自分の未来のために、自分の幸せのために

 今回は「庶民が幸せに生きるため」に何が必要なのかについて考えたので、意見したいと思う。

 今の日本は上が混乱してしまっていて、我々庶民には何が正しいのか、何をすればいいのか、よくわからない。

 学歴を手に入れればいいのか?金を手に入れればいいのか?政府の言うことは正しくないのか?子供をエリートにすればいいのか?メディアは嘘をつくのか?ネットなら正しい情報があるのか?

 僕は現在なんでもないエリートでもない庶民である。

 僕自身の人生の体験から、底辺の庶民の日々はよくわかっている。

 ありがたくも中道を行くに丁度いい運命を僕はいただいたわけだが、その立場から大多数である庶民の生き方、幸せな人生について考え、説いていきたいと思う。

 あくまでも僕の軸は精神面側であるから、物質的なものにばかりとらわれることはない。

 そして、今まさにそれが最も重要であると言える。

 なぜならば、世間ではモノや金、国のことに関しても形のことばかりが議論されているからである。

 形の安全が優先だから、精神面は後回し。

 まず安全な形を作ってからだ!と思えるだろう。

 しかし、それは逆である。

 はっきり言うが、今の日本人には「やる気がない」のである。

 そしてそれを責めたところで、みなそうなりたくてなったわけではない。

 「やる気が出るように何か用意してやれば…」という発想での解決は、根本的な原因を無視している。

 やる気があればなんでもできる。と言った人がいる。

 やる気がないならば、何を用意されても何もしたくならない。

 僕たち庶民の立場からすれば、偉い人たちは散々悪いことをしてもゆるされるのに、その下で苦しむ立場にありながら、

 「あの人たちが卑怯でどうにもならないから、お前らが頑張れ!」

 と更に頑張ることを要求されても、頑張る気にならない。

 「だったら上が先にやれ!」

 と言いたくもなる。

 僕は、「常識の概念を変える」というやり方を選ぶことにした。

 少なくとも、精神的な方から考えれば、皆さんが崇めて憧れているような人々ほど幼稚園児並みの人たちはいない。

 ウォール街は幼児の集まりである。餓鬼なのだ。

 人の苦しみを想像もできない、欲を抑えられない、人間も国もおもちゃにできるならばそれを使って贅沢して遊びたい、そんな人々である。

 とんでもないものを生み出してしまったなと思う。

 そして、「教養を高める」ということについては僕も教わってくださる方々に試してみたが、「既に教養ある人々」もこれについては考えた方がいいと思った。

 人間は生きる道中が違う。見てきた景色が違う。

 自分たちと庶民では、同じものを見てもまったく感覚が違うのだということを、自分たちの方が自覚した方がいい。

 差別ではなくただの事実であり、彼らが悪いわけではない。

 

 苫米地博士が、相変わらず良い本を書いておられた。

 「利権の亡者を黙らせろ」という本である。

 この日本の現在の仕組み、裏側や嘘について多く触れ、東北に道州制をという「新しい仕組み」の話もあった。

 僕は相変わらず最後にはちょっと泣けた。感動した。

 彼の祖父は、大学教授であったと書いていた。

 祖父が残した論文の意志を彼は受け継いでいる。それを激として胸に刻んで活動しているようだ。

 彼は幕臣の末裔でもあるから、武士の道に反しない立派な生き方をしていると僕も大変尊敬している。

 何よりもそこである。人間性が大切である。どんなものを持っても、ろくな使い方をしない人もいるのだから。

 以前ならば僕も気にならなかったが、多くの悩める人々の話を聞き、今は僕も多少気になるところがある。

 彼は震災のことに触れ、東北の今後について考えを述べていた。

 僕の今回の意見は、様々な方面の先生方の意見は一理あると思った上での内容である。

 特に道州制の話については、僕は大賛成の立場である。その細かな仕組みはやはり知識や教養がある人々が組み立てるものだから、仕組みを作るためには苫米地博士のような人がうってつけである。政府が早く彼を採用して参謀にした方がいいと思えるくらいだ。

 僕は「なぜいつもいつも東北ばかりが…」と彼らのこの百五十年を思うと、辛い気持ちになる。

 苫米地博士の提案は良い方法だと思う。しかし、それは全ての人々が「誠実に仲間を思って動くならば」である。
 人様の考えを聞いていると、やはりそれぞれが「自分を基準」に人を考えている。特に彼のように本人自身は誠実に生きてきた人の場合は、良い方法があればきっとみんなはそう動くと信じている。

 だが、少なくとも現状を考えると、そうはならない。

 「命令系統にいる人たちだけは最低限志を持っていること」が必須となるだろう。

 僕は相変わらず「理屈抜き」を優先である。

 知識や経験は積み重ねるまでに時間がかかる。得られるものと得られないものがある。

 それでも尚役立つのは、自分自身である。

 以前、仙台に行き、僕は仙台を体験した。

 ただ体験しながら、「何がおかしくなっているのか」を考えていた。

 嘘が山ほどある。そして隠れた利権が山ほどある。

 一見なんでもない、ひとつひとつ聞けば納得の理由があるものでも、全体像を体験した時に必ず違和感があるはずだ。

 そして違和感はあった。

 それを言葉にまだ変えられないが、やはり何か違和感があった。

 僕は今も仙台を全身で想起できる。あの違和感はなんなのか、いずれ答えは導き出せるだろう。

 僕はいつもこの順序で結論を出していく。結果として生まれたものを実際に体験しているのだから、おかしなところがあれば「すべて体感でわかるはず」という考えで生きているし、本当にそうなる。

 一瞬で「なんか変」と気づくかどうかだ。その力を僕は最優先にしているし、それが恐らく僕に備わっているものだ。

 仙台は変だった。仙台の人々が変という意味ではない。

 生気は感じられなかった。なぜなのだろうか。独特の生気のなさが感じられた。街は綺麗に作り直されたが、何か違和感はあった。

 陰でズルい人たちが卑劣な真似をして形を作らせると、作っている人々は善良であっても必ずそうなるのだ。人々は何か見えないものを食われている。恐らく、食われ続けている。

 僕の故郷でも起きていた。

 それが僕は断じて許せんのだ。

 共に何百年を生きてきた、家族同然だった領民たちは、今も真面目にせっせと頑張っているのに、横から突然だまし討ちに合わせるような人々に遭遇し、警戒し、意欲を失っている。

 

 ただの庶民に、国の行く末など考えている余裕はない。

 それが現実だ。

 それについて「それでは困る、国民なのに」と言いたくなる人々の気持ちもわかるが、

 そうなるように教育したのは

 誰だよ

 ということを無視しないでほしい。

 僕は幼いころから、皆がどうやって生きてきたのかをよく教えられていた。

 それも、超大昔、太古の日本と呼べる昔からの話から聞いていた。

 「……そしてうちが皆のリーダーをやっていたのだ。うちにあるものは何もすごくない。勉強ができても偉くはない。皆が生きるために必要なものを作っている人たちが、一番偉いんだ。」

 という説明を受け、

 「だから墓とこの地を守りなさい。」

 と命じられる。

 僕の子供の頃の感覚は正しかった。東京に来て現実に生きるということに気づいた時、真っ先に疑問に思った。

 「あの人たち誰?」

 政府の人たちのことである。

 あの人たち、薩長の流れのままに居座っている人たちだった。今もまだ差別は続いている。だから東北勢などちっとも入っていけない。

 司馬遼太郎の小説に乗っかって、武士の風上にも置けない大虐殺を美談に仕立て上げるのはどうか。

 その話が正しくなれば、東北の人々の誇りはどうなる。

 彼らの誇り高い魂は、どうなる。

 そのような憤りは今もある。

 だからこそ、「なぜまた東北が…」と彼らを不憫に思わずにいられない。

 しかし、日本の大多数はそれも想像がつかない。

 が、昔の話だけではなく、ハーバードだ、スタンフォードだ、医学界だ、官僚政治だ、グローバルだ、ITだ、もう全て遠いところの話である。

 現実的な想像など、つかない。具体的に脳内でイメージして説明することもできない。できないが口に出しているだけだ。本当はわかっていない。

 では日本のことなら、と思うなかれ。

 江戸時代は…、も想像がつかない。

 そして僕は自分自身の基本に立ち返る。

 何が最も大切だったのか。それを考え続けている。

 今、日本の保守派に見える人々の中には、不思議な人たちがいる。

 自民党の人々にも多くいるから、すっぱ抜かれた記事や映像で見た人も多いだろう。

 「日本は神の作った国」と信じて天皇陛下を崇めたい人たちだ。

 という、神話があるよね、ではなく、本当に「よくわからないけどきっと特別な何かがある」と信じている人たちも多数いるのだ。

 とても偉い人たちの中に。彼らは神のために国民が死んでいくことはしょうがないと思えている。

 が、自分たちが死んでいく気がない。

 武士は先陣で戦う。領民を守るために。

 しかし、彼らは領民に戦わせて、自分たちのように力ある人間は国のためにも特別守られて生き延びなくてはならない、と考えている。

 国民を「コマだと思って戦略ゲームをしている気分」で政治を考えているのだ。ヒトラーと同じだ。国が無くなったら国民なんていてもしょうがない、という考えだ。

 そんな時は僕は口出ししないが、いい年をしてそんなことあるわけないとなぜ思わないのだろうか。

 神様が現実の世界に舞い降りてきて、など、本気で信じていたらどうかしている。現実に心から信じられるものは、現実の体験を伴ったものだけである。そんなものはただの妄想である。

 なにせ、うちだって神様の一人を祀っているのだから。理由はちゃんとあるし、それは全て皆が仲良く生きていくためのものだ。

 僕は一切の不思議現象を信じない。確認でもしない限り、信じない。

 仏教や精神の世界については、少なくともイメージするならばそれしか説明のしようがないからそう伝えるだけだ。

 現象を形ある理解ができるように、想像世界として話しているだけだ。

 実際にそれが物質的に存在していると思ってはいない。

 神々しい光を放った如来が肉眼で確認できる物質界で目の前にやってきたら、「お前誰だ」と即問うだろう。

 「きっとどこかに神様が…」を、大人でも信じるんだな、と驚いた。しかしそのようなものを今も信じている、ある意味で純粋と呼べる人々は、やはりナルシシズムのせいなのだろう、涙ながらに自分たちで作った話で盛り上がる。

 僕はちっとも盛り上がれない。帝という存在についても、一応聞いて育った。逆に、そんな超常現象的なものだと思っていない。

 サンタさんはサンタ協会みたいなものがあって、派遣されているのに、神様はいると思えるのだろうか。

 本当に?大人なのに?知りもしないのになったこともないのに、そんなこと信じられるのか?

 そのために国民が戦って死んでいくことは美しいと思えるのか?

 「誰にいくらもらっている」と聞きたいくらいだ。

 そんなに美しい話ならば、自分が一番に死ねばいいのに。

 

 明治日本を崇める人々はどうもそうした神秘的な話を大人でも信じているらしい。

 僕はそんな空想は信じない。空想を交えて現実の未来を考えるものではない。確実に破綻しかない。

 そんな理由を現実に交えてくる時は、確実に考えることをやめている。

 何かほかの、そうなると都合がいい理由が必ずある。

 

 全ては幕末に始まっている。後ろ向きに走る流れは、あそこではっきりと方向性を決めた。

 全国の神様を全部ぶっ潰して、天皇一強にする作戦、だったのだから。

 現実の世に神を降臨させることで、全ての人々の支配を可能にした。
 ひとつの意思で国民全体を動かすことに成功した。

 それについては「仏教抹殺」という著書で鵜飼さんという今は寺の副住職の方が詳しく述べている。

 百五十年前のその事件が、今にどう影響するか、それを理解できる人が見当たらない。

 人間の動きは人間の精神が先にあるものだ、となぜか殆どの人が知らない。

 形があり、形を動かしていると思っている。

 「言われたからやった」

 言われた後に、精神が動いた、感情が存在した、だから人間は動くとなぜか殆どの人は「知らない」し「考えない」のだ。

 それが僕には理解できない。自分の中で感情や発想が生まれていることに気づいていないのだろうか?本当に動物的な感覚しかないのだろうか?

 

 しかし、みなまるっきり覚えていないようだが、間違いなく「最初はお百姓さんしかいなかった」から始まったこの国である。

 国が先にあったのではない。人が沢山いて国が生まれたのだ。

 今の日本は、上に登った馬鹿たちが、馬鹿なことをやりすぎて大混乱している。

 戦うべき相手と戦わず、日本を自立させるどころか相手のいいように従い、更には上から下までどこからでも甘い汁を吸い、東北の復興ひとつにしても、何かするならば常に「どう儲けるか」を考えて起きた事実を利用する。

 指一本動かすにも、何か儲けがないと動かない人々である。最悪に怠惰で強欲な人々である。庶民にはまずそこまでの外道は滅多にいない。

 今苦しんでいる人々が全て支えてくれている。自分たちが贅沢のために悩んでいる時間さえ「苦しんでいる人たちに待ってもらっている」のだと想像すらしない。

 みな「自分がない」のである。

 僕たちは身近で見る人たちのことでばかり考えているが、僕たちの生活そのものを作る立場にある人たちも「自分がない」人であふれかえっているのである。

 「そんな馬鹿な、偉い人たちは自分たちとは違う」

 これが知りもしないものを崇拝する人々である。そのような発想が「偉くなったら何をしてもゆるされる、誤魔化せる」を可能にしている。

 そして、自分自身も「自分がない」場合は、外ヅラを見て「権威」という理由だけで知りもしないのに安心しきって彼らに未来を任せてしまう。

 妄想で生きている偉い人たちと、妄想にすがって生きている庶民たち。

 それが今のこの国の現状である。

 しかし、だからと言って庶民にそこまで遠いところで起きている話をしても、想像はつかない。

 「想像がつくように頑張れ」と言っても、実際僕はやってきているが、それは大多数には「無理」であると判断した。

 「やればできる!可能だ!」

 というのは確かに理屈ではそうだし、可能だ。

 だがそんなことではないのだ。問題は「今すぐ解放されたい」という人々が大多数なのだ、という現実だ。

 大衆が自分の好きにしたら、国が崩壊するという不安は必要ない。

 なぜならば、人間はまず自分自身が生きている場があり、仲間が大切になり楽しい日々があるから、それを守るために自分が何かしたいと思うものだからだ。

 現状を知らせて問題を提示しても、「動機が生まれない」のでは意味がない。

 家族も仲間もいない人たちが、「この原因はあいつらだ」と聞いても憎しみしか湧いてこない。

 しかし、憎しみに駆られて「いつかはきっと」を目指した時、大衆は更に不幸になってしまう。

 それは「今はまだ幸せにならない」という選択に他ならないからだ。

 僕が言えることは、「本当に欲しいものを手に入れろ」ということだ。

 本来の自分に戻り、本来の自分が欲しかったものが何か思い出すのだ。

 それは諦めなくてはならないもののはずだから、自らの力で得たいものが何かを自分自身に聞き、知るのだ。

 僕は勉強も知りたいものがあるからしてきた。だが、僕は仲間との思い出もあるし、誇りに思う歴史や故郷が、何よりも仏の道が既にあった。

 少なくとも僕は「本当に自分が欲しかったもの」を手に入れるために努力したからこそ、今がある。

 今、自分も失い、人生も失い、家族も崩壊している人たちにそれは無理な話だ。

 そんなことより、「生きている」という実感の方が先だ。

 一応「大衆にそこまではできない」と権威ある人に機会あらば意見はしてきた。

 だがかつてある大学内で意見した時と同じく、「たった今底辺で苦しんでいる人たちにそんな余裕はない、今すぐ力を合わせて策を講じるべき。」と言っても、みな自分のことばかりだった。

 今苦しんでいる人たちがいるのだから、と言っても「でもねえ」とそんな話を無視して、結局は自分たちの問題ばかり話している。

 志を持つ、ということは聞けば確かに理想的である。

 だが、僕たちが生きているのは常に「今」なのだ。

 大きなものを動かす志があれば、人間ひとりひとりを蔑ろにして許されるという発想は、自分の存在を勘違いした傲慢極まりない考えである。

 「今が幸せではない人たち」に「これからを良くするために」の方法を提示し、今からやるべき努力を求めることは、最早いじめにしかならない。

 みな社会に良くなってほしいのではない。それは今を生み出す原因ではあった。そのせいではある。だが、そうではない。

 みな、今自分自身が今の日々の中で幸せになりたいのだ。

 不幸になってしまった、一部の人間の犠牲者と呼べる人たちが「まず自分自身の幸せをかみしめること」が最優先ではないだろうか。

 今贅沢三昧をしている人たちを支えているのは大衆なのに、その上なぜ贅沢三昧している人々をそのままにしながら、彼らが社会のこれからのために努力しなくてはならないのか。

 今までだって、言われたとおりにやってきた。

 言われたとおりにやるなんて、考えなしで確かに良くない。

 だが、元々日本はそういう国だった。

 農民が武士になろうとしなかった。

 そんな必要もなかった。今を生きていればそれでよかった。

 武士は彼らに上で起きていることを説明もしないし、必要なことはそれぞれが分担してやっていた。

 毎日農作物を作っている彼らに、武士が自分たちがどうにもできなくなったという理由で、「お前たちももっと勉強しろ!」とは言わない。

 これだけ善良で真面目な国民を抱えながら、この状態に陥らせたのは全て上にいる者たちの責任でしかない。

 大衆は愚かだ。それは昔からだ。世界的にだ。

 しかし、それが必ずしも「非人道的」であるとは限らない。

 大衆は愚かであると同時に汚いものを知らないからこそ、怖いものを見ないからこそ、多くを持たないからこそ、権威ある人々より遥かに真面目で、欲少なく、善良だ。

 殆どの大衆は、国を動かすような場でしていることを知れば

 「そんなことしていいの?悪いことじゃないの?」

 と思えるだろう。それが必要なことは僕もわかっているし、それが現実に皆が生きるためだと思えば悪いことになるとかならないの話ではない、という現実的な理屈も理解はできる。

 しかし、友達ひとり見殺しにできない人が大衆には沢山いる。

 権威の方にはほとんどいない、当たり前の善良さをもった人たちは大衆の方にこそいる。

 彼らしか持たないものを捨てることになるならば、全員に同じことをやらせるべきではない。

 その善良な国民性こそ、その国民そのものこそ、この国の宝なのだと上に立つ者たちはわからないのだろうか。

 暴動ひとつ起きない。大人しく言われたことに従う。それが愚かだと思える人にはそうなのだろう。だが、僕は自分の故郷の人々がなぜそのように動くのか、その理由を知っている。

 彼らの善良さも愚かさも単独のものではなく、それもまた歯車のひとつとして必要だったものなのだ。

 また、「愚か」=「学がない」という意味に使われているが、実際は違う。

 実際には、愚かな大衆の中にこそ、愚かではない人がいる。

 言葉のトリックみたいなものだ。逆に肩書を持つ人は真に愚か者でも智慧がなくても、あたかも賢人であるかのように扱われている。

 学歴エリート社会となったこの百五十年で、人々の価値観は変わった。
 社会的に「これが良いもの」と全員が思い込んでしまい、持っていない人たちこそ持っているものに、誰も目をやらなくなった。

 

 少しずつしか動かせない。動かない。無理強いは必ず破綻を招く。

 なんとかせねばと思った人々が、大衆に向けてしか発信できない理由はわかる。

 みな権威に向かって言っても無理だと既に知っているからだ。

 だが、ならば大衆に向かって伝える限り、言わねばならないことの優先順位は変わってくる。

 視点が違う人々には、必要なものが他にある。

 僕は可哀想になるのだ。

 こんなこと、二百年前ならあり得なかった。

 戦争があったから、世界とつながったから、理由はいくらでも挙げられる。

 だが、この事態に上がなんとも思わないなど、武士の世ならあり得なかった。

 「ひもじいよー米をくれー」

 と山の上から皆で城に向かって叫んだら、殿が気づいて翌日米蔵を解放して皆に無償で米を配った。僕はそのような土地の人間である。

 殿は我々の父であった。領民は子供たちであった。それが武士と農民の関係だった。

 彼らは毎日毎日働いている。好きなこともせず、好きなふりまでして、意欲的なふりをして、幸せなふりをして生きている。

 それなのに、力を持つ連中が次々甘い汁を吸うためにズルいことをしまくったら、真面目な人たちもやる気なんて無くなる。

 生きる気力もなくなる。

 だからこそ、これを読んでいる恐らくただの庶民であろう人々は、大事にすべきことの順番を考えてほしい。

 第一に、ご先祖様を、一族の老人を大事にすること。

 頭を下げて言うことを聞くと言う意味ではない。

 どんな親でも祖父母でも、繋がりあるところがあるならば嫌でも面倒は見ていくことを考えるのだ。

 今ここだけ言うと、恐らく誤解は生じるだろう。

 そのうちまた詳しく別の場でなぜ必要なのか、どうすることなのかは説明するが、自分の過去がご先祖様なのだから、この現実に生まれてくるためにはどうしても必要なのだ。

 自分がどこの誰か、なぜ生まれたのか自覚するために、未来を生み出すためにはどうしても過去は必要なのだ。

 過去を消した人間に未来はない。

 そして、子供たちの未来は「親たちの未来ではない」と忘れないでほしい。

 子供たちの未来が「今の自分たち」なのであって、自分たちの未来が「子供たちの未来」なのではない。

 時間が後ろ向きになってしまって、みな概念が逆転してしまっている。

 自分の今を生きること。

 それが子供たちの未来を生きることになり、今の自分たちが未来を作っていることになる。

 そして自分たちの未来は老人であり、老人を大事にすることは未来の自分を大事にすることに他ならない。

 自分の未来を大切にし、過去である子供たちを大切にする。

 我々は、何度も人生を繰り返しているようなものなのだ。

 

 少なくとも、自分が生きていられるのは今だけである。

 自分が今を生きるために、今に「降り立つ」ことを考えて欲しい。

 脳内に作られた「他人の世界」を追い出し、内側から生まれてくる「自分自身」を呼んでほしい。

 大衆は確かに愚かだ。

 そして教養もない。

 だが、最近になり大変博学な人たちの意見を聞いていて気付いた。

 みな自分が知識や教養があるために、自分たちの方が庶民より上だと考えている。自分たちが正しいと思い込んでいる。

 はっきり言えば、大衆を馬鹿にしている。

 彼らからこそ学ぶものがあるのだと考えない。

 これからの日本人に、知識や教養が必要になるという話も理解はできる。

 だが、彼らが生きているのは今なのだ。

 今幸せにならずに、来年死んだらどうするのだ。

 たった今なのだ。

 たった今、家族と口も利かないし、心のよりどころもないのだ。

 その彼らが本当に救われるためには、心の中から自分の仏を呼ぶしかない。

 ここまで洗脳が進んでしまうと、どう頑張っても「普通は」が出てきてしまう。

 しかし、それを覆して僕は普通ではないがそれが真実であるという道を選び、亡くなった母にそっくりになってきた娘もやっと気づいた。

 

 みな冷静になって考えてほしい。

 僕は歴史や真実を知るために、「実際に体験した人たち」に話を聞く。

 実際に体験している人たちに聞くのが一番だ。当たり前のことではないだろうか?

 しかし殆どの人は正しいことを知るために、「権威あるもの」「既に正しいとされている何か」を探す。

 そのようなところには、必ず利権が絡んでくる。強者の都合が入ってくる。

 そんなものひとつも関係ない、嘘をつく必要性がない人たちに話を聞いていくのが一番である。

 それぞれが、自分が見た光景を自分なりの表現で教えてくれる。

 僕はただそれを聞き、何が起きているのかを理解し、そして何をすべきか考えるだけだ。

 今、悪いことをしている連中は確かにいる。

 だが、彼らを倒さなくては幸せがないわけではない。

 幸せは感じるもの。生きていることに意味を感じられる日々を送れるならば、それでいいのだ。

 「そんなことしたらこの国が…!」

 と上に行けば行くほど、真面目な人たちもみな口にする。

 それは「自分たちがしている心配」であって、庶民が今抱えている心配ごとではない。

 何よりも、その大きな問題をなんとかするために、「学のある人々」が存在しているのではないのか?

 知ったことを庶民に教えて、なんとかするのは庶民なのか。

 力を持ったならば、その力を持って自分たちがなんとかしろ。

 庶民たちはそれぞれが自分の力でできることをやっている。

 世間的には立派な内容だから騙されがちだが、よくよく見ていれば人より多く身に着けたはずの人たちも、結局は「この国がどうなるのか自分が不安になっているだけ」だ。

 結局は「自分より下」に動いてもらうことを考えている。

 そんなことはどうでもいい。

 死ぬときは死ぬ。滅ぶ時は滅ぶ。

 本当の最善は「みな元気で健康に、今を幸せに生きること」だ。

 滅びることを恐れてはならない。

 守りたいものもない人間が、強くはなれない。

 守りたいものを自らの手で育てることこそ、今を生きる喜びとなるだろう。

 本当に滅ぶのが嫌ならば、まず生きることだ。

 ひとりひとりが今を生きて、今に幸せを感じたならば、人は自然に必要なことを必ずやりたくなる。

 残したいものひとつ持たない人たちを、幸せになるために、とこれ以上鞭打つことに僕はどうしても心苦しい気持ちしか湧いてこない。

 僕の一族は、日本においては太古の昔と言えるほどの大昔から、近隣の領民たちの生活を見守ってきた。
 僕は苫米地博士が祖父の言葉を受け目的を持つように、曽祖父より残された一族の精神を重んじて生きている。

 領民と共にみな元気に生きていくこと。それが最も大切なことだ。

 百五十年前の争いなど、領民たちには全く関係ない。

 どこぞの貧しい人々がエゲレスに渡り、すっかりビビッて戻ってきたとしても、無関係な領民たちが苦しめられる謂れはない。

 「これからは自由だから」とあたかも不自由から解放してやったかの如く見せ、同じ教育を強要し、義務とした。

 結果「国のために働け」をやり、全国から一気に税を徴収するスタイルを常識にした。

 この部分については、確実になんとかせねばならないだろう。

 それでも今はそれも考えなくていいのだ。

 だが、なぜ僕がこれを書くことにしたのか理由も書いておく。

 見てきた限り、高学歴かつそれなりの活動をする人々にとっては、国のこと、権威の近くの話、教養がなければわからない問題は、「自分が持っているからそれ自体が大したことに思えない」のだ。

 一般庶民にとっては、異国の大学で博士号を取った人々など、自分たちには理解不能なすごいことを教えてくれるに違いない「神様のような人」に見えてしまう。

 僕のように図々しくも人類はみな平等に価値があると「決めて」いる人はまず滅多にいない。人間は生まれ育ちや肩書によって、価値にランク付けがされるのだ、と殆どの人が「決めて」いる。

 人間には体験から想像可能な範囲が限られている。

 想像もつかないところの話をされても、みな「違う理解」をしてしまうのだ。

 それは混乱を招く結果にしかならない。
 なにせ社会で今まで違うことを教わってきた。しかも国家や権威ある者に。
 その権威とこっちの権威の違いは、みなわからない。それはしょうがないことだ。

 自分ではどうにもできないところの問題について話をされても、どうすればいいと教わっても、今何をすればいいのかわからない。

 そんなことを考える前に、自分が誰なのかもわからないのだから。

 そしてその状態で知識や権威を得た結果、非現実的な妄想を交えた正しいようでおかしな方向に向かってしまう。

 国の未来を考えて、国民の人生を考えなくなったら国はおしまいだ。

 「国が大変なんだから!」という話ではない。

 それはかつて、やったではないか。

 みな頑張って勉強して、それが何かになると信じて生きてきた。

 この百五十年、真面目にやってきた。

 七十年戦争しまくるために、国民は身を粉にして学び、働いた。

 その間、真面目にやっているようでいて、甘い汁を吸い続けていた人々、自分たちの利権だけは手放さないようにしてきた人々は許されてそのままにしてもらえるのに、なぜ何も知らない大衆だけがこんな扱いを受けねばならないのだ。

 自分のことは自分でやる、それは当たり前だし、自分たちの未来なのだから自分ができることをして考えるのも当たり前だ。

 だが、既にそんなことを「上から他人が言えた状態」はとっくに過ぎているのだ。

 もう、そんなことを求められる状態ではないのだ。

 人々の精神を見よ。

 もう中身が死んでしまっている。

 魂が生まれないまま生きている。

 まずは精神の自分が生まれてくることが先だ。

 一人一人が今に幸せを感じて現実を生きるようになれば、自ずと最善の結果に向かう。

 自然の摂理だ。

 普遍なる真理を信じ、あるがままみな生きていくのが一番だ。

 すべての執着から離れた時、必ず最も善き結果になる。

 

 率直に言って、僕もここまでとは思わなかった。

 自慢ではないが、僕は学生時代はすっかり不良になって落第寸前の非優等生だった。

 それでも、自分が追究したかったことは一人で調べ確認し続けてきた。だがその行動も「自分の家が他の家と違うから」でしかない。

 行動にはみな理由がある。

 たまたま手に入れた人はそうなるべくしてなっている。だからそれを使えばいいだけだ。

 僕は故郷に戻る度、善良な領民の子孫たちが「人を騙す人」に傷つけられた話を聞き、とても辛い気持ちになる。

 騙す方が悪いに決まっている。

 だからと言って「もう親切にしない方がいい」という方向に進んでいくことも間違っている。

 僕がそれを見分ける目を持つのは、今を生きているからだ。

 圧倒的な道徳性の前に、人を騙す輩は決して勝つことはできない。

 勝負にならない。勝負をしないから。

 この意味が今は誰もわからなくていいのだが、とにかく、ひとりひとりが「自分自身の感じる幸せのため」に生きてほしい。

 僕もそのために力を尽くそう。

 このままではみな不幸のうちに人生を終え、更なる不幸を生み出してしまう。

 人々が一日も早く、この地獄から抜け出し

 「これが幸せだったんだ」

 と気づいてくれることを願っている。

 大衆が自由に幸せになった時、必ず上も変わっていく。

 幸せになるためにあれこれを身に着けるのではなく、多数の人々が今すぐ幸せになることで、「今までの方法は間違っている」と示すことができるのだ。

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