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僕は争いが好きではない

 僕は争いが好きではない。

 なので、人を騙したり、奪ったり、利己的である人が好きではない。

 「自分が良く思われたい」

 それは、他人のためになることではない。
 自分が人に良く思われたところで、他人に得などない。

 それがもし、見せかけならば、他人の人生にはマイナスにしかならない。

 己の欲のために、他人の人生も考えずに生きる。

 頼むから汚いことを考えないでくれ、やらないでくれ、と思う。

 それが身内であればなおさらだ。

 争いが好きではないのに、汚い真似をしてなんとか欲を満たそうとされれば、僕は戦わなくてはならなくなる。

 人を騙すことなく、自分の欲ばかり考えず、相手の目指す未来と自分の目指す未来、両方を考えてお互いの幸せのために人と接する。

 それは、当たり前のこと過ぎるのでいちいち口に出すことでもない。

 親しいふりをした相手の悪口を言う人もいる。

 相手の将来など考えてもいないのに、好きだとか愛してるとか、平気で言う人もいる。

 愛されなかった人の寂しさや孤独を知らないからだ。

 表面上はいい顔をして、本当は自分のことなど考えてくれていない。

 いい顔をしているのは本人が何か得したい、やらせたいことがあるからであって、こっちのことなど気にしてもいない。

 自分と接した後の相手の未来を考えて生きるのが、当然の人の道だ。

 そんなことは言わずもがなであるから、わざわざ口にすることもない。

 当然やっている、と思うからだ。

 そんなこともせずに、本当に生きて平気な顔をしている人がいるならば、どうにかしていると思う。

 少なくとも、傷つけて騙した相手は、自分の敵になる。

 傷ついてしまうということは、自分を信じてくれているということだ。

 自分を信じてくれる人を、自分の私利私欲のため、自分一人の満足のために使ってしまったらどうなるだろうか?

 それは、親に裏切られた人ならば当然わかるだろう。

 僕は逆にずっと思っていた。

 人を騙したり、自分のことばかり考える人は、余程親に自分だけと特別大事にされ過ぎてしまったのだなと。甘やかされてきたのだ。傷つくことが無かったからこそ、人を傷つけることが平気でできるのだ。

 それ以外に理由はない。

 「自分も酷い目に遭った」

 そんなことを、誰が信じるだろうか。本人がやっているのに。

 本人がやれているのなら、傷ついていない。

 人は自分がされたことが苦痛だった時、他人に同じことをできない。

 自分の苦痛が記憶から蘇るからだ。

 だからできない。

 だが、今ここに書くと長くなるので書かないが、それは「自我の無い人」の特徴だ。

 自分の言いたいことを、自分で言えない人の特徴。

 つまり、「人に気に入られるために良いことばかり言おうとする人は、確実に他人を傷つけて嫌われていく」ということだ。

 これでは説明不足だろうが、今回はいい。

 人と争いたくなくても、真の正義のためならば戦わなくてはならない。

 真の正義とは、道理を通すということだ。

 決して自分の得になってはならない。勿論自分自身も傷つく。

 損をする、ということだ。

 だが、自分にはなんの得にもならなくても戦うのが正義だ。戦って勝利して、自分が何か得をするならばそんなものはただの私利私欲だ。

 自分が得をするために、人に我慢をさせる。

 それでは人間の敵だ。

 少なくとも、相手にとっては敵だ。

 皆さんは、当然そんなことはしていないと信じる。

 あなたがすることは、相手のことを考えてのことだと思う。

 後で言い訳などしないだろう。勿論だ。

 後から言い訳しても、傷つけた相手の心は癒せない。

 傷つけた過去は消せない。

 あなたが相手の人生に生涯残るのだ。

 傷つけてきた人、として。

 あなたが相手にとって悪い印象の人間になりたくない時は、相手の身を案じて、相手の将来を考えて接していることだろう。

 自分のことなど、自分でどうにかするものだ。
 他人に何かをさせるためになど、そんな強欲で恐ろしいことのために人と接していたら地獄に落ちる。

 地獄などないと思っていても、おいそれとできるわけではない。

 自分の中でいくらドラマチックに考えても、ただの人。

 そんなにすごい人ならば、どうしようもなく「人間」と言えるこざかしい行為ではなく、魔法のような力で人間を操るだろう。

 それが、自分の労力を費やして人に悪口を吹き込む。他人の様子を伺いながら、気に入られるために媚びる。

 そんな惨めな真似をしてまで、自分の思い通りに動くよう必死で働きかけるなど、情けないことこの上ない。

 人間なのだ。

 何として生きているのだ。

 自分のことは自分で解決するものだ。

 友人とうまく行かないから、恋人を探す。恋人とうまく行かないから、他の恋人を探す。親とうまく行かないから、伴侶を探す。

 人生に希望が無いから、人間に縋る。

 それでは、生まれた事実から逃げているのと同じだ。

 生まれたことをまだあきらめない。

 自分の人生は自分で生きるしかないのだと、一人につきひとつ用意されているから、同伴者などいないのだと、まだわからない。

 誰もが乗り越えるものである。
 どんな理由をつけても、ひとりにつきひとつなのだから、そんなものは神様にお願いするか、死ぬしかない。

 人間はどうあっても系譜があって生まれてくる。
 どこからか繋がっている存在だ。

 「一切のつながりがない単独の存在」

 つまり、自分が作り出したロボットのような存在を同伴者にするしかない。

 どんなに優しい人がいたとしても、その人の背景はある。
 つながりがある。それは消せない。

 親が嫌でも、他に自分と繋がっている人はいない。
 その親しかいない。

 他人を探したところで、自分との繋がりはない。
 相手には相手のつながりがあるから、親にはなってもらえない。

 自分の生まれて生きた道の先を、誰かが一緒に進むことはできない。

 並行して進んでいくしかないのだから、相手の将来も見ていないと誰が相手でも破綻しかない。

 自分のことは自分がわかっている。
 誰に聞かなくても、自分が一番よくわかっている。

 自分が目指す先も自分は知っている。
 だから自分のことは楽なのだ。

 他人のことはわからない。だから大変なのだ。
 下手に接すれば、相手が今平均台のような道を通っているかもしれないところを、突き落とす真似をしかねない。

 相手が今大変な時期だったならば、自分がとんでもない邪魔をして、相手の一生をおかしくするかもしれない。

 だから、人の未来を見ているものだ。
 相手のこれまでの道のりを、今の相手から想像するものだ。

 どこからきて、どこに行く人なのか。

 それをよく確認しながら少しずつ付き合うものである。

 これを「当たり前」と書くと、厳しいと思う人がいる。

 そうだろうか?

 僕があなたに配慮もなしに、今僕が大変だからという理由であなたの話も都合も聞かずに「僕は今までこれこれだったから、今こんな恋人がいて大変だから、僕は何も悪くないから」と、あなたに一方的に何かをしたりさせたりしようとすれば、僕は迷惑ではないだろうか?

 迷惑ではないだろうか?

 僕があなたにそれだけの迷惑をかけても、「しょうがない」と許してくれるだろうか?

 あなたは、人生において大変な時期を味わったことがないのだろうか?

 実は、無い人がいる。

 信じられないかもしれないが、無い人がいる。

 自力で生きていない人だ。

 今ここで集中力が途切れたら、一貫の終わり、というくらいの道を歩いたことがない。

 何年もの積み重ねをして、ここで勝負という場面に到達したことがない。

 つまり、まだ人生を生きていない。他人の邪魔をするために年を食った人がいる。

 他人に構ってもらいたがるということは、他人の邪魔をするということだ。
 相手にとってはそうなる。

 うちの親が、という理由で、恋人の体を装って「親代わり」になってもらおうとする人がいた。
 最後には親に連絡した。

 「あなたたちが、この子を構ってあげないから他人に構ってもらおうとしている。子供の頃の恨み言を僕に言われても、あなた方の責任は取れません。きちんと子供の面倒を見てください。」

 親の前ではまともに大人になっているふりをしていた。
 だから親は泣いて半狂乱である。

 しょうがない。自分たちの子だ。自分たちの責任だ。
 子供がいい年になって、そんなことになっているとは思わなかっただろう。
 まさか他人のところに行って、自分たちの悪口を言いながら代わりに何かをさせようとしているなど、思いもよらなかっただろう。

 そのような恋人の体を繕う人は、僕がいつまでも黙っている人だと勘違いしている。確かに僕は争いが好きではない。好きではないから、いつかやめてくれると信じている。

 だが、どうにもならない時は、仕方ないのだ。
 だからやめて欲しいのだ。

 親子の問題は、家族の中で解決するものだ。

 それができなくても、家の問題を他人のところに持って行っても相手が困る。

 これを書くと、また批難を浴びそうだが、僕が同じことをしても僕はあなたに許してもらえるだろうか?

 ちなみに、僕の一族は今も大変な事態である。

 それを外に出さないのは、当たり前だと僕は思っている。
 あなたがもし優しい人ならば、事情を話せば断らずに助けてくれるだろうか?

 僕の抱える事情は、並みの家とは違う。並みの家族とは違う。
 一家に一人は若くして死んでいる。死に追いやられるからだ。

 とてもとても重い話だが、聞いたらあなたは確実に助けてくれるだろうか?
 話したのに助けてくれないようなら、僕はあなたを酷く冷たい人だと思うだろう。

 実際、子供の頃がそうであった。
 その事情では、助けざるを得ない。と思わせるだけの理由があった。

 だがそれでは、僕が他人に助けてもらうばかりで、お荷物になる。

 更に、僕が「普通の人間関係」を作れなくなる。

 だから自らやめた。これは自分のマイナスにしかならないとわかったからだ。
 自分が当たり前の人間関係を、普通の家庭の人たちと同じように少しずつ構築していくこと、それが、僕にとって最も大切であり、将来のためだと気づいた。

 家の話を他人にして味方になってもらっても、その場でいくら優しくしてもらっても、家の中は変らない。
 良くなるどころか、問題は拡大化だ。
 更に、そこで優しくしてもらっても、僕はひとつも皆と人間関係を作っていない。

 僕は友達一人できない。

 友達とは、自分の過去を気の毒がって助けてくれる人のことではない。

 自分が優秀だから褒めてくれて、能力で選んでくれるものでもない。

 優等生の良い子だから、何かの代表者のように選んでくれるものでもない。

 それでは、友情は作れない。

 少しずつ、接している今の思い出こそ、友情の1ページなのだから。
 1ページが連なって、やがて大きな友情となっているのだから。

 「気づいたら、なっていた。」

 それが、本物の人間関係だ。

 振り返れば、いつの間にか、それが本物だ。

 あなたも、自分自身が作りたい友情のドラマがあると思う。
 自分だけは自分が作りたいドラマの一員になれる。
 そのドラマに噛み合った人が、自然と相手になる。

 僕は、「自分の辛い話を聞かせる役」をやめた。
 自分の生い立ちを自ら友人に話して、憐れんでもらう役、をやめた。

 人を信じて、明るく話しかける役になった。

 欲求不満でも、必ずしもそれを解消するために友人と接しなくていい。

 それでは、誰を相手にしても「家族の関係から続くドラマ」しか作れない。

 つまり、自分の家の中で起きそうなこと以外は、起きない人生になる。

 僕はそんな人生は嫌だった。

 「僕の家ではあり得ないドラマ」が良かった。

 なのでそうしたのだ。

 親の話を持ち出せば、そこから関連性あるドラマしか作れない。

 家の中は最初の運命。

 だが、家の中のドラマと同時進行で、外に出ればドラマは増える。

 仲間が10人いても、ひとりひとりと新しいドラマが生まれる。

 個人的に親しくなろうと何人かと接していれば、その中でもどんどん仲良くなる友人が出てくる。
 自分がどんどん興味を持つ相手が出てくる。

 自然と仲良くなる。

 「新しい出会いがありました。」

 ここで自分が選択するのだ。

 家族のドラマの続きにしますか?新しいドラマを始めますか?

 ここで「新しいドラマ」を僕は選んだ。

 家族のドラマは、悲劇のまま終わらせた。

 どうにもならない。愛されなかった運命、として、終わらせた。

 「神は世を愛した」

 ならば僕は既に神に愛されているから、それだけで始めることにした。

 人は誰もが悟りの道を目指して、今生を生きる。

 だから、人の道について考えながら、生きることにした。

 悟りまでの道は遠い。だが、進んでいくことが大切なのだ。

 来世があるから。

 今生だけで終わりではないから。

 そう思い、新しいドラマを始めた。

 家族が関係ないドラマはいい。
 家が自分の人生に恩恵をくれる人はラッキーだが、僕のように他人に話してもいい気分にならない思い出ばかりの人にとっては、家のことなど出しても損にしかならない。

 嫌な話をするとき、僕は他人の前でその時の気分を思い出す。
 だから自然と嫌な顔を見せることになる。

 人を恨んでいる時、嫌いな人の話をすれば僕は憎しみに満ちた顔になる。
 辛い話を聞かせている相手ほど、僕の嫌な顔ばかり見ることになる。

 嫌な気分で嫌な話をされても、相手だって苦痛だ。
 だからやめた。

 「この人といると苦痛」

 となれば、誰だって嫌になるから。

 相手を喜ばせようとして良いことを言えば、僕は心の中で相手をバカにする。
 そして罪悪感が生まれる。
 必然的に、それは態度や表情に出る。

 相手を不快にさせる。
 相手も無意識に、僕の疑心を感じる。

 だから、信じて正直に、今本当にここにいる僕が思うこと、悪意ない意見を言う。
 相手を気遣い、優しい気持ちで接する。

 そのようにする努力を開始した。
 時々嫌になった。

 どうしたらいいのかわからないからだ。
 誰も教えてくれない。親もそんなことをしてくれたことはない。

 もういいよ!と怒りを感じて放り出そうとしたこともあった。

 でもなあ、と思い直した。
 放り出して損をするのは自分だけ。
 それで困るのも自分だけ。

 嫌でも辛くてもわからなくても、自分でやるしかない。

 沢山考えてやるしかない。
 失敗しても仕方ない。
 僕もしてもらえなかったのだから。

 だが、努力すればがっかりして落ち込んでも、後悔はなかった。

 「精一杯頑張ったのだから、しょうがない。」と思えた。

 心の中に聞こえてくる恨み言と、必死で戦った。
 嫌なことばかり言う親といて、嫌な言葉がすぐに浮かぶようになっていた。

 やめてくれ、やめてくれ、汚いことを考えないでくれ!

 心の中で叫ぶようにして、戦った。
 僕は醜い人間になりたくないんだ!と戦った。

 僕ならば嫌だった。
 僕のご機嫌を取って、いい顔をしてくる友達。
 でも心の中は真っ黒。
 醜いことを考えている友達など、表面ではいいことを言っていても僕は嫌だった。

 言葉はきつくても、心の中が綺麗な友達が欲しかった。

 「だったらまず、自分がならねば。」

 心が綺麗な子は、心が綺麗な子を選ぶだろうから。

 そして自分の心が綺麗になれば、自分も同じような人を選んでいけるから。

 自分自身が「自分もそうなのだから、選んでよい。」と自信を持てるから。

 当時、子供の頃は、「僕みたいのは明るく人気者の子になど選ばれない。」と思っていた。

 なぜならば「僕が全く違うから」だ。

 そうか、ならば、「自分もそうなればいいのだ」と気付いた。
 そしてなった。

 「自分が選びたい他人」を僕は目指した。

 他人は鏡と同じ。

 僕が見て選びたい他人に、向こうから見て僕がなっている。
 それならば、僕も相手を選ぶし、相手も選ぶだろう。

 とりあえず、自分がなれもしない人を求める権利はない。

 そのうち見捨てられるとか、他の子がいいに違いないとか、勝手に不安になるだろう。

 自信がないならば、自信を持てるよう変わるしかない。

 だから、僕は離れた相棒や恋人を信じている。

 「俺もそうなのだから、あいつもきっとそうだ。」と思える。

 実際には食い違っていたら、関係は続かない。僕の独りよがりで終わる。

 だが、続いた。
 心底、心が通じ合う感覚を分かち合った。

 「なんだこれ!」

 一緒に顔を見合わせたことが何度もあった。

 騒いだこともあった。

 心の内から湧き出てくる不思議な感覚。

 「なんだこれ!なんだこれ!なあ、今なんか…」

 「わかる!わかる!」

 一緒に驚いた。僕は言葉に変えられなかったが、親友がすぐに言った。

 「なんだこれ!気持ちいいー!」

 大騒ぎだった。

 「これって、一体感とか、以心伝心とか、そういうやつかな?!」

 なぜか、抱き合った。
 肩を叩いて、抱き合った。

 それはいつも、語り合いの場ではなかった。
 語り合いの場は、楽しかった。面白かった。わくわくした。

 だが、一体感を味わったのは、常に「一緒に何かをしている時」だった。
 同じ目的の元に、何かをしている時だった。

 最高の感覚だった。
 一生涯忘れないだろう。

 なにせ、泣いたのだ。
 涙が出たのだ。勝手に。

 あれが、感動というやつだ。

 互いに胸の内から湧いて来る何かに、一緒に驚いたのだ。

 あれを一人で説明して起こすなど、到底無理。不可能。
 自分一人で画策して、あの感動を体験するなど、不可能だ。

 愛も友情も、麻薬だと思う。

 「あの感覚をもう一度味わえるなら。」

 と思ってしまうのだから。

 物や金がいくらあろうと、「他人と一緒に感じた摩訶不思議な感覚」は、味わえない。
 いくら人気のアミューズメントパークに行っても、高級な店に行っても、優しい言葉や誉め言葉をかけられても、一人では決して味わうことのできない、最高の感覚。

 辛い時には思い出して、泣きながら糧にして前に進める思い出だ。

 どれだけ裏切られてきたかわからないが、それでも、稀に出会うそんな体験があるならば、傷つけられた過去など帳消しにできるほどの価値がある。

 その関係は、決して友人たちが気の毒な過去を持っていて、僕が頑張って助けてあげたという関係ではない。
 相手が一方的に喜んで、「これでもう平気?」と心配した関係ではない。

 何もない。ただの友人。そこから始まった。

 当たり前の、少しずつの関係。

 お互いの背景を理由にしない、今を根拠に作った未来の関係。

 沢山仲間がいたら、裏切り者は出た。
 嘘をつくやつもいた。

 その度に、誠実な友人たちは傷ついた。
 泣いて怒鳴りつけていたこともあった。

 信じていたからだ。

 少しずつ減っていき、大人になり疎遠になり、最後は相棒が日本を去って、誰とも会うことは無くなった。

 そして思い出は、今も記憶の中で燦然と輝いている。

 時が経てば経つほどに、輝きを増している。

 恋愛などおまけみたいなもので、殆ど記憶にない。
 常に誰かと付き合っていた割には、殆ど記憶にない。

 それほど、友情が絶大だった。

 あの体験があるからこそ、余計に僕は少しずつ、噛みしめていくような関係を作りたくなる。

 僕はもう、そんなに若くない。
 もういい年になった。

 だからこそ、時間を無駄にできない。
 適当なことをして、独りよがりで終わるような関係に、時間を費やしていられるほど、時間を無駄に使えない。

 僕はまだ、満足できていない。

 まだ、あの時のような感動が欲しいと思う。

 だからこそ、人を大事に、少しずつ、気に入る気に入らないで簡単に判断せず、信じて前に進むのだ。

 人の自然を壊さないように。

 水面が揺らがぬように、その自然を壊さないのだ。

 川を塞き止めれば、水は濁り、毒が溜まる。

 自然と共に流れながら、その流れを壊さない。

 流れにそって掬い上げていくように、水面を撫でていくように、触れ合っていくのだ。

 「金に替えられない価値を知っている」

 それが、僕にとっては幸せな人生だ。