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人としての品格

 自分だけ特別でありたい、と思うことは誰にでもある。

 最初はみな思うが、段々と諦めていくものである。

 僕も当初そう思ったが、それはただ「ちやほやされたい」というだけの話であった。

 しかし、本当に特別な場合がある。
 僕は子供の頃から学校でもしょっちゅうイライラしていたが、ある時先生に呼び出されこう言われた。

 「お前は他の子とは違う、特別な子だ。皆と同じことをしているのがお前にはバカバカしく思えるだろう。」

 でも今は耐えろ、と言われた。
 「学者」という職業があるから、それになれば毎日お前が好きなことを勉強していられるぞ、と教えられた。だから今は基礎をしっかりやって、友達と仲良くする協調性を身に着けろ、と。

 家も特別であった。
 特別酷かった。
 家の話をしたら、児童相談所に連絡されそうになった。だから話すことも無くなった。

 本当に特別稀な境遇の人が、たまにいる。
 僕のところにも来る。
 それがどんな理由であっても、「自分だけが違う」という疎外感を覚えて育っている。

 僕は言葉もわからなかった。
 小学校に入ってから、「おかしい」「間違ってる」と散々指摘され、言葉遣いも矯正した。
 あれもこれも、皆と同じになるように矯正した。
 だが、そうならない部分もあった。

 できない、なれない。

 「みんな違って、みんないい」

 とかいう綺麗ごとを述べる人間は、人の考えが違っていると矯正しようとしてくる。
 言葉は間違っていないが、本人がその言葉を利用して自分のやりたいことをやっている。

 それを世に偽善と呼ぶ。

 そんなこともわからない人を、僕はバカ、と呼んでいる。

 最初から違う境遇にいた人は、少なからず疎外感を覚え育っている。

 引っ越しをしてきたとか、自分の家が他とは違う珍しい家柄や稼業だとか、色々な理由だ。

 そして、そんな人たちの多くは僕と同じように「普通になろう」とする。
 だが、それは無理だ。

 それは結局「理解してもらいたい」から、自分が真似をするという理屈の行為だ。
 多数の真似をしたら、逆に自分も同じだと思われるのだから理解されることは難しくなる。

 本当に「みんな違って、みんないい」ならば、そのままであることだ。

 「理解されよう」とせず、「理解しよう」とすることだ。

 「違う」というものを、理解しようと努めることだ。

 皆と同じになって受け入れてもらおうとする行為は、既に「同じでなくては許されない」と認めてしまった行為なのだ。

 違ってもいいと思うならば、違うままでいればいい。
 少なくとも、違うままで生きている人たちは、そのままでも気にしない。

 ちやほやされるかされないかは、感情的問題だ。

 それ以上に、「どう生きていくか」を僕は考えた。
 現に違うから。

 需要ある人間にならねばと思った。

 世の中は結局需要と供給で成り立っている。
 より需要が多い人間になれば、自分が必要とされる。

 僕自身が何も持たず必要とするものが多いならば、特別な存在がいない以上、より多くの人から求められる人間でなくてはならない。

 現に、少数派なのならば、皆と同じことをすればするほど不利。

 結論として「理解する側」に回ることが得策であると僕は考えた。

 更に「好きになる側」に回ることにした。

 僕自身が、好きになってくれて、理解してくれる人が好き、と思っていたからだ。

 何よりも、人は何かをしてあげるにせよ、誰かを求めるにせよ、好きな人から選ぶ。

 「好かれている」は「必要とされている」かどうかだ。

 だが、何か別のもので必要とされることもある。

 自分の何を必要とされているのか見極める目も身に着けなくてはならない。

 そんな風に、考えた。

 昨日あたり、Twitterで論語を引用していた方がいた。

 似たような教えがあるものだ、と思った。

 家庭内教育と僕が呼んでいるものである。

 人様の前で金勘定をするな。
 微々たる金銭を失うより、人様の前で気分の悪くなることをして信頼を失うことを損だと思え。
 使って困る金は持って歩くな。
 今そこで人様といる時間をどう過ごすかで、次も呼んでいただけるかどうか決まる。
 金より人を失う方が遥かに損になると知れ。

 まして金があることをひけらかすなど、品のない成金風情のすることだ。

 僕はこのように教わったのだが、似たようなことを書いておられた。

 教えてきたのは母で、母もかつてはそう生きていたはずだった。
 だが、父をはじめ都会の人の多くはそんな生き方をしていなかった。

 人より金。如何にして他人を蹴散らして優越するかの競争。

 人としての品位に関わることだ。

 このような生き方は、一時何かを得てもすぐまた失う。

 本当に金がある人はなぜ金を持っているのか?

 人脈を持っているからだ。
 人を得ずに得られるものはない。

 他人より優越して何かが得られると思うこと自体、奴隷の考えだ。

 「褒美をもらう」という生き方しかしたことがない。

 つまり、持ったことも維持したこともない、ということだ。

 「なんてはしたない」

 かつてあれこれもめていた女が言った。
 彼女だけは助けてやりたかったが、致し方ない。バカだから助けようがなかった。

 いくら自分だけ何かを守っていても、周りがわからなければ無駄、ということが理解できない。

 それが神経症者である。

 「泥棒の家のもんがすることや」

 よくそう言われる行いがあった。

 僕は幼い頃にそれをしてしまっていたので、やらないようにした。

 「人を問い詰める」という行為である。

 あれこれ質問する。探りを入れる。
 個人的事情を聞こうとする。
 考えていることまで聞き出そうとする。

 人に説明を求めるのは、人を泥棒扱いする無礼千万な行為である。

 「あなたはこうなの?」

 「これどういう意味なの?」

 尋問である。

 この無礼千万な行為を、泥棒でもない、怪しい行いをして罰されるわけでもない人に対して、平気な顔をして行うのが

 「泥棒の家のもん」

 なのである。

 そして、「質問されるとなんでも答える人」がいる。

 疑われないように、なんでも正直に答えなくては、とビクついてしまうのだ。

 そんな人のために、ハッキリ言っておく。

 そのような無礼千万な輩に対して、正直に答える必要はない。

 人にものを尋ねる時には、まず自分から。

 「私はこれこれなのですが、あなたはこうですか?」

 自分がなぜそれを聞きたいのか、まず自らが知らせるべきなのだ。
 知りたいことはなんでも探る。
 それは何かを隠している人間のすることだ。

 相手の何かを聞き出そうとする。

 それが「泥棒の行い」なのだ。
 後ろ暗いところがない人間は、そのような行いをしない。

 そして、聞いたところで答えてもらえると思わない。

 寧ろその尋問により不愉快になるのが当然と思うのが、まともな感覚だ。

 人としてのマナーを守っているかどうかで、人としての品格が決まる。

 いくらお行儀よくしたところで、普通にしたところで、人間性の品格が問われるようでは問題外なのだ。

 人様が自分に話したいと思えば、向こうから聞かせてくる。

 人様が自分を呼びたいと思えば、向こうから呼んで下さる。

 黙って結果を受け入れるものなのだ。

 僕の母でさえ、その昔は色々と教えてきた。
 そのうち故郷のことを話さなくなり、ある時からピタッと一族の話もしなくなった。

 「そんなこと言った覚えはない」

 と全く違うことを言い出した。
 あれほど楽しそうに子供時代の話を聞かせていた母に、一体何があったのかと疑問に思っていた。

 方言をバカにされ、昔ながらの知恵やしきたりをバカにされ、「皆と同じ」になって行った。

 だが、少数派だからと言って臆してはならない。

 苫米地博士のようにハッキリと物言える方がまだいるのだから、臆してはならない。

 僕は加賀藩士の末裔である。

 我らが加賀藩、そして前田家の殿にお仕えしてきたことを今でも誇りに思っている。

 資本主義社会の奴隷ではない。

 加賀藩のために力を尽くす前田家にお仕えするのだから、力を尽くすのは加賀藩の領民たちのためなのである。

 全体がひとつなのであり、「一番偉いのはお百姓さん、武士はなくとも人は生きられる」の考えの元に武士は精進するのである。

 時に、何某かのコラムなどで、かつての日本の考えがとか、階級制度がとか、昔の古い間違った考えと述べている人を見る。それなりの有識者とされる地位の人が述べている。

 だが、僕はそうした人を見て思う。

 「この人はそうした家の人ではない」

 知らないからだ。事実を知らないから。
 歴史なんて教わらなくても、家の中に残っていたから知っている人もいる。

 極僅かだが、知っている人もいる。僕も出会うことがある。

 その伝統は、教育の中に受け継がれる。

 武田邦彦先生が述べる日本の誇り、江戸時代の日本の良さなどは、殆どの人が「ふーん」でしかないのだろう。
 他で聞いた情報と照らし合わせるだろう。

 だが、僕は知っているので彼が言うことは本当だとわかる。

 幼いころから教えられた様々な教育の中に、常識の中に、その善き文化が残っている。

 「何が正しいのか」

 を論じる際、まず「自分自身はどうなのか」が無くては話しにならない。

 つまり

 「あなたの家ではどのような教育であったのか」

 というところだ。

 外で教えられることは、他人の家の話である。

 自分の家ではどのような教えを受けているのか。

 人としての生き方、こと人の見分け方や人付き合いなどの「作法」については、家の中で教えられるものだ。

 自分の家は必ず何かの職業である。昔は武士は生まれてから死ぬまで武士なので、代々その家業に相応しい生き方を教えられる。

 「家が滅ぶことのないように」
 「子々孫々が栄えるように」

 そのためにはやはり、「周りとの協力」が大切なのだ。

 人様を蔑ろにして、栄える家はない。

 愛情ある家の人は、それを教えられずとも知っている。
 人様のことを考えれば自然とやることが殆どなのだが、親が学んだら次は子に、と伝授されて行く。

 それが教育だ。

 一度どこかの代でうまく行けば、その方法は必ず親が子に伝えてくる。

 勿論、よく考える誰かが先の論語のような教えを知り、自分自身で身に着けていくことが最も大切だ。

 「並みより成長する人間」

 がどこかで生まれると、そこで一族は飛躍的に成長する。

 成長の動機で生きる誰かがいてくれれば、子孫はそれだけ助かるのである。

 家庭内の教育は家を守るためのものなので、基本的に門外不出で外に出ることはない。

 「外に出てからの作法」

 なのだから、他人の前ではそれを実行するのみで、教わることはないのだ。

 時に、どなたかがこっそり指摘してくれる。そんなことがある。

 「この人は知らないのだな」と思った時に、誰かが自分の身を捨てて教えて下さるのだ。

 そのような場合に、「ケチをつけた!」と敵意を持つか、「教えてくださったのだ」と感謝できるか、それもまた人の品格である。

 指摘されると傷つく場合が多いだろう。

 そんなわけで、僕も若い頃からわからないことは教えていただけそうな方に聞いて、教わってきた。

 「聞くは一時の恥」

 僕が恥をかくことにより、後の代が助かるのだと子供の頃から思っている。

 僕が知らないという事実は、変わらないことである。
 誰かが恥を忍んで身につけなければ、次の代もまた恥をかくことになる。

 母は知らないくせに適当なことを教える人だった。

 この人に聞いても無駄だと思ったので、自分に必要なものは自分で身に着けて行かねば、と思った。

 それでも、生きる姿勢や態度というものが最も大事である、と教えられたことは正しいと思う。

 坊さんもそうだが、教えている人は「伝道師」であって、「導師」であるとは限らない。

 導師は本人自身が導くことのできる人である。

 今聞いて、今見て、本人が考えて結論を出せる人である。

 伝道師は「これこれなんだって」と教えてくれる人である。

 言い方は悪いが、本人が理解していてもしていなくても、できるものである。

 親鸞聖人と、寺のお坊さんは同じではない、ということだ。

 言っていても本人が理解しているかはわからないのである。

 わかっている人に聞いただけでも、伝えることはできる。

 伝える人の中には「自分は伝えているだけ」と自覚している人と、「自分はわかっている」と見せかけている人がいる。

 伝道師はあくまでも伝道師であり、本人自身も理解するために努力しているのである。

 していない場合もある、と知っているが、それは「できる人」だと思われたいからである。

 「既に実行している」

 それが身に着けている人である。
 口に出して説明している人は、実行していない人である。

 「教え諭す」が言葉の説明ではなく、そのように現実を動かしてしまうことなのだとわかっているのが、導師である。

 本当に道理を理解していれば、自分自身が動くことにより現実の流れを変えてしまえる。

 自らがその道理に沿って動くことで、その道理が正しいことを証明する。

 ただ、現実の結果を出す。それが導師の役目である。

 親は子にとって導師たる存在である。

 子は必ず親の教えに従い、真似をする。

 だから親が導師なのである。

 親は親で、導師としての格を上げるために、自分自身も学び、精進し続けなくてはならない。

 自分の成長は後の代に続く成長となるのだから、知らない、わからない、できない、は恥だと思わないことである。

 次の代までそのままにしてしまうことこそ、恥じるべきことなのだ。

 やたら自分の思い通りにするために周りを否定し、自分が知っていること、やっていることこそ正しい、と威張る人は、そのうち滅びる。

 「私は間違っていない!」

 と人を批難するために言えるような輩は、ひとつも知らないことのない人でなくてはならない。

 この世の全てを知り尽くしてでもいない限り、人様に対して「自分は正しい!」と断言はできないのである。

 普通は!一般的に!

 と大威張りの人は、普通と一般的にを真似して生きてきたからこそ、強気なのである。

 自分は間違っているのかも…と自信無い態度になっている人の方が、遥かに多くを知る機会を得ているのである。

 人生において、知るチャンスを逃す、ということがどれ程取り返しのつかない損害になるか、それもまた知らない人は知らないのである。