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暴力的な人々

 暴力的な、という意味を理解していない人がいる。

 勝手な決めつけ、一方的な罵倒、非論理的で感情的な理論の押し付け。

 無関係な人々を巻き込んでのたった一人への批難、虐待。

 これらは全て「暴力的な人々」によるものである。

 殴らなければ暴力でないわけではない。

 「良い単語」を駆使しては、「理想的なこと」を言いながら、特定の人を暴力によって追い詰めている人はいる。

 自分の意見ならばたった一人で相手の側に自由な意見を許せる立場で伝えるもの。

 当たり前のことである。

 これこそ、常識である。

 「皆が」と言い出す。相手の話を先に聞き、背景事情、論拠など、様々なものを理解した上で、「相手に理解可能な形」にして説明するものである。

 それが本当の「否定的意見」である。

 しかし、現代社会の人々はすっかり愚かになってしまった。
 感情的かつ暴力的。

 自分自身が野獣と化してしまったので、自分が暴力をふるっているという自覚すらない。

 「あいつが気に入らない!」と感情が沸き立てば、即攻撃。

 ただの野生動物である。
 言葉を覚えただけの動物である。

 言われた通りに動くよう躾けられた、親のペットである。

 こんな横暴が許されてなるものか。
 これが人類の進化の結果なのか。

 人を批難している人々、今回紹介する武田先生に批難を浴びせ、後から真実が発覚した後にも平然と何食わぬ顔で生きている人々。

 そのような人は、人間として進化する気すらないと言える。

 厳しくはない。
 人間とは、自分自身の失敗を反省し、過ちを犯せばそれを悔いて危害を加えた人の身を案じて詫びるものである。

 動物的で暴力的な人とは、感情が起きたら即攻撃し、よくよく事情が理解できて「自分が思いこんだ事実は起きていなかった」となったら、「だったらいいや」と平然としている人のことである。

 思い込んだ現実の中で一人で暴れたのである。
 これが暴挙でなくてなんなのか。

 人間が完全に敵になっている人とは、それについてなんとも思わないどころか、自分の身の心配をして更に人を攻撃する人のことである。

 武田邦彦先生のように、自分が発見した真実を皆の未来のために訴える人が、利権に溺れた人々に批難され、感情のぶつけどころが欲しい人の的にされ、そのまま放置されてしまう社会が「人間社会」と呼べるのだろうか?

 少なくとも僕は、「自分が真実を訴えているのに、それを無視され迫害された」という経験が、家庭内から既にあった。

 一度でも「本当のことを信じてもらえない」という目に遭った人ならば、人の言ったことをそのまま鵜呑みにして、自分が直接知りもしない人をやたらバッシングしたり、また相手の事情も気持ちもよく知らないのに、誰かの悪口に乗っかって良い人ぶったりはしないだろう。

 僕は「自分は子供の頃に迫害された」と言う人の中でも、自分が反省することなく、聞いただけの話で人を批難し、また知りもしない人を悪人にしながら自分が被害者ぶる人だけは、「迫害されたという事実そのもの」を信じない。

 本当にそんな目に遭った人間が、他人を同じように迫害できるわけがない。

 人間であれば。

 心が痛んでとてもそんなことができるわけがない。

 してしまったとしたら、自分の罪と相手に与えた苦しみを感じ、自分自身が辛い苦しみを背負うだろう。

 本当に迫害されたことのある人間が、人を迫害できるわけがない。

 その痛みを知っていれば、自分自身が「あの時の痛み」を人に与えることなどできるわけがない。

 実際、武田先生のような方が不当に批難されるのは世の常でもある。

 彼のように本当にカッコいい主人公になれた人は、嫉妬深い烏合の衆の的になるのは最早宿命である。

 より格の高い主人公であれば、それだけ嫉妬されていて当然なのである。
 より格の高い主人公であれば、その分勇気があり、真実を訴え汚い連中に叩きのめされるのは世の常なのである。

 僕は今の社会について、

 「現代社会は愛や正義が勝利していて、悪はあるものの全体的に幸せな社会になっている。」

 とは思っていない。
 その正反対に、現代社会は昔に比べて愛や正義の力が衰え、欲望まみれの汚いものに向かっている、と思っている。

 だからこそ、現代社会で「これが正しい」「これが理想」と教え込まれるものを、一切信用しない。

 自分自身が「それなら納得だ」と心から思えたもの、また、実際に実行してみて「これが正しい!」と成功したものに限り、信用する。

 世の中は自分一人では変えられないが、僕は武田先生のような方が例え叩かれていたとしても、大衆に乗って一緒に罵ることはしない。
 僕自身が、自分と言う一人の存在として、自分の人生を主人公として生きるためだ。

 真実を語る人が、必ずしも世間で「善人」「正しい」とは言われない。
 寧ろ、その逆であることが多い。

 本当にヒーローになれるような人は、歴史を振り返っても常にその時は叩かれ、迫害され、そして彼の残した真実が後から真実だとわかるものである。

 彼が残した言葉が、生み出した物が、後から現実に人々を救うからこそ、彼はヒーローなのである。

 漫画ではないのだから、悪がいるところにパッと登場して敵をやっつける、なんてことが「あるわけがない」のだ。

 そんなカッコいいシーンに憧れる人は、それを真似して「安心して」叩けそうな人を探す。
 そもそも、本当のヒーローは「叩けそうな人間」を探さない。

 本当に平和を愛する人は、人々が敵とならないよう、自分自身が人の敵にならないよう、自分が危険を冒しても人を守っているものである。

 大衆や権威という盾に守られながら、どこにいるのかわからないくらい埋もれた人間は小石を投げつけるような真似をする。

 そして石を投げつけた相手の方が正しいと発覚すると、今度は加害者でありながら被害者に媚びて守られようとする。

 恥を知れ。

 武田先生の勇気に僕はいつも感動する。
 実のところ、僕も知っていることが彼の話の中には時折あるが、僕にはそこまでハッキリ言えるだけの勇気がまだない。

 勇気がない僕は、個人的な相談に来た人や、レッスンに来た人に、こっそりと教えている。
 根源は知っているから、時に相談に来た人に講座のように社会の流れを解説し、悩める人の両親が何に従い何を恐れ生きていたのかを説明する。

 これでは全く足りない、と分かってはいるが、どういう形にすれば僕にも可能な形で人々に発信できるのだろうか、と思案している。
 そのひとつが、このホームページである。

 武田先生は、70歳を過ぎている。
 このように勇気ある人が存在していることそのものが、僕のようにまだ年若い人間の希望なのだ。

 存在そのものが希望である。
 それが真の親と言うものである。

 自分の子供の真の親になれた人は、社会に対しても真の親になる。

 なんという大きな愛を持った方だろうか、と僕は感動する。

 そして僕のように自分自身が勇気を持てないのに、それでも「この人が正しい」と分かる人間にできることは、彼の後押しをすることである。

 自分自身が頼りにする存在を押し上げることは、「もっとこのような人を増やすために貢献している」ことになるのだ。

 現代社会の「噂の力」によって、流れが作られている。

 自分自身が「もっとこんな世の中になってほしい!」と願うならば、まず自分が目立つことでもなく、誰かを批難することでもなく、「この人が良い!」と心から思える人を押し上げるのだ。

 大衆の力は大きい。
 叩かれないように叩くのではなく、本当に正しいと思える人を世に押し上げていくことこそ、平和的な戦い方である。

 批難と批難がぶつかれば、必ず争いになる。

 ならば、批難に対して正しいと信じるものを賛辞することで、対抗勢力を強くするのである。

 「人類の敵」になっている人は、賛辞したくもない者に従い、自分がなりたい「賛辞すべき人たち」を批難する人である。

 我慢して称賛できない人に従い、従わない人を叩く。
 つまり、残るは敵と敵、自分は孤立である。

 愛すべき人は、自分自身で選び、そして守るものである。

 自分が守った者が、自分の味方になるのだ。

 というわけで、今回の武田先生のお話を皆さんにも是非聞いていただきたい。