まだ見ぬ友人へ, 非会員向け

君は人間を知っているか

まだ見ぬ友人へ

 仲間として信頼できる家族の元に生まれなかった人は、心して生きねばならない理由がある。

 君は人間を知っているか。

 神経症者の子供は、心理的に危機に直面してしまうため、矛盾したコミュニケーションを受け入れてしまうという。

 完全に無力な幼児のうちに、自分の面倒を見てくれる親が危険な存在だと認識したら、どうなるだろうか?
 生きていけなくなる。

 人は認知の世界を生きる。認知の世界により「ここは安全だ」と認識することにより、なんとか生きていく。

 しかし、それはやがて外の世界に出ると更に危険な世界を生きねばならない結果となる。

 家のなかで争った方が、世界を敵に回すよりまだマシだ。

 家の中をまるく収めるため我慢して、外の世界で仲間も作れず、結局我慢してまるく収めている家の中に戻るしかなくなるのだ。

 危険を察知しないよう、彼らの感覚機能は停止してしまう。

 安心できる人がいないからではない。

 「安心だ」と感覚で実感する機能が停止してしまったのだ。

 それが「思ってもいないことを言うリスク」である。

 それが如何に危険なことか、重大なことか、僕の先生も再三著書に書いていた。

 そうなると、もはや支配の道しかない。

 だが、周りを黙らせて支配するだけの力を、一体どれだけの人が有せるだろうか?

 戦わずに済む方が遥かに安心で安全な人生になる。

 信じられないほど、現代社会人は自分たちが生きていると忘れている。

 僕たちは動物である。

 それを忘れている。

 人間は、人間を食っている。

 それは、気付く人だけが気づく事実なのだろう。

 確かに、考えると恐ろしい世界なのだ。

 正にこの世は地獄だ。

 愛とか信頼とか、それは人間が作り出した想像世界の言葉だ。

 そんなことより、生きるならば「安全な動物」を選ぶことだ。

 人を食っていない人を選ぶことだ。

 自分が人を食っているならば、食い続けるだけの力を有するしかない。

 24時間全ての人を監視しなくてはならないだろう。

 そしてそれをやっている人たちがいる。

 僕たちは自分たちがなんのために、誰のために、こんなことをして生きているのかさっぱりわかっていない。

 人の世は思うより、恐ろしいところだ。

 人が人を食っていると、知っている人もいる。気づいている人もいる。

 僕の先生も著書に書いていたが、他にもそう言っている人を見たことがある。

 人間が窮地になった時、露見するのだ。

 人間は人間を、食っている。と。

 神経症者は、家の中から外に出たことに気付いていない。

 家の中では安全が守られた方法を、外に出て知らない人たちの前でも維持している。

 その方法は親にしか通用しないのに、その方法はこの世界を生き抜く絶対の方法だと信じ込んでいる。

 どうあっても、絶対に何をしても安心な他人などいない。

 神経症者は、自ら自分を窮地に追い込む。

 そのひとつを挙げよう。

 安心な人だと確認するために、好意的な人に対して噛みつく。

 責めたり強引に要求を押し通す。

 それをした時点で、今生ではもうアウト。

 それがわかっていない。

 相手が何も反発しなくても、黙って受け入れて許してくれても、もう終わりなのだ。

 なぜかわかるだろうか?

 もう二度と、自分自身がその人に対して安心することができなくなるのだ。

 自分がやってしまったから、自分が気にするのだ。

 ただの八つ当たりや当てつけでしかない。

 過去から持ってきたため込んだ感情だ。

 それを吐き出してすっきりした時には、これまで安心していた相手に自分が不安を抱くようになっている。
 それからは、それまではなんとも思わないこともどんどん疑うようになっていく。

 疑うから、より攻撃的になり、安心するためにまた攻撃する。

 そしてまた不安になり、より疑うようになる。

 「きっと本当は嫌っているに違いない!」

 相手は散々尽くしてくれても、何度でも許してくれても、全くそんなことは関係ないのだ。

 人は自分の行動でのみ自分の感情を生むのだから。

 自分自身で首を絞めているだけだ。

 だから人を一切攻撃しない、操作しようとしない人は、人に対して安心している。

 妄想と戦っているようなものなのだ。

 「大丈夫か確認しよう」とした時点で、動機は「疑っているから確認して安心するため」だ。

 だから動機が行動により強化され、より疑いを増すのだ。

 安心するために自分が不安に陥るという、悪循環。

 「行動は元となった動機を強化する」ジョージ・ウェインバーグ

 だから神仏は信じていた方がいいのだ。その通りに生きていれば、自分の心が苦しくならずに済む方法ばかり記されているのだから。

 なんとなく、それをしていたら偉いと言われる、程度に考えてる人は不幸だ。

 ブッダの教えは悟りを開いた人間が残した、絶対の自然の法則なのだから。知っていて損はないし、実行すれば得しかない。

 現代社会では、沢山の人が人を食って生きている。
 まあ地獄なのだからそんなものだろう。

 僕がそれに気づいたのは、13歳の頃だった。
 俗世の醜さに驚き、恐れ、出家を願った時期があった。

 気付けば本当に恐ろしいものだ。
 僕も当時は子供だったので、孤独とか寂しいではなく「怖い」しかなかった。

 ナルシストは人の命を食う。
 だから危険な存在になるため、人に排除されるし、本人も人を排除する。

 自分から人を排除していることに気付いていないのだ。

 たまごから殻を破ることができず、殻の中で死んで行く。
 意志が生まれなかった。生存本能が心理的恐怖に負けた。
 精神の世界で負けたから、生存するのみになってしまった。

 この手のことは、気付いても言ってはいけない。
 当たり前だ。
 昔から人間の世はそうなのだが、気付くとみんな怖くなるから、人は認知の世界で「世の中はもっと良いものだ」と思って生きていくのだから。

 本当のことに気付いたら、世の中はパニックになる。

 嫌だなと思う。自分の先生が言っていたセリフを、自然と吐くようになっている。
 真似するつもりはないのに、自然とそうなっていく。
 こんなものなのだろう。

 本当のことを言える関係、というと、相手に対して思っている批判など、相手を傷つける内容のことだと思う人がいる。
 本当のことと言われてそれしか思いつけないあたり、完全に人間の敵だ。
 そんなことを言ったら平気なわけがない。

 言ったらまずいことを平気で思っているのが、スパイと呼ばれる人だ。

 だが、恐らく知っている人たちはもっと上の層で気づいている。

 敢えてそれが作り出されているということを。

 人間は人間を食って生きているが、社会では争わないようにして生きている。

 日本は全体が精神で屈してしまったから、仲間内で食い合っていてもなんの不思議もない。
 精神教育を受けてきた人々が、意思を持っている理由もわかる。

 人は自分が安心するためなら、どんな想像世界でも作り上げて思い込みの世界を生きる。

 だが、後が怖い。

 こんなはずではなかったのに!を繰り返すのが、現実を直視する勇気が出せない人だ。

 その勇気があるかないかが、現実の人生を決める。

 事実に沿った「大丈夫な理由」を確信の元に語ることと、自分を安心させるために「大丈夫なことになる理由」を作り上げるのは全く違うことだ。

 自分で理由を作っても、現実はそれに合わせて結果を出してくれない。

 自分がうまく理由を作れたら、それに合わせて現実が動くわけではない。

 自分の創作世界が作られるのが現実ではない。

 現実は完全に一致している必要がある。

 どんな結果であっても、確実に原因がある。

 感情的に考えて動く人は、現実との相違の分だけ予想外の結果に直面する。

 感情で現実が作れないから、周りに当たり散らしたり人に我慢させて現実を「でっち上げさせる」のだ。
 だが、母親ではあるまいし、他人に「だったことになる現実」を作らせるにはそれなりの支配力が必要だ。

 そこで必要とするのが権威だ。
 社会的な力を使うためには、自分自身の権力だけでなく、金が必要だ。

 だから安心な人生を生きるため、他人に文句を言わせない力を有するためにも「社会の言うなり」になって生きる必要性があるのだ。

 ナルシストは「私は!」と自分が正しいか悪いかの話ばかりしたがる。

 だが、社会は自分が正しいかどうかで動いているわけではない。

 自分の頑張りで人間まで支配したいなら、神にでもなればいい。

 だが、人が怖いどころか自分一人満足に動かせない「完璧な人」などいるだろうか。

 最も早いのは、不満を持たずに今ある環境に心から満足できる人になることだ。

 そうすれば、何もせずとも幸せになれる。

 僕はどうも感情的に行動できない。

 自分の感情を他人にぶつけて、責め立てたら「相手は自分を好きになってくれたり反省して自分の満足いくことをしたくなる」と思えない。

 なるわけがない。
 自分に合わせて動いてくれる親がいてこそ、そんな妄想ができるのではないだろうか?

 正直、僕は神経症の人が虐待されたことこそ疑問だ。

 親に虐待されていたら、この社会を死ぬまで一人で生き抜かなくてはならないとわかる。

 たった一人でだ。

 他人が敵になったらどうなる?死ぬまで危険だ。

 一人敵を作ることが、死ぬまでついて回る危険になる。

 相手が自分を恨んだらどうなると思う。相手は死ぬまでは同じ世界で生きている。

 自分がいない時もだ。そして相手は自分以外の沢山の人に出会う。

 怖くないのだろうか。相手一人だけが目の前にいても、その裏には今だけでなく今後出会う相手の背景に繋がる全ての人がついてくるのだ。

 そこまでの危険を負ってまで、「自分はこんなことをしてもらえた!」という体験をしてみたいものだろうか。

 例えば、今まであなたを恨んだ人がいたとしたら、今後十年経ってどこからともなくやってくるかもしれない。
 あなたが正しいかどうかは別として、あなた自身が相手に恨まれそうことをひとつもした覚えがないだろうか?

 実際には他人があなたを恨んでいるかどうかなどわからない。

 誰もが他人が何を考えているかは決して知ることはできない。

 だが、あなた自身にもし後ろ暗いことがあったら、怖くなるはずだ。
 気にしてもキリがないことだが、キリがないだけに気にならない生き方をしていなくては、自分自身の首を絞める。

 あなたが人に悪口を言えば、あなたは相手も言っているに違いないと疑うようになる。

 そしてあなたが悪口を言っていたのに相手が言っていなかったら、今後立場がまずくなるのはあなたの方なのだ。

 他人にとっては、あなたも相手も、どちらも他人なのだから。

 あなただけが相手を責めているように見えたら、あなたが何を説明しても見たままにしか他人は見ない。

 昔、悪口を言ってきた友人が「酷いやつ」と罵る相手が、どれほど酷いのか会ったことがある。

 すると、悪口を言っているその友人よりずっといいやつだった、ということがあった。

 他人は現実に何もされていない。だから実際に接してみて良い人だったら、むしろ何も知らずに出会った場合よりもっと好印象になるのだ。それは心理の仕組みだ。

 僕はこうしたことを自然に知った。気づいたという方がいいだろう。

 だから昔から、性格が悪い人に出会ったら、人には実際より良く思われそうなことを話すことにしている。

 それが、「生きる術」というものだ。

 戦うことなく、困らないように生きていくものだ。

 今は心理戦国時代。目に見えた戦いはなくなったが、人間という動物は変わらない。
 だから争いは全て心理戦になった。

 心の世界で起きている戦に勘付けないようでは、「良い子」にしている間に死んでいくしかない。

 戦わずして生きていくなど、無理なことなのだ。

 この世界そのものが、安全な世界ではないのだから。

 そして誰も守ってはくれない。誰だって、自分の命が最優先だ。

 良い子にしているかどうかは関係なく、人は自分一人が生きていくのも大変なのだから。

 気に入られて生きていきたいならば、他人の靴も舐めるくらいの覚悟で生きるしかない。

 外に出て支配的になりたいならば、その分親の尻でもぬぐって生きればいい。

 親の奴隷になって生きる方が、最悪だ。最も弱い人間なのだから。

 親と張り合う馬鹿者は、地獄から脱することはできないのだ。

 じゃあ親なんか知らない、と親を捨てた人間は、もう誰かもわからない存在があやふやな人。

 なんでもかんでも軽いノリで冗談めかして生きる人もいる。

 本人が冗談めかしていたらそうなるなら楽だが、単に現実が怖すぎて何も起きていないと思い込むことに必死なだけだ。

 とにかく、そのくらい人間は「現実が怖くて認識すら正確にできない」ものなのだ。

 おかしい!酷い!

 これは不幸と呼ぶものだが、不幸は人格が生み出した想像の産物だ。

 もし、あなたが心理的に不健康な人であって、今誰とも心から信頼し合って生きていないとする。

 その状態で、「これから出会う人たちは全て他人だから、あなた自身に無条件で警戒しているからね」と言われたらどうなる。事実そうなのだが。

 どんなに人間が好きな人でも、むしろ人間を信頼する人なら猶更、素早く危険を察知している。

 「信じてくれる人」という言葉を使う時、人間を食っている人は「自分の説明を鵜呑みにしてくれる人」を指している。

 それで誰にいいことがある。
 自分が安心するのだ。

 だから生きるのが怖くなった人は、人の脳内の認知の世界を支配することで、目の前に自分が想像した世界を作らせて安心するのだ。

 親が子供を使って安心しているように。

 これを酷いとか理想的ではないとか、そういう理由で事実そうであっても、「まかり通らせない力」があるのだ。
 そんなことに気付かれたら、もっとまずいことに気付かれるかもしれないから。

 ズルいとか酷いなんてものは、僕たち個人レベルで起きていることなどものの数にも入らない。

 どうせ僕たちは死んでも誰も気づかないような、米粒ほどもない存在なのだから。

 だから一応世間では「酷いねー」「そんなことがあるなんてねー」と言っているだけ言っていればいいのだ。

 本当に信頼できる人たちとは、きちんと今後について話し合い、力を合わせていればいいのだから。

 家族ごと権力に縋り付いているならば、下にいる人たちを蹴落とすことで必死になるだろう。

 他人と信頼とか、愛とか、口では綺麗ごとで表現しても「自分は立派にやれています!」と見せかける人生のために必死だ。

 バカな話だなと思うが、「親の力が無くなったらどうしよう」と不安になる人の多くが「親に望まれた人生を捨てて自分の望む人生を生きれば、そもそも親の力なんて必要ない」のだ。

 親の望む人生を生きるには、どうしても親の力が必要。
 だから親がまるで頼りになるように「見えている」だけ。
 「この人がいないと自分は生きていけない」と思い込ませ、不安だけ与えているのだ。

 本当に好きなことをして、本当に好きな人と生きていくならば、何も必要ないのだ。

 僕ならばそちらを選ぶ。

 「どうやっていこうか」と一緒に考えて、一緒に力を合わせる。その人生の方が充実するだろう。

 僕は事実として起きている世界を物質、精神。

 僕の認知の世界を物質、精神。

 と分けてバラバラに考えている。

 事実として起きていることはどうあっても変わらないから、そこだけ全て直視していればいい。

 それをどう解釈するかは自分次第で、それにより精神を保ち、これから生きていく力にするといい。

 言っておくが君よ、他人の中に親はいないし、親代わりもいないし、親の代わりに他人を使ったら人生おしまいだぞ。

 「誰か私をわかってくれる人さえいれば」

 と思っている人が、今後の未来が最も危険な人なのだからな。

 間違いなく最も他人と争いを起こし、今後もより一層争いの中で苦しんで生きる人だ。

 どうやって心の世界を使い、生きていけばいいのか。

 それを講座で教えると告知したが、既に予約も入っている。

 しかし、わかっていても誰も口に出してはいけないことなので僕も口には出さないが、こんな方法を教えてもいいのかね、とまだ少し考えてしまっている。

 世界が敵になるか味方になるか、これからの人生でたった一人、「自分対人類」で生きなくてはならないわけだが、君はどんな方法を編み出して生きてきただろうか?

 自分だけが人の仲間になろうとしても、人を食う人に出会ったら戦わなくてはならない。

 人を食うのだから、食われないようにしなくてはならない。

 ナルシストは人を食っている自覚がない。

 自分を救ってくれる!という素晴らしい出来事のように思いながら、癒されると感謝して人を食う。

 怖いだろう。だがそれが人間だ。最初からな。

 最初からだ。今更僕が言う事でもない。

 それが危険なことだから口に出さずにこの世を生きることは当たり前だと思うが、言っていることが本気だったら大多数の人が今後の人生は終っているな。

 希望を奪っているわけではない。現実を直視しないと、死ぬと言いたいのだ。

 もし僕が理想的でないことを言ったら、根拠なく「良いことだから」世間はもっといいものにしたがる人が出てくるだろう。

 だが、言っていたら本当になるならばそんなに楽なことはない。
 そして世間はもっといいものだと言うような人が、親も子も、伴侶も、「あいつは悪である」と叩くのだ。

 怖いだろう?だから、それが人間なのだ。

 自分を正当化しながら、仲間である人たちを「理由があるから正当なことだ」と言いながら叩くのだ。

 これは正義であると言いながら、大量に人を殺すことを正当化するように。

 それが集団ナルシシズムだ。

 そしてそれもまた、昔からずっとずっと、何千年も前からなにも変わることなくいつも通りなので、慌てることもない。

 ただ、僕たちは今後自分たちのいる場所にどんな波が来るか、せめて十年先まで脳内で確認してから、生きていればいいのだ。

 君は未来の予測をつけて生きているだろう?

 僕は怖いからそうしている。

 ただ現実を先の先まで見て、確認してから行動することにしている。

 人を簡単に批難している人は、何か強い力に守られているのだろう。

 「誰か自分をわかってくれる特別な人」などこの世にいるわけがないだろう?

 そんなことができる人がいても、自分が選ばれるまでには長い時間がかかる。

 そもそも、「事実そうである」と確信しているならば、自分の正当性など主張しなくていい。

 人に責められてもいちいち反応しなくてよい。

 どうせ現実はひとつしかない。

 放っておいて未来のために時間を使った方がいい。説明から現実は生まれてこないが、いちいち反応したらそれがあたかも本当のように見えるだけなのだから。

 この世は地獄、人は鬼。

 だが大抵の鬼は自分が鬼だと気づきたくないのだ。

 親が鬼なら自分も鬼に決まっているのにな。

 自分が鬼だと気づいた途端、周囲が「危険な状況だ」という認識に変わるからな。

 気付いても気づかなくても、危険なことには変わりない。

 だが気づかない方が気持ちは楽だ。人を罵って怒っているだけでいいのだから。

 その分対処どころか悪化する行動を取るから、未来は自分でも考えなかったくらいに最悪なものになるな。

 その日が楽しみだと思わないか。

 未来を見ないまま先を生きるなんて、まるでレールの無いジェットコースターに乗るようなものだな。

 幼児は確かに、八つ当たりをする。

 自分の気が済んだら、自分が楽になる。だから気が済んだらこれから良い展開になると思っている。

 自分が楽になって嬉しいから、みんなが自分の気持ちに合わせて動いてくれると思い込んでいるのだ。

 他人を知らない。親さえ知らない。

 自分以外は全て「他人」であると知らない。

 自分以外は、心底安心できる存在などいない。それが人間であると、まだ知らないのだ。

 バカな人は、自分が悪く思われそうなら、もっともっと相手を悪く言って、もっともっと周りに敵を作ろうとするのだ。

 自分の都合で人間を排除するため味方にしようとしている時点で、その人たちは全て敵になる。

 こういう道理がわからないのだろうな。当たり前なのだが。

 「私のために戦ってくれるなら私の味方!」と勘違いするのだ。

 自分が体験していない、見てもいないことを信じて人を叩く人は、確実に今後自分を叩いてくるだろう。
 やすやすと誰かの敵になれる人は、人を信用していない。自分のことも信用していない。

 それもまた、理由を書けば長くなる。

 とにかく、当たり前になんでもなく、ただ動物が生きているということだけは確実だ。

 人は人を捕食して寄生する。

 面白い生き物だ。子供の頃からずっと観察してきて、良かったよ。

 エメラルドゴキブリバチに似ている。

 脳を殺して、生ける屍にして寄生する。

 自分のために動くようにしてしまうのだ。

 そして最後には食う。

 食って殺す。

 人間みたいだろう?

 子供の脳の発達を停止させ、意思を失わせ、自分の意のままに動くようにして、自分が生きるために親が食う。

 だがこういうことは、言ってはいけないのだ。それくらい知っている。

 人間の世の中はもっといいものである「べき」であり、そんなことは起きていないことにしなくてはならないから。

 そうあるべきだから、本当はそうでないのに皆で必死に「そうであるかのように」生きているのだ。

 そして「そうであるかのような社会」まで作った。

 ここまでいくと、僕も街中にいると何も起きていないような気分になってくる。

 時々、「本当は何も起きていないんだ」と楽になりたくなるが、ふと我に返ればそんなことはないとわかる。

 人を見ていれば。

 確かに気づかないで嘆いて生きていた方が楽だ。

 不幸は楽だから、不幸でいた方がいいぞ。

 幸せになるほうが、遥かに辛い人生だ。僕も不幸な時の方がずっと楽だった。

 「なんかいいことないかなー」

 「誰か良い人に出会ったら」

 という根拠も確実性もない夢を描いて、「きっといつかは!」と夢物語さながらの人生を生きていた方が、幸せだぞ。

 何もいいことなんかない人生の方が、ずっと楽だから、もし君がそうならばそのまま「何も良いことなんかない人生」を送っていた方がいい。

 僕はもう元には戻れないが、幸せになんかならない方がいい。

 自分になんかならない方が、楽しい夢を見ていられるから。

 あり得ない夢を本気にできる頃に戻れるなら、僕も戻るかもしれない。

 だが、やはり現実に可能な夢を思い描けるようになると、どうしてもそちらが良くなるのだ。

 理由はひとつ。

 その方が面白いから。

 それだけだ。

 人生はつまらない方が、ずっと安心だぞ。

 不幸が辛いなんて思わないように。

 現実を直視して、「このままでは死ぬまでどうにもならない」と気づいてしまうことの方が、遥かに辛いから。

 人のせいにして、誰かがなんとかしてくれるとギリギリまで信じていた方が幸せだ。

 今はな。

君の友人 最上 雄基