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まだ結婚できない男

 まだ結婚できない男 カンテレ

 推奨番組です。
 既にご覧になっている方も多いかもしれません。
 前作を観て、すっかり気に入りました。13年越しに続編だそうで、作品中でも13年経っています。

 40歳独身だった男が、53歳になって今も独身。

 しかし、この主人公桑野信介、この男が自己実現している男です。

 好きな仕事をして、一人の時間にやりたいことをやる。

 「やってみたいこと」をどんどんやる。
 一人でも十分楽しんでいます。

 子供のように、思いついたことをやっています。
 それが本当に成長している人です。成長していく人、と言った方がいいでしょう。

 大人になっていくのは子供だけです。
 子供なのに大人のふりをして無理している人は、成長できません。
 子供が子供であるから、少しずつ大人になっていくのです。
 子供の自分を失うわけではありません。

 親の親となって疑似自己を生み出した人は、自分を捨ててふりをして生きています。
 成長できませんが、疑似成長という「成長したふり」をして生きています。
 ですから、内面的には成長しておらず、現状を生きるのも我慢が必要です。周りから見たら普通に大人としてやっているので、誰もわかりません。

 本人の内面では、きちんとできているか、叱られないか、間違っていないかなど、いつまでも親の目が光っているような感覚を持って生きています。

 誰かに自分のしていることを批難されないか、ビクビクしているのです。

 それは本人の能力不足ではなく、認知の問題です。
 別に問題はないのですから、そのままでいいのです。
 本人が「これでいいのかどうか」わかっていないところに問題があるのです。
 意思で生きていない。周りが決めた正しいことを、自分が選ぶはずのことにすり替えているのです。
 結論から言うと、まだ何も決めていません。

 そして決めまくっているのが、このドラマの主人公、桑野です。

 他人が何を言っても気にしません。自分の楽しみとやりたいことを追究します。
 それでいいのです。

 自己実現的な性格の人は、周りには我儘だと思われることが多いようです。
 周りに合わせないからです。

 それは良くないことだと思うかもしれません。
 しかし、多くの人は周りに合わせること、人に従うことにストレスを感じています。自由になりたいと思う反面、人に合わせて皆と同じでいたいと思う。
 そうなると、「自分のやりたいことをやっても平気な世界」の方が先に作られないだろうかと無茶なことを願うようになります。

 反論されても好きなことを実行していくことの方が、確実です。
 反論されないこと、賛辞されながら生きることを最優先にすれば、社会の常識が変わっていくのをただ従って待ち続けるしかありません。

 ところが、社会で本当に成功していく人、また幸せになっている人は、人に合わせずに幸せになっているのです。
 彼らが選んだのは、「他人に批判される方」です。
 賛辞を最優先にしなかったのです。また、他人と同じである安心感を捨てたのです。

 同じであれば安心です。排除の危険性がないからです。
 排除の危険性があるという不安を乗り越えれば、自分が本当に好きなことをして満足する日々を送れるでしょう。

 苦労するかしないかで言えば、苦労はあるでしょう。
 しかし、不満で我慢の日々でも苦労はあります。どちらを選んでも苦労は同じ分だけあると思います。
 ただ、満足があるかどうかです。

 そして「賛辞を得る」と言っても、それは「同意」程度であり、他の人たちと同じことをしているだけに、尊敬されて特別になることはないのです。
 常に周囲には自分と同じような人がいて、望んでいた特別扱いはありません。

 他人と同じである以上、特別になどなれるわけがありません。

 まだ結婚できない男は、これを書いている現在まだ四話までしか放送されていません。
 しかし、前作とは違いました。
 13年前とは違う、現代社会を強く反映する作品となっています。

 主人公桑野を取り巻く人々の中には、キーとなる女性がいます。

 一人は女性弁護士。
 一人は離婚したカフェの女性店長です。
 弁護士の女性は、離婚した女性の離婚時の弁護をしていました。

 他にも女性キャラはいますが、この二人は幸せになる方とならない方のわかりやすい人格をしているので、参考になると思いました。
 僕がいくら説明しても、なかなかイメージがつきにくいと思います。
 そこで、是非「こんな感じだ」という参考にしてもらいたいと思いました。

 カフェの女性店長は、離婚して幸せになるタイプです。
 離婚する時も、諦めて次の人生に行く決心をしています。第二の人生に行ける人です。

 弁護士の女性は、神経症の人です。
 立派な職業についていますが、自分に満足していません。
 主人公のみならず、離婚した女性にも「こうでなくてはならない」を押し付けます。
 そして、自分は酔っぱらって「お母さんごめんなさい」と叫びます。

 「私はうまく行っている!」と説明して自分に言い聞かせる彼女、想像力が欠如しており、桑野の言う事を勘違いします。
 情緒的表現や、間接的表現が理解できないのです。
 「言ったことは全て額面上通り」で、冗談も通じません。
 桑野が自分のミスを目立たないように配慮してくれている憎まれ口を、ただ嫌味を言われたと解釈します。
 人の優しさがわからない人なのです。

 一方、カフェの女性店長は周囲が桑野の口の悪さを「額面上通り」の意味で受け取っても「悪気はないんですよね」といつも庇っています。物事を両面から捉える人です。優しい人なのです。

 離婚する時、既に諦めている彼女に対して弁護士は「私が諦めきれなくて」という理由で、彼女の夫を探りました。
 結果、夫には愛人がいて隠し財産のマンションが出てくるという事態になりました。
 弁護士は躍起になって「権利を主張しないと!」と意気込んでいましたが、彼女は「もういいんです、あの人にお金なんかもらっても」と沈んでいます。

 「そんな弱気だから舐められるんですよ!」

 と怒鳴る女性弁護士、完全に自分のためです。

 もう顔も見たくない、浮気が発覚した夫。
 自分はもう一人で生きていくから、あの人からお金をもらうために長引かせたくない。
 その精神的苦痛を計算できない人なのです。

 ただでさえ傷ついているのに、この上知らなければ知らないままで終わった「愛人を囲っていた」という事実。更に傷つくだけです。
 物や金、形ある「権利」が大事。
 見えないものがわからない弁護士と、カフェの店長は対照的です。

 13年経って、桑野はモラハラにあっていました。
 これは社会をよく表現したものだと思いました。

 彼は優しく面倒見が良いですが、口が悪いです。
 その口の悪さを皆に叩かれます。
 「悪いことを言ったら皆で叩いても良い」
 という現代の風潮です。正義を振りかざせば集団で追い詰めても良い。独裁政権の国家と同じですね。

 殆ど小学生のノリです。一対一で大人が話をしているのに、横からいちいち皆で意見します。恐ろしいことです。こんなレベルの社会で良いのでしょうか。

 大人は大人同士が話していたら、横から口出ししないものです。
 本人がどうするかは本人が決めます。
 周りから可哀想とかこうしなきゃとか、母親代わりになってヤジを飛ばす必要はないのです。

 自立していない大人たちです。

 それがうまく行かなくても行っても、本人の実力です。
 今の社会は完璧に良い結果になるように、周りが見張って皆で同じことをするようになりました。
 そしてお手本通りにできていることを「良くできた」と思い、現実の自分の人生も人間関係も、何も作れません。

 「ちゃんとやってる」はお手本があると思っている人の観点です。
 ちゃんとなんてあるわけがありません。
 全員大人です。
 偉くても偉くなくても、全員大人です。どの立場にいようと、権利はあります。そして権利も人間が与えるものではありません。

 叩かれるかもしれませんが、それは社会がどうであるかにより違います。
 やりたいならばやればいいのです。

 歴史上、周りの良い子にしていて革命を起こした人も、何かを発見した人も、功績を残した人も、いません。
 言われた通りにしていて、幸せになるならば、「言われた通りに従っているのって幸せ!」と心から感じていなくてはなりません。

 これが正しい!は誰もが知っています。

 やっているからには、大人なんだからそれがやりたくて楽しくてやってるのだろう、となります。

 やりたくないけどやってる、は言い訳です。

 やりたくないけど、~だからやる必要があり、やることに決めたから「やりたくてやっている」のです。

 ドラマの主人公桑野は、博学です。
 色んなことを知っています。建築家ですが、自分の好奇心で学ぶので、色々なことを知っています。

 好奇心の無い人は、教わったことばかり知っています。
 一人で追究したものがないのです。

 一人で追究するものは、「一銭の得にもならない」のでやらないのです。
 後から褒美が出てきそうなことしかしないならば、生きる価値は他人が決めていいと納得しているのと同じです。

 自分が無くなっている人は、時に興味深いことをしています。
 していますが、「こんなことできてもなんにもならない」と言います。

 「なんにも」とは、人生の全てが他人の評価で決まるからです。

 他人が何かしてくれるのでないならば、自分が楽しいとか満足とか、そんなことはどうでもいいことなのです。

 しかし、本当の楽しみは一人の時間にあります。
 他人との時間は、別の楽しみです。

 どちらも大切ですが、今の社会では多くの人が最も大切なものを捨てました。

 自分一人しか得しないことは、自分しか実行させられません。
 自分が命じて、自分にやらせるしかないのです。

 他人が命じたことは、確実に他人の得になることです。

 相手の得にしかならないことを望んでくれる人は、なかなかいません。

 しかし、桑野は人の幸せを望む男です。
 自分が既に満足しているから、他人の幸せも願うのです。

 自分一人でやってきたからこそ、人にも甘くありません。
 人に甘くないのは、困難を乗り越えてきたからです。
 甘やかしていていける道はない、と知っているからです。

 その分、面倒見がよく、なんだかんだ人を助けています。

 周囲にもなんだかんだ人が集まってきて、「結婚なんかできない」と言われまくっているわりには、モテています。

 しかし、周りはどうでもいいのです。
 彼は好きな仕事をして、本当にこだわりたいことにこだわり、13年経ち功績もあげ、信念を持って生きています。

 本人が自分の人生を楽しんでいることが大事なのです。

 周りのことも考えなくては、と周りのことしか考えなくなった人は、自分の楽しみもなくなり、頑張ったのに満足できないという事態です。

 他人が褒め続けていなくては幸せでないならば、一人になっただけで絶望的に不幸です。

 大人でありながら、常に誰かが話をきいて見ていてあげなくてはならないなど、面倒でなりません。

 そんな手のかかる大人を構うならば、本物の子供たちを構ってあげた方が遥かにマシです。

 大人になったら「手のかからない子」になります。
 一人でも楽しんでいられます。他人にいちいち構ってもらえなくても、平気です。

 一人でも楽しんでいられる人同士が出会って、もっと楽しい時間になるのです。

 それが、このドラマの主人公桑野です。
 そして、女性店長です。

 桑野のシンポジウムでの演説を聞いて、話の内容がたまたま自分に当てはまったので自分が馬鹿にされた気分になり女性弁護士は内心憤慨していました。自分への怒りです。
 同じ演説を聞いていたのに、二人の女性の反応は全く違いました。

 女性店長は「いい話でした。勇気がわいてきました。」と言いました。

 女性弁護士は「ああいう言い方は敵を作るので良くないと思います!」と半ギレになっていました。

 「良くないと思います!」

 ムカついたのです。しかし、自分に言われたわけではないので、「ああいう言い方は良くない!」という形で八つ当たりしているのです。
 これがモラハラです。

 良くなかろうが、評判が悪くなるのは桑野です。
 余計なお世話です。
 自分が負い目のある生き方をしているから、勝手に腹立たしくなっただけです。そんなことは桑野には関係ありません。まったく親しくもありません。
 「良くないと思う!」という言い方をし、その後も気に入らないとやたら桑野の人格否定をします。
 単に自分が気に入らないだけなのです。
 相当な神経症なので、これはわかりやすいと思いました。

 「社会的に成功する抵抗」を見せたタイプです。弁護士です。成功しています。これでうまく行っているのだ、と自分に言い聞かせるために、社会的に評価されそうなことを続けるのです。

 社会では!一般的には!普通は!が旗印の人生です。軍隊というより、宗教です。
 同じことをしない人を見つけると、そのように批判して個人攻撃に出るのです。
 それは桑野だけに限らず、あらゆるところに出ています。
 細かいことでいちいちぶつくさ言います。

 「こうしてくれって頼んでないんだけど」
 ちょっと思ったのと違う形だと、すぐに不満を口にします。
 相手が如何にも「できないやつだ」という表現で文句を言います。
 甘えているのです。

 口調と言い方がすごいので、言われた方は自分が悪いのではないかと小さくなります。威圧的な女性ですから、画面で見ていても魅力的には感じません。

 本人は、私は優しくて真面目で、思いやりがある、と思いこんでいるタイプです。全く正反対で、人の気持ちがわからない人です。

 弁護士の女性と桑野の一人の時間が対照的です。

 弁護士の女性は、嫌々勉強させられている子供のようです。グダグダです。
 お菓子を食べながら暗い事務所で仕事をし、食事にしてもおよそ楽しむということができない人です。

 一方桑野は、一人の時も活き活きしています。一人の時こそ、と言った方がいいかもしれません。
 楽しみにしていたことをやり、時に真剣に取り組んでいます。知識欲も旺盛です。色々なことにチャレンジし、学んでいます。

 社会で認められる人生とは、女性弁護士のようなものです。
 そのために生きているのですから、こう言ってはなんですが、女性弁護士は成功してお金を持っているだけまだマシで、殆どの人から見たら人生の満足なんて望むことは贅沢過ぎです。

 同じ不満な人生を送っていても、社会的にそこまで成功することもない、現代の貧困に苦しんでいる人たちもいるのですから。あれだけ手に入れてまだ欲しがるか!と思えるほど持っています。もうこれ以上は無くていいでしょう。

 と思いますが、実際社会で成功している人の殆どはこんな感じでしょう。

 皆さんが怒られた、責められた、と思う「正しいことをやたら言っては自分を駄目にしてくる人」はそんな感じです。

 桑野も正しいことを言いますが、彼の場合は「お前がどうなってもいいのか」なのです。

 女性弁護士は「そんなことをしていると皆に悪く思われるぞ」という罪悪感の操作です。

 簡単に言うと、本人のことを考えてあげている人と、そうでない人なのです。

 良いことを言っていても、なんのためになるから言っているのかはわかりません。
 言葉は目的ではありません。目的あって言葉を使っているだけです。

 どんな言葉を用いているかは、本人の表現力、センスや性格です。
 どんな言葉を使っていても、目的は変わりません。

 言った言葉で人格が決まるわけではなく、人格があって目的があって、言葉は外に出てくるひとつの形でしかありません。洋服と同じようなものです。着ている服が同じでも、目的が自分が気に入っているからなのか、何かの催しがあるのか、デートで良く見られたいのか、わかりません。

 自我の無い人は「欲しい形」が決まっています。

 自分の一部を他人に求めるからです。

 ですから、相手の人格や目的は関係なく、その時その時必要な形をくれる人とつきあっていくのです。

 相手の目的や人格は、どうでもいいのがある意味楽なところです。

 欲しい形だけくれれば誰でもいいのですから。
 それならば、そんなに難しくはありません。

 ただ、その都度他人を操作する必要がありますから、自分を捨てて次々他人を動かすために生きねばなりません。

 女性弁護士は自我がありません。自我なんてなくても、社会的に成功することはできます。そんなものはあってもなくても生きていけるものです。

 そして幸せになどならなくても生きてはいけるので、何かそれもまた「なくては立派になれない」と思っている人がいるのですが、そんなものはなくていいんですよ。

 どうしてあの人はこうなのか、となんとかしたい人もいますが、そんなものはどうでもいいのです。
 真の神経症家族は、他人にどう思われるかしか考えません。

 真骨頂という話をするならば、不幸でも楽しそうにしていればいいだけです。
 ただ言う事をきいていればいいのです。
 欲しいものでなくても欲しいと言っていればいいし、嬉しそうにしていればいいのです。
 社会的に望ましいことをやりたがればいいし、やったらやったで満足しているふりをしていればいいだけです。

 死ぬまでそれを続けるだけの、そんなに難しくない人生です。
 何をすればいいのかは、もう決まっていますから考える必要もありません。

 僕はその人生の何が不満なのかわかりません。
 女性弁護士も十分持っています。
 それ以上ないくらい、優秀だし仕事もできるし、あとは確かに結婚だけです。
 それなりの地位の人を捕まえて子供を産んで、そうしたら完璧です。

 自分の満足と言うならば、そもそも人間は社会の理想とは全く関係なくやりたいことがありますから、そんなことを言っていたら社会の理想通りにならなくなります。
 人に自慢できる人生にしなくては賛辞もされません。

 賛辞されることが目的で生きているのですから、それでいいのです。
 やりたいことなんかやったら、賛辞してもらえなくなりますよ。

 僕はハッキリしないのが嫌いなので、往生際が悪いと思えます。
 女性弁護士も見ていてイライラします。
 自分はどう思うとか、要は自分の人生はこれでいいんだと説明してくるのですが、それでいいなら人に説明しなくてもいいです。
 「こういうのがいい人生だと思う」と言いながら、それが私の人生だと言う話なのです。

 つまらない話です。
 桑野のために話しているのではないのです。正当化のためです。

 これが正しいと思うなんて話は、他人のためにするものであって自分の弁護なら聞きたくもないですよね。

 というか、そもそも「自分が如何に正しいか」など聞かなくてもいいですね。
 目の前で自分相手に言われたら迷惑です。

 相手になんの得にもならないことをするものではありません。
 相手のためになることしかしないものです。

 皆さんも、自分のためにならないことをされたいとは思わないでしょう。

 他人と接する時は相手のためにする行為だけと言っても過言ではないから、自分一人の時が一番楽なのです。

 他人を目の前にして、自分がやりたいだけのことをやられても、迷惑以外の何ものでもありません。

 どう言えばいいか、どうしてあげるのがいいか、他人を目の前にするとある意味疲れますよね。考え続けていなくてはなりませんから。

 だから気心の知れた仲間は楽でいいのです。何かしてあげる必要がないから、目の前にいても気にせず自由にしていられます。

 正直、あそこまで口は悪くないですが、桑野は日常の自分に似ていると思いました。そして娘にも友達にも似ていると言われました。

 僕は桑野に親近感を覚えますが、つまりあれを作った人が自己実現しているということです。過去のシリーズと同じ方が脚本を書いているそうです。

 食事のシーンは、特に自分に似ていると思いました。
 一人でクラシックを聴き、一人でディナー。それもレストランのようにきれいに作って満足している。

 楽しいじゃないですか。一人で気分よく食事して、いいと思います。

 一人だとつまらないと誰が決めたのでしょう。
 一人の方が楽しいですよ。

 僕はべたべたするのが嫌いなので、自分の時間を持っていて、誰も知らないことを一人でしている人の方が好きです。
 それをべらべら話す人は、底が浅くてすぐに飽きます。

 知らないことを常に知らない時間にし続けているから、その人と接していて常に驚きがあるのです。
 何をしているのかは知らないが、これだけの人ならばきっと何か色々しているのだろうなという、人としての深みがあると魅力的です。

 自分と同じとか、知らないことはないくらい教えられてしまったとか、楽しいところが何もないです。

 「知らない部分が沢山あるのがいい」のです。

 別に知らなくていいです。他人のことですから。
 自分が人に教えないのと同じくらい、自分の時間を楽しんでいて欲しいです。

 一人の時間も楽しめない大人が、他人を楽しませることなんかできるわけがないですからね。

 当たり前ですね。自分で自分を楽しませるなど一番簡単なことなのに、一番知っている自分を楽しませることもできないのに、他人など楽しませてあげられません。

 カッコ悪い人は、一人で楽しんで何かするのが恥ずかしいのです。

 なんでも人に話して見せて、一緒にやっていないと恥ずかしいのです。

 自立するのが恥ずかしい。一人で生きるのは恥ずかしい。
 親子逆転しているだけあって、概念が逆転しています。

 皆と同じが恥ずかしくない。
 一人で決めたことをしていたら恥ずかしい。

 おかしな話ですね。

 それならばこうなるべきなのです。

 皆と同じことをやっているとカッコいい!
 教えられたことをやっているのってカッコいい!
 自分のことを自分で説明しているのってカッコいい!
 自分が従っていることに従わない人を皆で批難するのはカッコいい!
 自分にも当てはまる批判をしている人を制裁しに出向いていくのってカッコいい!
 社会的に良いことをやり続けているのってカッコいい!

 そうですか?カッコ悪くないですか?

 それぞれのカッコいいですからどうでもいいのですが、個人的には違います。

 周りがどうであっても、自分の意志を貫いて一人でも夢や希望を持っているのってカッコいい!

 僕はそう思っています。桑野もカッコいいと思います。

 劇中にも出てきましたが、実は僕も流しそうめん機を買いました。
 似たような感覚で、やはり楽しそうだから買いました。

 僕の場合は、いつも子供が僕に付き合ってくれます。
 先日のトニー・ジャーの悲劇は未だかつてない不評でしたが、いつも喜んで一緒にやっています。

 基本的に放っておきます。
 好きなことをやらせています。僕が好きなことを一人でしているので、真似して一人で楽しんでいます。
 本人曰く、勉強しろと一切言わないので、逆に怖くなったそうです。
 僕は、親が勉強していれば子供も自然とするのだろうと思い、自分自身が色々と勉強することにしていました。「勉強してる?」と聞く代わりに、「そうだ、勉強しないと」と目の前でいつも勉強していました。

 心理のことだけではありません。
 勉強はやり続けるものです。
 もっとやらねばといつも思っています。まだまだ足りる足りないの話にもならないほど、知識は足りません。

 桑野を見ていても、僕も勇気をもらえます。

 13年経って変わった社会をよく描いている、素晴らしい作品だと思いました。

 まだ始まったばかりなので、今後の展開はわかりません。
 今現在放送中の部分までで考えたものですから、僕も今後の展開で驚くことになるかもしれません。

 きっと何か驚いて、後から僕も考えが変わるようなことがある、と期待しています。

 自分が正しい方がいいと思う人は多いですが、僕は自分が後から間違っていることになる展開の方が望ましいと思っています。

 驚きが無ければ、発展も発見もありませんからね。