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子供の自然な行動を否定して矯正してはならない

 普通はこうするものなんだよ

 と教えることそのものが悪いわけではない

 「たった今何かをした我が子の行動を否定している」ことが問題なのだ

 怒られた!何かまずいことをしてしまった!

 子供にはそっちの方しか記憶に残らない

 「たった今の自分を否定された」

 そこが問題なのだ

 人が行動しているその場で批難するものではない

 その時は黙って見ていることも必要である

 教えるべきかどうかも考えなくてはならない

 なんのためにそうしたかったのか、先に理解してから教えなくてはならない

 指摘する時は落ち着いて冷静に教えなくてはならない

 たった今元気に走り回っている子供に、「女の子は静かにするものだ!」と怒鳴りつける

 その叱り方がまずいのだ

 「おこられた…なにも悪いこと考えてないのに…」

 子供は悲しくなる

 傷つく

 「まあ元気だね、何してるの?」

 と元気に走り回っている子供に聞く

 子供は今楽しいのだ

 楽しんでいることは悪いことではない

 良いことだ

 子供は良いことをしている

 なぜバタバタと走り回って遊んでいたことが、悪いことになるのか

 親がイライラしているのである

 欲求不満の親は、常にイライラしている

 子供は元気に走り回るものである

 それが子供である

 子供であることを子供が楽しめない

 子供であることが悪いことにされる

 「女の子は」とまだ思春期にもなっていない娘にやたら教え込む

 まだ娘は「私は女の子なんだ」と自覚していない

 自覚もしていないのに、やたら色んなことを教え込む

 良い子にならなきゃ、女の子らしくしなきゃ

 必死になって「悪い女の子」にならないように気を付けるようになる

 何が悪いのか本人は何も自覚できない

 悪くないのだから

 残念でならない

 権威主義の父親は大問題であるということが、僕もやっとわかった

 男になり切れない男

 父親にもなれない男

 娘に「絶対に怖くない女」を求めて、自立させない

 いつまでも少女のまま、「お父さんを強い存在だと思ってくれる女」として父親を支えていく

 天人唐草、本当に参考になった

 やっとわかった

 娘が自立していくからこそ、僕の経験が追い付いた

 娘は自分の母親ではない

 娘の人生を犠牲にして、「立派な父親」であるわけがない

 娘を信じられなかったのだ

 父親が我が子より自分の見栄を優先したのだ

 他のことで自分を飾り立てて、強い男、強い父のふりをしているのだ

 娘にあれこれダメ出しをしていると、自分が男として立派になれたような気分を味わえるのだ

 「女の子なんだから…」と言えば言うほど、自分は男なのだと実感するのだ

 その一瞬だけは

 娘を比較対象にして、自分の男を上げようとしているのだ

 そして「だめな女の子」となった娘は、父親をいつまでもいつまでも、立派で強い父だと信じ込んで生きていくのだ

 今、娘が僕の手を離れていくからこそ、心から思う

 何してくれてんだ、親父ども

 情けねえ

 娘の幸せを考えられないのか

 母親も同じだ

 息子の幸せを考えられないのか

 自分の自信のなさを支えてもらうためだけに、子供の人生がどうなるか

 少しは考えろ

 娘は父親から離れられない

 息子は母親から離れられない

 誰かがどこかで、勇気を出せれば変わるものを

 娘も、息子も、親から離れられない

 「ダメな女の子」を認めてくれる誰かを求めている

 救いを求めている

 「ダメな女の子」という扱いを受け入れ、父親を支え続けているのだ

 「私は女なんだわ」と自覚していない

 「ダメな」ではなく「私は」と自覚できない

 「ダメな」という存在はいない

 私は「ダメな」ではない

 私は私、だから「私は女の子」でいいのだ

 楽しく遊んでいたから、走り回っていた

 するとお父さんが怒って

 「女の子は静かに歩くものだ!」

 と怒鳴った

 「私は女の子だから、静かに歩かなくては」

 と思ったのだ

 いいや、「私」は女の子だ

 とても元気な女の子で、しかし、お前の親父は男として自信のない、自分を受けいれられない臆病者だ

 私がダメな女の子なわけがない

 父親がダメな父親だったのだ

 覚えておいて欲しい

 「一人称に形容詞はつかない」

 よって

 「私はダメ」は間違いであり

 「ダメな女の子、それが私」であるならば判断したのが自分でなくてはならない

 「この父親は情けない男」は私がそう思えば「私から見た父親」はそうなのだ

 つまり、「お前はダメな女の子だ」と父親が判断しても、私が私をそう判断しない限りそうはならない

 「この父親は私のことをダメな女の子だと叱る」

 そんな父親を自分はどう思うのか?

 それが「私の判断すべきこと」であり

 「私がなぜそうしていたのか」は私はよく知っているのだから

 「悪いことをしていたかどうか」も自分が判断するのだ

 「私」は何がしたかった

 「私」は

 普通は、皆は、父は、母は、そして

 私は

 私は、どう思った

 
 私の世界は私の目から見て解釈された世界だ

 事実はひとつでも、解釈の世界は人の心の数だけ存在する

 私の解釈を誰かに任せてしまったら、

 私の生きている世界が私の世界ではなくなる

 心の世界が誰かに奪われてしまう

 心の世界は自由の世界

 どう思うも自分の自由だ

 事実はひとつでも、それをどう解釈してどんな心の世界を作るかは、自分の自由なのだ

 自由に解釈しているか

 何かを見た時、体験した時

 「これはこういうものだから…」

 と世界を誰かに作らせていないか

 「女の子はこうするものだから…」

 それは誰が言った

 父親が言ったならば、それは「父親の心の世界」の話だ

 親の心の世界をコピーして生きていないか

 自分の心は自分のもの

 自分の世界を自分で作れ

 自分の心の世界の自由を、奪わせてはならないのだ

 父親の世界では、「私はダメな女の子」だった

 だが、どこかに必ず心の世界の中で「この子は素敵な女の子」だと思う人もいる

 そして何より

 「私」は私の心の世界を作る神と同じなのだから

 私は私の心の神に判断をしてもらうのだ

 自分の心の中にいる「私だけの神」を恐れるな

 必ず私が幸せになる世界を作ってくれるから