところだ。

 自分でも気づかなかったが、僕は夫婦そのものを見て育っていないから、偏見がまるでない。

 自分は差別などできるわけもないが、どんな様子なのかも想像がつかなかった。

 内側で見れないならば、外側で見るだけ。

 外ヅラの夫の方を見ることで、中身も想像がついた。

 みな社会の「勝ち組」になろうなろうとするが、そんなことよりも生き抜いていく勝ち組になった方がいい。

 たった今の生活がこれからも続くと思ったら絶望しかない、という今ならば、なぜここにたどり着いたのか、自分は何を欲しがって今ここにたどり着いたのか、振り返ってみた方がいい。

 人は自分が絶対に正しいと思って生きてきたことを覆したくないものである。

 しかし、自分自身の過ちを認め、正しいと思い込んでいたことが間違っていたと認めない限り、何を訴えても想像すらしてくれないような相手に、いつまでも縋りつくようにくっついて生きなくてはならなくなるのだ。