まだ見ぬ友人へ, 非会員向け

人間として当たり前のことが身についていない人

 自分より年上の家族ならば、必ず身に着けていて欲しいものが僕の親族には身についていません。

 年を取れば誰でも身に着けられるものです。

 落ち着き。思慮深さ。人徳が生み出す見えない輝きです。

 経験があるからこそ生まれてくるもの。

 苦労してきたからこそ身についている当たり前のものです。

 成長すれば誰でも身に着けられるものです。

 内面の努力を怠らなければ、誰でも身に着けられます。

 それが僕の親族にはありません。

 これがどんなに嫌なことか。

 最悪です。

 年長者は人格に優れ、強要しなくても文句を言わなくても、すんなりと人を導いていくものです。

 皆がうまくいく方向に導いていくのが、年長者たる者の役目です。

 その当たり前のことができない身内に会うと、存在ごと消えて欲しくなります。

 これこそ苦なのだなと思います。

 親だけでも最悪です。尊敬できない人格の親。死にたくなりますね。

 自分は親の体の一部を切り取った存在です。親が尊敬できない人なら死にたくなって当然です。

 このような人を見習えば良いのだ、と安心できるだけの人間性がない。

 金と物と肩書の価値しかわからない、表面だけで作る人間。

 内容がないのです。

 中身が無いのです。

 魂の価値を感じないのです。

 本当にこんな人間が存在するのか、と閉口します。

 これでは、人間ではなく野獣です。

 欲のままに生き、道徳心や人徳を備えなくては、感情のままに動く動物です。

 憎しみに触れると僕はとても傷つくので悲しくなりますが、身内の場合は格別です。

 人間性に優れていると尊敬すらできない年上の身内。

 立派だと自慢することが「社会で特別すごいことですらない」程度。

 下しか見れない向上心の無さ。人徳の低さ。

 それが身内なら消えて欲しくなります。

 年上の身内なら、自分より優れた人格を備えていることなど当然です。

 自分より深い考えがあり、落ち着きがあり、人の気持ちを読み、感情など制していられて当然です。

 少なくとも自分自身よりは、優れていて当然です。

 そうでなくては年長者たる資格がありません。

 長く生きているのだから、自分より心の鍛錬は多くできているのです。

 黙っていても、年長者は安心感を与えてくれるものです。

 命令しなくても、人をうまく回すものです。

 周りに争いが起きないよう、平和に導いていけるよう、皆が幸せになれるよう、不安や問題をうまく取り除いていくのが、年長者です。

 だから尊敬されるのです。

 当たり前です。

 「そんなこと難しい」

 と思わないでください。難しいと思うから難しい特別なことのように思えるのです。

 だからできなくても平気だと思い、そのような人に支配されるのです。

 自分が認められない人間に、認められようとしてはいけません。

 認めることもできない人間に認められようとすれば、自分が本当にクズになってしまいます。

 自分自身が「この人は尊敬できる」と思える人に認められればいいのです。

 誰にでも認められればいいわけではありません。

 認められるということは、その人と同じになってしまうということです。

 「この人のようになれたら」と尊敬もできない、憧れもしない、そんな人に認められなくていいのです。

 「この人と同じような人になりたくない」

 と思える人には、決して認められてはなりません。

 認められてはならないのです。

 認められようと頑張っている相手に、必ず人は似てきます。

 認められるために、相手の理屈を受け入れるからです。

 似たような人間になっていきたくないならば、認められようとしないことです。

 

 それにしても酷いものです。

 年長者たる自覚はどこに行ったのでしょうか。

 これが日本の大人なのか。

 そう思うと残念になりました。

 そして、この人たちに決して認められない人生を生きるから、僕は今幸せになれているのだなと思いました。

 権威主義で人を蹴落としながら生きている人に、僕は嫌われます。

 それを正しいと信じて、必死で従い続ける人には嫌われます。

 他人からより多く奪った人を賛辞している人には嫌われます。

 しかし、人間に最も必要なものは、愛や勇気や、信頼なのだと思っている人には好かれます。

 子供を愛し、仲間を大切にしている人には好かれます。

 だから幸せなのです。数は少ないです。

 少ないからこそ、心を通わせた思い出は何年経っても残り

 言葉にできない感覚をいつまでも与えてくれるのです。

 この人たちが、僕の最後の敵なのだろうと思いました。

 運命が与えた敵を乗り越え、生きていかねばならないと思いました。

 以前から言ってはいますが、僕はもうそんなに長くここにはいないと思います。

 相談は今も受けていますが、同じ場で受けることはいずれ無くなると思います。

 何が自分にとって幸せなのか、ずっと考え続けています。

 周囲を見れば、つい周りの状況に合わせて何かしたくなってきます。

 それが魂から生まれてくる信念なのか、それとも何かの不安からなのか、よくよく考えています。

 僕はもう二度と人生で道を誤れないのです。

 もう二度と道を踏み外せないのです。

 この道、という道を選び自分として生き始めたならば、もう二度と道は踏み外せないのです。

 もう二度と逃げたくない。もう二度と自分に負けたくない。

 若い頃に犯した過ちは、生涯消えることの無い失敗となり、未来を変えてしまいます。

 失敗に気付くことこそ、幸せになるために必要なことなのだと、今はよくわかっています。

 僕は人生に大敗しましたが、負けてきて良かったと思っています。

 「この道こそ負けなのだ」と気付いて良かったと心から思っています。

 どんなに自分の道を踏み外しても、仏の道を踏み外さずに生きてきてよかったと思っています。

 誰が酷いとか悪いとか、そんなことはどうでもいいことだったのです。

 「自分は自分の道を踏み外しているのだ」と気付いたことが、最も重要なことでした。

 若い頃の無鉄砲さは無く、今は怖いと思えることも増えました。

 そんな時、僕はアメリカに行った相棒を思い出します。

 何もかも捨てて、たった一人英語を学んで飛び立った彼を思い出します。

 「人生やり直す」

 そう言って、旅立ちました。

 何もわからない未来に進む時こそ、本当の自分自身の道を進む時です。

 何もわからないのが、本物の未来なのだから。

 しかしその先に希望の光が差しているのが、本物の未来なのだから。

 そこに飛び込んでいく勇気こそ、幸せになるために必要なものなのだから。

 「あいつはどれ程の勇気を出しただろうか」

 あの時を思い出すと、あいつがやるなら、俺もやる、と思えてくるのです。

 ありがとう。

 ありがとう。

 

 相棒よ。

 俺は、何も持たずに理想にも反して生きてきた。お前と共に。

 踏み外さないようにしたのは人の道くらいで、理想の道はみな踏み外してきた。

 それでも人の道を踏み外さなかったから、お前に出会い、あいつに出会い、一人ではなくなった。

 最も身近な味方であるはずの家族に、殴られ罵倒され、堪えてきた。

 決まり通りに生きていることこそ最も優位に立てるものだと「思いたい」輩に、馬鹿にされても罵られても、一人従わず生きてきた。

 どんなに心細い時も、お前とあいつがいてくれることが、どんなに心強いだろうか。

 お前も怖くなかったはずはない。平気だったはずはない。

 何もわからない行ったこともない異国に旅立っていく孤独は、この国への絶望と未来への期待だったのだろう。

 俺も絶望している。人々に絶望している。

 この街に絶望している。

 お前と同じように絶望している。

 だが、俺の国はここではない。

 俺の国は、他にあるのだ。

 相棒よ、この国は、この街はおかしい。

 あの頃と比べても、相当おかしくなった。

 意思もなく、ただ言われた通りに生きているだけ。

 我慢して周りに合わせて、人生をコピーしたように。

 たったひとつの意思の元、全員が同じ人生を歩むよう生きているのだ。

 その意志に沿って早く同化しなくては、蹴落とされていくのだ。

 俺はたったひとつの存在になるために、自分を犠牲にして同化したくない。

 俺の人生は俺のものであり、同化を強要されても俺は同じになれないから。

 自分を失えればいいが、どこまでいっても無理だった。

 どうせ無理なのだから、最初から負け組になった方がいい。

 負けて自由を選んだ方が、俺は幸せだ。

 負けて自由を選んで、もう幸せだ。

 敗者たちよ、生き延びろ。

 その道こそ勝利への道だ。

 従って生きることができなかった人間は、従う必要のない人間なのだ。

 従って生きることを理想だと思っている人間は、従わずに生きることができないのだ。

 大人になっても大人に代わりに決めてもらわなくてはならないのだ。

 全ては自然のままに。

 なるようにしてなっている。

 不安を煽る嘘の情報に惑わされ、自由を捨てて生きる道など進むべき道ではないのだ。

 他人に従順に生きて、自分の人生を生きられるはずなどないのだから。