日記, 非会員向け

発想の大逆転

 昨夜は歓喜であった。こんな時は早くしゃべってしまわなくてはならない。

 今構築した考えと発想が、消えていくからだ。

 自分だけ理解して納得して、なんだったのか忘れてしまう。そんなことがよくある。

 だからとにかく言葉に変える。
 文字にしているのは時間がかかるから、とにかく喋ってしまう。

 子供も喋ることによって脳を発達させている。
 子供は母親に今日一日のことを沢山喋って思考をし、記憶を定着させていく。

 東大生に対する調査で、記憶力が高い子たちはおしゃべりであった、という結論を出している先生がいる。もうひとつのブログの方に記事として紹介している。

 人に答えさせなくてはならない形で喋りまくっているのが、自分に嘘をついている不安な子だ。
 同意がないと、相手の謝罪がないと、返事が望んだ形でないと、気が済まない。喋れば喋るほど不安になり、一人で勝手に悪い妄想をして一人で存在しない架空の誰かを作り出し争う。事実は一切確認しない。

 想像が現実でないと気づかないために生きている。

 そんなことはいい。

 僕はそうではない。

 自然に生きている人を発見し、二年も前に一度会ったきりだが再び会いに行った。
 どんなに遠くで出会っても、決して忘れることなく記憶している。そんな人たちがいる。

 「この人は未来に進んでいる」という人を発見したら、決して見逃さず覚えておく。必ず力になってくれるからだ。

 僕が何か困っていると話すわけではない。
 ただ普通にしているだけで役立ってくれる。

 殆どの人は、あげまんやあげちんと呼ばれるような人の威力を舐めている。
 その価値は人生において絶大だ。
 その人が何かするのではない。自分が何かできるようになる力となっているのだ。

 本当の救い主とはこういうものだ。
 困っている自分に優しくしてくれるわけでもない。困っている状況を取り除いてくれるわけでもない。

 ひらめきをくれるのだ。

 付き合ったら人が変わる、結婚前と人が変わる、という場合がある。

 その人自身が「好きになってくれたら~してもらおう」と画策しているからだ。好きになったのは別人だ。付き合ったり結婚したからといって、それまでは「そんなこと要求できない」と思っていたことをしてもらえるわけではない。それでは詐欺だ。
 そんな場合は「付き合ってるんだから」「結婚してるんだから」と行為を義務化して強要するだけだ。

 それが支配だ。

 だが、いつも変わらず「その人自身」である人がいる。

 それがあげまんやあげちんと言うものだ。
 一貫性があり、裏表がない。

 裏表がある人は「思ったのと違う人だった!」となれば、途端に手のひら返しで敵に回る。それがスパイというものだ。

 そんなバカバカしいことをして生きていくつもりはないが、今回の金沢で教える内容には非常に自信がある。

 他人に批難されても気にしないのはなぜか。
 黙って考えていることがあるからだ。目的があるからだ。

 そして警戒するのは、「他人に盗まれること」だ。

 バレるのが怖い場合は、自信がない時だけではない。自信がある時もだ。

 だから常に、自信がある時は少しずつ少しずつ、確認をする。

 自分を大きく見せる必要がないのは、自信があるからだ。

 神経症者は「新しいことを新しいと認識しない」と言われている。

 今誰かの考えを聞いても、既に存在する「他人の意見」を持ち出してそれが正しいかどうか判定しようとする。

 これを繰り返して生きているのだから、新しいものなど一切手に入れられない。

 人は嘘の自分を作り出すと、今度は嘘が正しいとされる世の中になるよう新しい知識を自分自身に絡めて都合よく解釈していく。

 世界の理解が間違ってしまうのだ。

 「神経症の原因は親子関係にあった」

 確かに、その通りだ。だが、現在一般的に広まっている精神分析の理論では、責められた苦痛の方がクローズアップされている。

 人間の恨みが成せる業だ。

 なぜ誰も気づかないのか。

 考えないのか。

 だが、少なくとも精神分析学で説明のできない「新しい人格」とされる僕たちが存在したことで、この二百年の理解も覆る可能性が出てきた。

 殆どの人は、フロイドが残した研究は正しいと思う。アドラーが解説したならば正しいと思う。それが凡人だ。

 彼らが自分と同じ人間ではないと考えている。

 権威あるものは絶対だと信じている。それが権威主義であり、道徳性が未発達な人だ。

 自分は基礎知識もないのに、権威ある歴史に名を残す誰かの本を読んでは、その知識を自分の武器にして他人を攻撃しているバカがいる。沢山いる。

 これは凡人ではない。バカだ。

 剣術を習ったこともない人間が、如何に名刀を持たされたところで剣技がないのだから強くなるわけがない。

 やたらブランド物を身に着けたい人と同じだ。
 他人を引き合いに出せず、持ち物も同じになればなんのことは無い何もできない人間に成り下がる。

 社会的に見て強いと思われる形がなにひとつ手に入らなかった、競争に負け続けた人が最後に縋りつくのは、知識という武器だろう。

 自分の武器ではない。
 金がなくても何がなくても、簡単にパクれる唯一のものだ。

 その結論を出せるだけの思考力や知識があれば、本人が自分のことくらい自分でなんとかしている。

 こうなると最早断末魔の叫びだ。

 死にゆく人間は暴れて人を攻撃するものだ。生きる覚悟もできていないならば、死ぬ時もじたばたするものだ。

 生きる覚悟とは、即ち死ぬ覚悟だ。

 死を覚悟した人間が生きる覚悟をするのだ。

 

 人間はこと苦にばかり目を向ける。

 それこそ不幸の始まりだ。

 

 昨夜は夕飯の後、そのまま横になっていたら寝てしまった。

 早朝四時半ごろに目を覚ました。

 脳はすっきりとしていた。

 昨日は考えているうちに頭が熱くなり、頭痛がした。

 閃いて結論が出た時には、疲れ切っていた。

 なんとなく考えている時はいい。そこまで疲れない。

 思考を始めると疲れる。座っていて息切れしてくるほど疲れる。

 思考が終了すると、脱力するほど疲れ切っている。頭は熱くなっている。

 

 自分を勘違いした人が、神経症になっていく。

 それは責められるからだ、とばかり思われている。

 それも確かにある。

 だが、もっと恐ろしい勘違いはあるのだ。

 そしてそれは苦痛だと感じないから、誰も気に留めることがないのだ。

 何よりも、それは「社会的に望ましいこと」だから、恐らく事実として認めがたいのだ。

 

 暗い様子でいれば、優しくされると期待する人がいる。

 人を攻撃していれば、謝罪され尊敬されると思っている人がいる。

 嫌われるだけだ。

 怖がられるだけ。

 「自分が他人から見て怖い人間だ」と思う人は少ないだろう。

 「みんな自分を怖がっている」とは、なかなか思わないだろう。

 自分のことが怖い人は誰もいないから。

 

 安心できない人とは、不安な人だ。

 正体不明の人。何を考えているのかわからない人。

 大人しくても怖い人は怖い。不気味という意味で怖い。

 もし自分が不気味だと思われていると知ったら、怒りや憎しみが湧いてくるだろう。怖い人だからだ。

 怖い人は、とにかく人間に怖がられることばかり考えている。

 他人にとって危険なことばかり考えている。

 怖い人に近づきたいか?

 否である。

 怖い人と話し合って、怖くなくなる努力をしたいか?

 否である。

 最初からわかりやすく安心できる人がいい。

 右に安心できる人、左に怖い人がいたら、まともな感覚があれば安心できる人の方を選ぶ。

 何ができるか過去に何があったか、そんなことはどうでもいい。

 安心感がある人かどうか。

 他人は自分とは関係性がもともとない人なのだから、少しずつ知っていき安心できるまでに時間がかかる。

 だからこそ、いきなり攻撃的、いきなり不気味な人は避けていくのだ。

 一度攻撃すれば、もう相手は心の中で警戒している。

 心の中で距離を置いている。

 警戒する目に変わったのだから、さっきまでと同じではない。

 今更何を説明しても、効果はない。

 「私の行動」ではない。「他人の行動」なのだ。

 他人がどう思うか知りたいならば、自分を他人だと考えねばならない。

 自分は他人なのだから。

 「私が~したのに」ではなく「他人が~したら」と考えねばならない。

 自分がしていることのすべては、他人がしていることとして置き換えて考えねば他人の考えることは予測もつけられない。

 

 そして、他人が自分だとわかり、自分が他人だとわかる人に時々出会うと嬉しい。

 ひらめきをくれる「他人」という存在に感謝している。

 自分が身に着ける力は自分だけのものではない。

 他人の力があって身に着けられるものだ。

 だから自分一人のものだと思わず、何を身に着けても人に感謝するのだ。

 

 彼女に始めて出会った時、「なんだこの人は」と思った。

 異色であった。

 好きなことをしていた。明るく快活で自然であった。

 そして人の心を気遣っている人だった。

 いつも通り、僕は色んなことを話した。

 少しでも広まるように、努めている。

 「それはどこかで講座とか開いて教えてないんですか?」と質問された。

 日常的にそんなことを聞かれることがある。

 新しいことを新しいと認識し、知らないことに対して好奇心旺盛。

 それが、未来に進んでいる人である。

 

 新しい世界を開きながら生きている人は、人にもまた新しい扉を開かせる。

 この相乗効果を知っていれば、名のあるものが好きな人は「こんなもの」と思うものにも絶大な価値を見出すことができるだろう。

 他人の力を使おうとする人は、できるだけ強い力を持つ者を求める。

 自分の力を使おうとする人は、できるだけ強い力が湧いてくる者を求める。

 感じられるのは自分の力だけ。

 自分の力がわいてきた時に何をきっかけにしているのかわからないようでは、あげまんもあげちんも、出会ってもなんの意味もないのだ。

 「自分を諦めた人」は、自分に何かができるなどと微塵も思わないのだから。

 

 俺は天才だが、他人に肯定されることを必要としない。

 「天才だよ」と確認してもらえるならば、もう天才ではないのだ。

 「既に誰もが知っている」のは、過去の誰かなのだから。

 同じブレインタイプだと教えてもらってから、ジョブズが好きになった。坂本龍馬も好きになった。

 自分をもっと好きになった。

 

 何が正しいかの議論をしているだけの人間は、意見が一致して全員が同じものを正しいとするまで動かない。

 それぞれが「今までの自分が正しい」ことにしたがる。

 だから今まで通りの自分と、方向性のまったく変わらない未来が待っているのだ。

 不幸な人が何も悪くないならば、今までのまま生きていくしかない。

 誰かがなんとかしてくれるまで、何も変わらないのだ。

 路頭に迷っているのは今目の前にいる人のせいなのか?

 そんなことさえどうでもいい。

 大切なのは今、そして未来だ。

 僕は未来に進む。

 人生に退路なんてものは、最初から存在しないのだ。

 後ろを向いて前に進むか、前を向いて前に進むか、その違いでしかない。

 何が起きるか怖くても、「今何が起きているのか」を直視した時から前向きな未来が始まるのだ。