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現代日本人は勘違いしている

 現代の日本人は、「生きる」ということを勘違いしている。

 自分が完璧になるまで、何か漠然とした期待される存在になるために生きていると思っている。

 人生はもう始まっている。
 足りないところだらけで始まるものだ。

 例えば、毒親と呼ばれるような子供を苦しめる親。
 子供を自立させない親の元からスタートする場合もある。

 たった一人で始まってしまう人生だ。

 自分がちゃんとできているか、できていないかを気にする人がいるが、実際には自分の問題に直面できない。
 自分にはまだ育ててくれる親がいる気分で生きている。

 それが三十代になっても、四十代になっても、五十代になっても、まだ教えてくれる人がいると思っている。

 自分の理由で、大人ではない存在で生きられると勘違いしている。

 「何が起きているのか」を誰かが説明してくれると思っている。
 自分は知らないから。

 自分が知らなくても、他人も知らない。

 「何が起きているか」など誰も説明できない。

 「全て起きていることだから」だ。

 自分が教えてもらうつもりで聞いた。だから答えは自分の知りたいことを教えているのだと勘違いする。
 そんな存在がいるわけがない、と気付いていない。

 もう人生の本番が始まっている、とわかっていない。

 まだ練習のような気分で生きている。

 起きたことが全て。

 説明されたのではない。
 なんらかの話をしたから、質問をしたから、それについて自分に返答する人がいた、ということが「起きた」のだ。

 自分が何かを「起こす」

 すると他人は自分に反応するから何かが「起きた」

 のだ。

 周りに反応して動いている人は、周りに守られているような気分でいる。

 周りに反応するから、周りと一体化しているような感覚で生きている。

 自分が周りに反応して動いたから、周りが自分を見てくれると期待する。

 他人に反応して言動を行うから、他人が返答をすると期待する。

 ここが現実の世界だとわかっていない。

 他人に過去を話す。すると他人も自分の過去がわかったと思う。わかるわけがない。

 他人に自分の記憶を移すことはできない。他人は聞いただけで体験はできない。

 「自分は過去の話をする」ということを「起こした」のだ。

 それに反応した相手が動いた。それだけだ。

 Aさんと出会った。
 Aさんは過去の話を沢山した。
 だが、あなたが知るAさんは、過去から続くAさんではない。
 出会った時からのAさんだ。

 過去の話ばかりする、Aさん、という人がいるだけだ。

 二人の人がいる。
 二人の関係を作るには、互いに「一緒に過ごした時間」だけで関係を作らなくてはならない。

 一緒にいる時間で関係が作られるのは当たり前だ。

 つまり、互いに共にいる時間には、「今まで二人で過ごした時間」以外のことは起きていないことだと自覚していなくてはならない。

 二人の関係は二人の時間で作られる。

 「この相手と共にいた時間」のことだけしか思い出さない。

 二人でいる時に起きたことしか、二人の現実にならない。

 だが、ナルシストは違う。過去を沢山話す。

 すると、自分の過去が二人の過去になってしまう。

 体験だけで作られるのが本物の関係だ。

 過去を話しても相手は自分の過去を体験できない。

 だから話したところで「昔話をした」という体験にしかならない。

 「二人でいる時に、私は自分の昔話をしたね」という体験にしかならない。

 その昔話を聞かせている体験が、どんな時間であったのか。

 楽しかったのか、嬉しかったのか。

 その時に起きた体験により、二人の関係は作られる。

 昔付き合った彼女は、父親の話と過去の話ばかりした。

 一緒にいてつまらなかった。

 過去の話を聞いては、慰めのために何かをしてあげる繰り返しであった。

 「彼女の昔話を聞きながら、昔の辛い体験を癒すために時間を使う」

 全ては彼女の過去のためにある付き合いだった。

 二人の間にあった体験は「彼女が昔話をする」というだけのつまらない体験だった。

 彼女はそんな過去があるから、私はこうなのだ、と今の自分の自信のなさを吐露した。

 そこで彼女が自信を身に着けるために、何かを提案し手伝う時間を過ごした。
 実際には、過去の自信のなさを生み出すきっかけは僕が作ったわけではない。
 よって僕が何をしたところで過去が変わらない限り、または彼女が諦めて内面の強さを磨かない限り終わることはない作業であった。

 そう、彼女との付き合いは、過去の体験によって生まれた彼女の感情を支えていく作業だった。

 彼女の過去なしにあった体験はない。
 彼女が昔話をしなかったら、共にいた時間に起きたことは全てなかっただろう。

 彼女は僕には無い体験についていつも思い出していた。

 僕は彼女との時間に起きていないことは、思い出さない。

 彼女に失礼だからだ。
 彼女がわからないことを考えながら、彼女の目の前にいるのは失礼だ。

 相手は生きた人間である。

 彼女と共に過ごした共に思い出せる現実のみ考えている。
 そこだけが彼女と作る関係だからである。
 そこにいる僕がどんな人間であるかは、僕自身の生き方によって、全体像によって決まっている。
 というより、僕がどんな人間であるかで全体像が決まっていると言った方がいいだろう。

 僕しか知らない僕の過去の世界の話など、思い出しても彼女が現実に置いてけぼりになるだけだ。
 彼女が寂しい気分になるので、思い出さない。

 彼女は父や母に言われて傷ついたことが沢山あった。
 僕にはそうは見えないと思えることばかりだが、それでも彼女は過去の記憶を覆す人間になりたかった。
 だから僕は彼女に協力した。過去の記憶を見返せるだけの、今の自分になるように。

 僕は彼女の父ではない。だから彼女の父と同じことは思わない。
 だが、彼女が認められたいのはあくまでも「過去の」父親だったので、彼女が記憶の中にいる父親に認められる人になれるよう、協力した。

 そして、そんな彼女は僕に取って疲れるだけの、つまらない女だった。
 彼女の父を見返すために、僕にとっては疲れるだけの女を続けていく協力をしている時間は、つまらなかった。
 そのうちこの疲れる女が、過去を諦めてくれるのではないか、という気持ちだった。
 僕は彼女が好きではなかったのだ。最初は好きだったが、段々と疲れる作業をするうちに嫌になってしまっていた。

 僕は思っていないことなのだから、もし彼女が記憶の中の父を見返すだけの女になれても、僕はどうでもいい。「あー疲れた、良かったね」で終わりだ。
 一緒に居る時間が楽しいかつまらないかだけが、彼女との付き合いを左右する。

 「俺はそうは思わないけど」と言っても、「でもお父さんはそうは言わない」と言う。

 彼女は記憶に存在する父に認められるために生きていた。
 過去の記憶にいる母を守るために生きていた。

 母を守り続け、父を見返す人間になるために生きていた。
 だから「恋人ができたら協力してもらう」ことにしていた。

 段々嫌になってきた時に、他の女とデートしたら、そっちの方が断然楽しかった。
 普通に楽しい時間を過ごせた。相手の記憶を消去する作業が無いので、楽だった。

 彼女といる時のように、彼女の記憶の中にだけ存在する誰かを見返すための時間にはならなかった。

 今起きていることが楽しかった。

 何より、彼女は感情が無かった。
 笑う時も、軽い調子で笑っていた。へらへらしていた。

 真剣になる時がなかった。
 自分自身の人生についても、軽い調子だった。

 僕ならそんなに軽い問題にはならない、という自分自身の将来についても、重大な問題についてもへらへら笑っていた。

 「ひどいよねー」とへらへらしていた。

 言葉では辛いとか困っているとか言うが、へらへらと笑える程度の問題にしか思っていなかった。
 僕が真剣に取り組んでいるのは、バカバカしくなった。本人は笑っているのだから、大変なことのよように言葉では言ってはいるが、どうでもいいのだ。

 「この女はダメだ」と思った。
 恵まれている人だった。

 うつ病になり高校を中退していた。それすらへらへら笑って言っていた。

 この人にとっては、へらへらと笑って話せる程度の問題なのだ。と思うと、段々と軽蔑する気持ちになってきた。

 子供の頃東京に来た際に思った。
 東京の人たちは、なんでも軽いノリでこなすのだなと。

 僕は違った。
 もっと真剣に生きなくてはならないと思っていた。
 一度きりの命だから、軽い調子で生きたくない。

 一生懸命やっていると笑われた。
 彼らにとっては、懸命に生きていることは「マジになってる」と笑うようなことだった。
 軽いノリで生きていても困らない家の人たちには、負けたくないと思った。

 僕にとってカッコいい生き方とは、真剣に考えて少しずつ努力で何かを身に着ける生き方だった。
 他人にOKしてもらえれば、どうでもいい人生は持っていない。

 「人生をパロディ化している」と加藤諦三先生が著書に書いていた。

 彼らの人生はパロディなのだ。だから軽いノリで生きているのだ。
 人生は一度間違えたら、もう元に戻ることはできない。
 一度選択して進んでしまったら、もう元の道には戻れない。

 本人の自分への態度。それが本人の人生の重さだ。
 パロディなのだから、どうなっても構わないのだろう。
 どうなっても構わない人生でなければ、他人にOKしてもらえればいいやと思わない。

 使ってしまった人生は、どうにもならない。

 何歳になっても、それは変らないようだった。
 言っていることはまともだが、態度はおかしい。
 感情はない。

 自分の人生を半分使ってしまって、それが親に操作された人生だったと知っても、「わー!こわーい!」とへらへら笑っている。その程度の人生なのだ。

 人生の重さは、これまでどれ程自分の人生に真剣に取り組んできたかによって決まる。
 母親が愛情をこめて接していないと子供がちっとも大事に思えないように、自分自身の人生も自分が大切に丁寧に生きるから重要になってくる。

 僕は親のために犠牲にした人生の部分は、口惜しくて仕方ない。
 だが、人生がパロディになっていると違う。

 「なぜあんな時間を過ごしてしまったんだ」と悔やまない。

 「すごい後悔してるー」と笑って言えるくらい、悔まない。

 笑える人生ならば、それでいい。今も笑っている。
 困っている、どうしたらいいのかわからない、というが、そんなに困っていない。

 自分の人生ではないからなのだろう。
 そしてそれなりにかたちはちゃんとできているから、満足なのだろう。

 「彼女にとっては「かたち」とセックスが大事だった」

 ”マディソン郡の橋”の心理学、加藤諦三先生の著書だ。

 かたちさえなんとかできていれば、うまく行っている。
 気持ちなんてない。愛されないことさえも大袈裟に嘆くか、軽く笑える人生だ。

 本物の人生だから、もうどうにもならない。

 見えないところで努力している人はしている。
 結果が出せるのはそうした人だ。

 彼らはなぜ困っているのかわからない。
 過去は完璧にできあがっている。かたちだけは。

 彼らは理想的なかたちさえ作れれば、気持ちのことはどうでも良かった。

 彼らにとって「人格」とは、「立派なことをしているかどうか」のようだった。

 社会的に良い肩書を持っているようなことが、彼らにとっての「良い人」だった。

 だからこそ、「自分がちゃんとできているかどうか」の基準は、全て社会的に理想的なことをしているかどうかだった。

 思いやりとは、気持ちの話ではなくかたちの話だった。
 楽しんで生きる、ということも、「楽しんで生きている」というかたちの話だった。

 それっぽいかたちさえ作れば、皆に見せることができれば、自分自身が実際感情を体感しているかどうかは、気にしていなかった。

 彼らは親から愛情があるかないかは考えなかった。
 彼らが言う親の愛は、自分が気に入る言葉や説明をするか、必要なものをくれるかどうかだった。

 感情は五感の更に上である。
 感情を感じる能力が失われると、五感もおかしくなる。
 五感を感じる能力をおかしくしてしまうと、感情も感じなくなる。

 感情を抑圧した人は、五感の方もおかしくなる。
 アレジー症状などによく見舞われる。

 感情的レベルの内部表現を洗脳によって書き換えられた。
 そこから問題は発生し始めた。

 この話は、長くなるのでやめておく。
 そしてどうもこの手の話は難しいらしい。

 僕が初めて加藤諦三先生の著書を読んだとき、すぐに理解した。
 即実行すると即結果が出て、みるみる意欲が湧いてきた。
 「これさえ読めば人生は変わる、魔法の方法だ!」と思い友達にもどんどん進めた。
 だが、誰一人僕のように読んだ人も理解した人もいなかった。

 僕は加藤諦三先生の本は、いつも大部分を笑いながら読んでいる。
 面白いからだ。表現がうまいからだ。カッコいいからだ。
 そして時に泣かせる。本物のドラマを生んでいる。感動させてくれる本だ。

 こんなすごい表現をする人がいるなんて、とすっかりファンになった。

 そして魔法の方法が載っている。
 僕はその魔法の方法を学びたくて、精神分析学を始めた。
 心理学のベースは大学の心理専門課程内容だけ学んでいたが、人間性心理学に特化したいと思った。
 これは魔法だ、悟りを開く方法だ、とワクワクした。

 とにかく、その内容を学び、僕自身が自分の能力で即座に分析できるようになりたかった。
 そして、一応なれた。まだ言語化のスピードが遅い。感覚で認知して、結論はわかるが表現を作るのに時間がかかる。まだまだ鍛錬が必要だ。

 だが、なぜかその魔法の方法を読んでも理解できなかったり、また間違っているかのように思う人たちばかりだった。
 間違ってない。そのままのことが書いてある。
 真実が書いてある偉大な著書だ。

 自分が人間なのだから、真実であることはわかる。確認できるから。自分が人間だから。

 僕には理解できなかった。
 苫米地英人博士の本は、更に難しいようだった。
 あれほど高度なことを結論だけ単純に書いてくれる本はない、と思う。
 だが、IQ200超の理解力はけた外れなようだった。

 理解したら実行する。即結果が出る。
 こんなに楽しいことはない。みるみる自分が力強く感じられる。
 と思うのは、僕が稀だかららしい。

 なので、僕自身も体験を重ねながら地道に方法を探している。
 真剣に取り組んでいるが、悩んでいる人は真剣に取り組んではいない。

 軽いノリ、という態度の人は多い。
 昔、「常に軽いノリでやる」という男友達がいた。
 軽いノリでやっているのに、こんなにできちゃった、がやりたい小学生のような男子だった。
 既に高校生だった。高校生だが、軽いノリでやって、言葉だけスラスラ言いたい、小学生っぽいやつだった。変なあだ名をつけられていたが、致し方ない。本人はカッコいいつもりなのだ。
 常に格好つけている奴だった。態度が変な奴だった。

 「漫画キャラ」とも呼ばれていた。何かになり切っているからである。

 普通、軽いノリで笑っているならば、当然笑っていられるだけの実力を備えているはずだ。

 笑っていても平気な人しか、笑ってはいない。
 実力を備え、真剣に考え、そして必要なことはしているから、笑っていられるのだ。

 娘に言った。

 「俺が笑って冗談ばかり言っていられるのは、必要なことは真剣に考えて決断し、実行しているからだ。笑って冗談を言いながら必要なことができるわけではない。お前も真剣に自分自身のことについては、自分で考えろ。」

 勿論、言うだけではない。必要なことはやらせる。教育だ。
 そして僕自身がどんな方法を取っているのか教え、必要なものを渡す。
 精神鍛錬術の伝授だ。
 こうした方法は、親から子にしか伝えられない、門外不出の教えとなる。

 普通はそんなものだろう。
 親から子にしか伝授されないものがある。
 生きるため、子孫繁栄のためだ。

 勿論、僕も人にその全てを教えるわけではない。当然だ。
 まず我が身、そして我が子の身、そして親しい仲間たち、優先順位がある。
 勿論、我が身を優先しても、子供は自分の守る枠の中にいるのだから、その間に育っていけば問題ない。

 彼らは自分の人生など考える必要がない。
 真剣に考えている人は別にいる。

 僕は僕の人生を真剣に考えるが、娘の人生は娘自身が考えなくてはならない。

 「俺が生きているうちだけだ。いつ死ぬかなんてわからない。いつまでも親がいると思うな。」

 そう娘に申し伝えてある。

 友達を大事に、仲間を大事に。
 人をよく見るよう、社会をよく見るよう。

 そして男をよく見るよう。

 「どんなことがあっても生き延びる男を選べ。何があっても自分の力で考えて、決断できる男を見つけろ。仲間の中で頼りにされているような、生存本能が開花しているような男を選べ。」

 そう言いつけてある。少なくとも僕以下は絶対に選ばない。子供は父以下の男は選ばない。
 そして「あのような男だ」と見つけると教えてきている。
 心理的に健康な家族にしても、見つける度教えてきている。
 どこの誰がまともで頼りにしても安心か教え、何かあった時のために僕自身があちこちで縁をつないできている。
 自分が消えても人間関係が財産として残る。人間こそ最大の財産だ。

 人生は常に新しいことの連続である。
 僕自身も常に新しい問題に直面する。

 その都度真剣に考えなくてはならない。
 どうなるかわからないのだから。

 その人にとっての重要性がある。
 父親に認められたい彼女は、僕に認められるかどうかはどうでも良かった。

 記憶の中の父親を見返せる自分になった時に、僕は父親の代理として「すごいなあ」と喜んであげればいい。そういう流れだった。
 そして父親の代わりに彼女が父親にしてほしかったことをしてあげる。
 それで彼女は満足だった。

 目の前にいるのが本物の父親であれば、彼女は更に嬉しかったのだろう。
 既に子供ではないから、うまく行かない過去の再現をしているのだ。今度こそ成功させるために。

 ただし、僕が何度それを繰り返したところで、家に帰れば本物の父親がいる。
 何度となく似たような体験をするから、僕のところでやり直しをして成功させるの繰り返しなのだ。

 父親は彼女にとって本物だが、僕のところでは全て再現なのだ。
 「ごっこ遊び」である。
 彼女にとっては自分にしかない記憶を中心に作る関係が欲しかっただけなので、僕との関係ではなく父親との関係なのだ。

 その程度の、恋愛としてはごっこ遊びのような体験だった。
 僕自身も二人の関係を作っているという実感はなく、大切につくっているのが彼女の過去の話なのでそんなに大切には思えなかった。

 人生の重さもそう。
 その問題の重さ軽さは、本人によって扱いが違う。

 大した人生ではない。それがよくわかる。
 死ぬまで生きても大した人生ではない、と本人がもう決めているのだ。

 個々に自分が決めたことだ。
 だからそれは個々の自由だ。

 親の人生を生きる人は、真剣に人生など考えなくてもよい。
 必要性がないから。
 親が自分のために何をさせるか、真剣に考えてくれている。

 だからあんなにみな軽いノリなのだ。

 どうせ自分が生きる人生ではないのだから。

 「自分の人生を生きられない病」加藤諦三

 親の人生の付属品を生きているならば、確かに親の気持ちが一番大事に決まっている。

 親の心の世界を生きるのだから、親の思い通りの人間として親の中での事実に相応しい感情を持たなくてはならないだろう。

 とはいえ、他人の脳内の世界を現実を使っていきるのは、大層困難な話だ。

 最後までそれは現実を利用した非現実の世界なのだから。